小学校で習う歴史のまとめです。小学6年生が使う東京書籍が出版している「新編あたらしい社会6上」を参考にしています。今回は平安末期から鎌倉時代が中心です。源義家、源義朝、平清盛、源頼朝、源義経、蒙古襲来、保元の乱、承久の乱、平治の乱、源平合戦、征夷大将軍、文永の役、弘安の役、元寇など。
武士の登場
平安時代には、地方の豪族たちは私有地を広げていったのであった。
9世紀の中ごろから、豪族や有力な農民たちは、自分たちの土地や財産をまもるためには、兵力(へいりょく)をたくわえていった。一族の者や、手下の農民たちに武装させるようになった。
このようにして、武士(ぶし)が、できていった。
豪族(ごうぞく)とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。
武士たちは、一族の かしら を棟梁(とうりょう)として、それぞれの一族ごとに武士団(ぶしだん)を結成(けっせい)していった。
貴族の中にも、これにならい、武士団をつくり棟梁となって兵を指揮する者が、地方貴族から出てきた。源氏や平氏などが、そのような貴族の武士である。
源氏も平氏も天皇の子孫です。
源氏の影響力が強くなる
東北地方での反乱
10世紀の1051年には東北地方で反乱が起き、安倍頼時らが反乱を起こします。この反乱の鎮圧を、源氏である源頼義(みなもとのよりよし)および源義家(みなもとのよしいえ)らの兵が鎮圧します。この反乱と鎮圧の争乱を 前九年の役(ぜんくねん の えき) と言います。 源氏が鎮圧を行ったので、関東地方では源氏の影響力が強まります。
保元の乱(ほうげんのらん)
源頼朝(みなもとのよりとも)や、源義経(みなもとのよしつね)の父
活躍したのが源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛(たいらのきよもり)です。
(犬猿の仲のような2人ですが、この時はまだ仲間同士でした)
この保元の乱は、夜襲により後白河天皇側の勝利となります。
この乱により見事活躍して見せた武士達が力を付けていく転機となったと言われています。
源義朝(みなもとのよしとも)は源頼朝(みなもとのよりとも)の父です
平治の乱(へいじのらん)
平清盛(たいらのきよもり)
保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。
源氏と平氏の争い(源平合戦)
きっかけは、後白河法皇の次男である以仁王の呼びかけです。
「これ以上、平氏の連中に好き勝手やらせていいのか?平清盛の孫にあたる安徳天皇を天皇の座から引きずりおろし、新しい政権をつくり上げようじゃないか!」
と声を上げます。その呼びかけに答えたのが、各地の武士たちです。その中で特に活躍することになるのが、かつて平治の乱で平清盛に敗れた源義朝の子、源頼朝や源義経でした。
源頼朝(みなもとのよりとも)
源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。
これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。
源義経(みなもとのよしつね)
源頼朝(みなもとのよりとも)の弟
源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)
鎌倉時代以降、幕府の主宰者の職名。鎌倉幕府を開いた源頼朝以後、室町幕府の足利(あしかが)氏、江戸幕府の徳川氏まで引き継がれた。将軍。
武士をまとめていく最高の地位のこと
承久の乱(じょうきゅうのらん)
征夷大将軍の任命からわずか7年。1199年に源頼朝が馬から落ち怪我をしたのが災いし、亡くなってしまいます。
源頼朝は馬から落ちたことが原因で亡くなってしまう
1221年(承久3)後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げ,逆に幕府軍に大敗
後鳥羽上皇は政治の北条氏を倒す命令を出した。
しかし、北条側幕府軍と朝廷軍の戦いは北条氏の側が勝った。
北条政子の訴えで結束を固めた幕府軍はめちゃめちゃ強く、わずか1ヶ月で乱は鎮圧。後鳥羽上皇をはじめ、3上皇は各地に配流され、関係した公家たちも処罰されました。
そして、上皇側の領土も没収され、その領土は功績のあった御家人たちに配られ、以後、幕府の力は更に強固なものとなるのです。
北条政子は源頼朝の正室(奥さん)
結果、北条氏が実権を握っていく
元(モンゴル)の大群がせめてくる
日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。
特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった。
主に九州北部が戦場となった。
1274年、ついに元が日本に攻め込みます。元が約3万人の軍勢(ぐんぜい)で博多湾(はかたわん)に上陸し、元(げん) 対 日本の戦争になります。
最終的には暴風雨の影響により元軍が引き上げたので日本が勝ちますが、元との戦いでは元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と呼ばれた)や、毒矢(どくや)、元軍の集団戦に苦戦しました。
1281年に、元(げん)の軍勢(ぐんぜい)は、再び日本に襲来(しゅうらい)してきます。今度の元(げん)軍は14万人もの大軍(たいぐん)です。 日本は、勝ちます。この1281年の戦争を 弘安の役(こうあんのえき) といいます。この弘安の役でも暴風雨により元軍は被害を受けました。
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参考リンク
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