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中国三大悪女まとめ【閲覧注意】残虐。それでも惹かれる

事件 怖い話 歴史

出典abc0120.net

呂 雉(りょ ち、? – 紀元前180年)は、漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。字は娥姁(女偏+句)。謚は高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后、呂妃とも呼ばれる。「中国三大悪女」として唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と共に名前が挙げられる。

呂后は非常に権力に貪欲で嫉妬深い皇后だった。皇帝の寵愛を受けていた美しい側室・成夫人を残酷な方法で殺した。

手足を切り落とし、目玉をくり抜き、鼻をそぎ落とすと、喉と耳を毒で焼いたのだ。

呂后は、声も出せず音も聞こえない上に、見るに堪えない姿の側室を、かつての美しさを知る者たちに見せて楽しんだ。

その後、側室は便所に捨てられた。

威夫人という、特に劉邦に愛された女性に対しては、その手足を切断し、自殺できないように舌を切り、便所に放り込んで人糞を喰わせた。これを「人間豚」と称して見せ物にしたという。

生年月日:西暦624年2月17日

死没:西暦705年12月16日

武則天(ぶそくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照(曌)。日本では則天武后(そくてん ぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。

李治は武則天を溺愛するようになり、娘が誕生します。子どもの居なかった王皇后は、李治の子どもが生まれたと、その子をかわいがります。
ところが、皇后の座を狙う武則天は、その王皇后や蕭淑妃の抹殺を企てます。武則天は、わが娘を自らが絞め殺し、それを王皇后の仕業だとして、王皇后を皇后の座から蹴落とします。

李治は、4歳年上の武則天に心を奪われ、周囲の反対の声も聞かず、武則天を皇后にしてしまいます。
皇后となった武則天は、その王前皇后等を虐殺しています。
武則天は、王前皇后と蕭前淑妃を百叩きにした上に、四肢を切断して、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込み、二人は酒壷の中で数日後に絶命しています。
こうして、まるで鬼畜かのごとく唐王朝の実権を握った武則天は、身内の武氏一族を重用しますが、冷酷非道に子や孫であろうと自らに反抗する者を容赦なく抹殺し、また密告により反対派を徹底して潰すなど、独裁的な恐怖政治を横行させました。

※李治=中国唐第三代皇帝

西太后(せいたいこう・せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) – 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は、清の咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。

紫禁城内における2人の皇太后の住む場所によって東太后(皇后・鈕祜禄(ニウフル)氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西太后(第2夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。

18才で後宮に入り、権力の座に着いてから実に半世紀もの長きに渡って中国最後の清王朝に君臨したのである。この権力掌握の長さは前代未聞である。
気性の激しい彼女は、正室を毒殺し、光諸帝(こうしょてい)の側室を、多くの人間の見守る中、生きたまま井戸に投げ落として殺したとも言われているのである。

ひきずり出された珍妃に、西太后はいった。
「洋鬼子(西洋の鬼ども)のはずかしめを受けたら困るので、お前もつれていってやる」
すると、地べたに伏していた珍妃は、
「皇帝陛下は北京にとどまり、洋鬼子との和議にあたられるべきでございましょう」
といったのである。西太后は激怒した。
「井戸にぶちこんでしまえ!」
光緒帝が泣いて西太后のひざにとりすがり救命を乞うたがだめだった。李蓮英ら太監たちがかるがると珍妃をだきあげ、寧寿宮わきの井戸にほうりこんだ。地に伏して泣く皇帝を輿におしこめると、一行は出発した。

※珍妃=光諸帝の側室

文献



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