豊臣秀吉の重臣だった侍に「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれた青年たちがいました。賤ヶ岳で豊臣秀吉が柴田勝家と戦った際 ,秀吉の近習で勇名をはせた加藤清正,福島正則,加藤嘉明,平野長泰,脇坂安治,糟屋武則,片桐且元です。やがて豊臣家が滅亡する中、彼らの運命をまとめてみました。
豊臣秀吉の重臣だった侍に、「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれた青年たちがいました。
彼らは秀吉の天下取りとともに取り立てられ、その多くが大名になります。
しかし、秀吉の死後、豊臣家を滅亡させた徳川家康に手を貸した挙句に、改易させられるなど、数奇な運命をたどります
七本槍だった青年たちの、その後の運命をまとめてみました。
賤ヶ岳の戦いは、天正11年(1583年)、近江国伊香郡(滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で行われた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と織田家の重臣柴田勝家との戦いである。
秀吉が柴田勝家の妻となっていた、お市の方を自害させたのもこの戦いです。
この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって、織田信長の継承者となることを決定づけた。
賤ヶ岳七本槍とは?
七本槍のメンバーも名前入りで描かれています。
賤ヶ岳で豊臣秀吉が柴田勝家と戦った際 ,秀吉の近習で勇名をはせた加藤清正,福島正則,加藤嘉明,平野長泰,脇坂安治,糟屋武則,片桐且元の7人をいう。
11歳頃から秀吉に小姓として仕え、秀吉に可愛がられて豊臣家の重臣となる。朝鮮出兵時は先兵としての漢陽(ソウル)を攻略。後世に「鬼将軍(清正)」と言い伝えられた。
秀吉の死後、石田三成との確執から関ケ原の戦いでは東軍(家康側)に参加。論功行賞で肥後南半を与えられ52万石の大名となる。
慶長15年(1610年)、6月24日に熊本で死去した。享年50歳。死後、三男・忠広が跡を継いだが、寛永9年(1632年)に加藤家は改易となった。
清正の死去して21年後に加藤家は改易になります。改易を知らずに済んだことは清正にとってむしろ幸いだったと言えるかも知れません。
加藤清正は、永禄5年6月24日(1562.7.25)、尾張国愛智郡中村で刀鍛冶・加藤清忠の子として生まれたといいます。幼名、夜叉丸。元服後、虎之助。幼少より秀吉に仕え、多くの武功を挙げ活躍した知勇兼備の名将であり、築城の名手としてもよく知られています。
豊臣秀吉の従兄弟にあたり、幼少より小姓として秀吉に仕えて出世。賤ヶ岳の戦いのときは七本槍の中でも突出して5,000石を与えられた(他の6人は3,000石)。
関ケ原の戦いでは、三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約。関ヶ原の戦いの後、近畿地方(広島藩)に50万石を得た
家康死後まもなくの元和5年(1619年)、2代将軍・徳川秀忠の時に城の無断改修を咎められ、50万石を没収、信濃国川中島4万5,000石に減封・転封される。その5年後に64歳でこの世を去った。
最後は幕府の仕打ちに耐えかねての死であったとも言われています。
石田三成・大谷吉継どころか、加藤清正・福島正則も当初は内務官僚です。秀吉の直轄領支配の経営、検地や刀狩りの実施、諸大名と秀吉の取次役など。三成と吉継はこの時点ではほぼ同格、清正・正則は大名に転身して内務官僚から離脱。 twitter.com/shigeta_only1/…
片桐且元
浅井氏配下の国人領主・片桐直貞の長男として、弘治2年(1556年)に生まれた。浅井氏滅亡後、若くして秀吉に仕官、賤ヶ岳の戦いで活躍し七本槍のひとりに数えられた。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは石田三成方(西軍)に付いたが、東軍が勝利すると長女を家康への人質に差し出して豊臣と徳川両家の調整に奔走。その功績から家康から大和国竜田2万4千石を与えられ、家康の政治を幼い秀頼の代行として承認し協力する立場となった。
家康と豊臣家の確執の中、淀殿の側近たちから家康との内通を疑われ、大阪城を出で家康側に参陣する。慶長20年(1615年)豊臣家が滅亡した大坂夏の陣からほどなく、京屋敷にて60歳で死亡。
大坂夏の陣から20日ほどで死亡しています。
今日は板挟み助作こと片桐且元公の御命日です。 ご存知、豊臣家存続に奔走した非戦派ですが、味方からは裏切者呼ばわり…。戦場を自由に駆け回り七本槍に選ばれたあの日が懐かしったことでしょう。そんな彼の苦悩は「桐一葉」という歌舞伎になっています。 皆様、御命日をお祈りしましょう。#戦国
平野長泰役の近藤芳正
若くして羽柴秀吉に仕えた。賤ヶ岳の七本槍となり、その功績によって河内国で3,000石の知行を与えられた。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは東軍に属した。しかし、慶長20年(1615年)の大坂の陣では旧恩に報いようと豊臣方に合流しようと奔走し、家康に直訴したが、許されずに江戸留守居役を命じられる。
加藤嘉明
13歳で羽柴(豊臣)秀吉に仕え羽柴(豊臣)秀勝付き,次いで秀吉直属となる。天正11(1583)年の賤ケ岳の戦で七本槍のひとりとして功あり3000石を与えられた。
関ケ原の戦では東軍に属し,戦後伊予松前20万石となる。最後は会津若松城主40万石に封ぜられたが、寛永8年(1631年)に江戸で病死。享年69歳。
嘉明の死後、家督は嫡男の明成が継ぎましたが、お家騒動により改易されています。
七将に加藤が二人いて分かり辛いだと?ならば人食い虎と戦って勝つ方が加藤清正、人食い虎が現れても気にせず寝ている方が加藤嘉明と覚えればいい。ちなみに虎を倒した家臣を叱るのが黒田長政、叱られるのが後藤又兵衛だ
はじめ浅井長政に仕えたが、浅井氏滅亡以後は、織田家に属して明智光秀の与力となる。その後、自ら頼み込んで秀吉の家臣となる。
関ヶ原の戦いでも家康に与するつもりであったが、安治が大坂に滞在していたときに石田三成が挙兵したため、やむなく約1,000名の兵を率いて西軍に付いたとされる。関ヶ原の本戦では西軍に寝返ったが、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に家康から所領を安堵された。
慶長14年(1609年)に伊予大洲藩5万3,500石に加増移封された。寛永3年(1626年)8月6日に京都で死去。享年73歳。
脇坂家は大名という大身のまま明治維新まで存続、現在も家系が続いているそうです。
糟屋武則
天正5年(1577年)羽柴秀吉の小姓頭となり、賤ケ岳の戦で七本槍のひとりとして功あり3000石を与えられた。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは石田三成方の西軍に加わり、伏見城の戦いに参加した。関ヶ原の本戦では宇喜多秀家隊に属して奮戦したとも、参戦せず大坂に滞在したとも言われている。戦後、家禄を没収されて改易された。晩年に関しても諸説あり、正確なことはわかっていない。
関ヶ原の戦いの後は、牢人して巷間に埋もれたとも言われており、その後が判らなくなっています。
実のところ『賤ヶ岳七本槍』は子飼いの武将がいなかった秀吉が、若武者達の主だった者達を世の中に大きく認知させる為の宣伝だったとも言われています。
その多くが大名になりますが、最後は改易や断絶してしまいます。家名を存続させたのは「脇坂安治」「平野長泰」の二人だけでした。
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