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ファンタジックな仏教用語

仏教

仏教を辛気臭いと感じる人も多いようだが、その宇宙観はなかなかに幻想的で壮大である。中二病マインドを刺激してくれる、カッコいい仏教の言葉をピックアップした。

古代インドの思想における理想的な王を指す概念。
地上をダルマ(法)によって統治し、王に求められる全ての条件を備えるという。

仏典の記述によれば、転輪聖王の概念とは大雑把に以下のようなものであった。

世界は繁栄と衰退の循環を繰り返し、繁栄の時には人間の寿命は8万年であるが、人間の徳が失われるにつれて寿命は短くなり、全ての善が失われた暗黒の時代には10年となる。その後、人間の徳は回復し、再び8万年の寿命がある繁栄の時代を迎える。

転輪聖王が出るのはこの繁栄の時代であり、彼は前世における善行の結果転輪聖王として現れる。仏陀と同じ32の瑞相を持ち、4つの海に至るまでの大地を武力を用いる事無く、法の力を持って征服する。

尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。

元々、インドの宗教一般で「尊敬されるべき修行者」をこのように呼んだ。[要出典] 初期仏教では、修行者の到達し得る最高位をこのように呼ぶ。[要出典] 学道を完成し、これ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を「無学位」という。それ以下は、不還果(ふげんか)・一来果(いちらいか)・預流果(よるか)を「有学(うがく)」という。(四向四果)
(略)
仏教では、阿羅漢でない者が阿羅漢を名乗ることを故意・過失を問わず「大妄語」とし、最も重い波羅夷罪を科して僧団追放の対象とした。
大乗仏教の漢訳圏では、経典内の阿羅漢の用法がよく理解されず、声聞と阿羅漢とを同一視し、菩薩や仏と対置して批判的にみる俗説が通流した。
その一方、中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を十六羅漢、第1回の仏典編集(結集)に集まった500人の弟子を五百羅漢と称して図像化することも盛んであった。

廻向とも書く。自分が行なった善をめぐらし翻して,他人をも悟りの方向にさしむけること。転じて仏事法要を営んで死者を追善すること。

自分の修めた善行の結果が他に向って回(めぐ)らされて所期の期待を満足することをいう。
善行の報いは本来自分に還るはずだが、大乗仏教においては一切皆空であるから、報いを他に転回することが可能となる。

仏教の時間の概念の1つで、最小単位を表す。念とも。

刹那の長さについては諸説あるが、指をひとはじきする(弾指)間に65刹那あると言われているほか、『大毘婆沙論』では、24時間=30牟呼栗多=900臘縛=54,000怛刹那=6,480,000刹那とし、1刹那の長さを1/75秒に比定している。

しかし、唯識教学の開祖である龍樹は、刹那に具体的な時間的長さを設定する思想を否定している。

古代インドの世界観の中で中心にそびえる山。インド神話ではメル山、メルー山、スメール山ともいう。

古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山であり、この世界軸としての聖山はバラモン教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教にも共有されている。
(略)
仏教の世界観では、須弥山をとりまいて七つの金の山と鉄囲山(てっちさん、Cakravāḍa)があり、その間に八つの海がある。これを九山八海という。

「須弥」とは漢字による音訳で、意訳は「妙高」という。

古代インド(バラモン教・ジャイナ教・仏教等)の世界観における人間が住む大陸。

四大洲のうち、南に位置する三角形の大陸をジャンブー・ドヴィーパ(閻浮提)と呼ぶ。玄奘以降の新訳では瞻部州(せんぶしゅう)と訳される。また、南方にあることから、南閻浮提(みなみえんぶだい)、南瞻部洲(なんせんぶしゅう)ともされる。
大きな森があり、そこに閻浮(Jambu)樹と呼ばれる常緑の大きな木があることから閻浮提とよばれる。インドの地をモデルにしたもので、雪山(Himavat、せつせん)という山の頂にアナヴァタプタ(Anavatapta)という名前の池(阿耨達池: あのくだっち)があり、四方に大きな川が流れる。その後、現在人間が住む世界を指すようになった。

末那識(まなしき、Skt:Manas-vijnaana)とは、大乗仏教の唯識説の説く八識のうち第七識であり、第八識(阿頼耶識)を所依として、第八識の見分を所縁として生じる識である。

第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩、作意・触・受・想・思の五遍行別境の慧、大随惑の八(不信・懈怠・放逸・惛沈・掉拳・失念・不正知・散乱)であるとされる。

こだわりや、わだかまりの心。

人間の心の三つの大きな特徴のひとつ「罣礙心(けげしん)」、これは「ひっかかりの気持ち」。罣は「障り」礙は「妨げる」という意味、どちらもひっかかる、こだわる」ということを意味する。(略)

「心に罣礙無し」というのは、「空のような広い心と、海のような深い心を持っている」ということ。また「心に罣礙無く」というのは、「もっと素直になりなさい」ということ。素直になれば天地自然のものの道理がよく見えてくる。

釈迦が初めて仏教の教義(法輪)を人びとに説いた出来事を指す。

具体的には、釈迦が菩提樹下で悟りを開いた後、ヴァーラーナスィー(波羅奈国)のサールナート(仙人堕処)鹿野苑(施鹿林)で元の5人の修行仲間(五比丘)に初めて仏教の教義を説いた出来事を指す。当初は誰も耳を傾ける者がなく、鹿を相手に法を説いたとする経典もある。

禅宗において禅の法脈を釈尊から受け継いだとされる伝説のこと。

インドの霊鷲山(グリドラクータ)上で釈尊が黙って華を拈(ひね)ったところ、大衆はその意味を理解することができなかったが、迦葉尊者だけがその意味を理解して破顔微笑したため、迦葉に禅の法門を伝えたという。

生死を超越した境地に入ること。高僧が死ぬこと。

入滅(にゅうめつ)とは、仏教用語で、滅度(めつど)・寂滅(じゃくめつ)ともいい、サンスクリットの「निर्वाण」(Nirvana、ニルヴァーナ)の訳、煩悩の炎が吹き消えた状態、宗教的解放を意味する解脱のことである。
「涅槃」「泥洹(ないおん)」などとも音写される。また、老荘思想の重要概念語「無為」と訳されることもある。よって、「入滅」とは、そのような境地に入ることをいう。

ただし、完全な解脱は肉体の完全な消滅、つまり「死」によって完結するから、「入滅」とは、宗教的に目覚めた人が死ぬことをも意味する。



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