富野由悠季「エヴァ旧劇場版は伝説巨神イデオンの完全コピー」を徹底検証! | 質問の答えを募集中です! 富野由悠季「エヴァ旧劇場版は伝説巨神イデオンの完全コピー」を徹底検証! | 質問の答えを募集中です!

富野由悠季「エヴァ旧劇場版は伝説巨神イデオンの完全コピー」を徹底検証!

エヴァ

こちらのまとめは「エヴァ旧劇場版」、または「イデオン劇場版」を既に観た方向けです

「旧劇場版見たけど、よくわからん!」と言う人はこちらがおすすめです

あまりに難解な内容で劇場公開時(1997年)からずっと賛否両論であった

この辺から歴史的な超展開

その当時、アニメ界の巨匠からも「自身の作品のコピー」と批判されてしまった

ガンダムなどで有名な富野監督が、エヴァと庵野監督に対し強く批判していたのは有名です。
雑誌で「エヴァンゲリオンは伝説巨神イデオンの完全コピーに近い」と発言していました。

「スパロボ」などで有名ですね。

本当に富野監督の言う通り完全なコピーなのか?多くの共通点を見てみよう

第一部では、両者が、ほぼ同じ構造を持つことを確認します。

<物語の前史――発掘>

エヴァでは、まず南極における謎の巨人アダムの発掘が行われる。その成果として、のちにエヴァが製造されることになる。なお、アダムは当初(脚本時まで)第2始祖民族もしくは第二先住民族が残した遺産とされていた。

イデオンでは、第六文明人の遺産の中から、母艦であるソロシップと、ロボットであるイデオンが発掘される。

<物語の開始――二つの遭遇>

エヴァンゲリオンとイデオンは、どちらにおいても、主人公(シンジとコスモ)は、二つの謎の存在に出会うところから始まる。

エヴァンゲリオンにおいては、襲いかかるシトであり、それを迎え撃つためのエヴァンゲリオンである。

イデオンにおいては、攻撃を仕掛けてきたバッフクラン軍であり、たまたま発掘されたイデオン(及びソロシップ)である。

<敵について>

エヴァンゲリオンにおいては、第4シトを倒したことにより,敵の解析が進められる。
リツコ「人の遺伝子と99.8%まで同じよ」

イデオンにおいては、捕虜となったカララを調べることにより、自分達もバッフクランも、肉体的には全く同じであることがわかる。
シェリル 「カララは私達と全く同じだったわ」

エヴァンゲリオンを動かすには、搭乗者とエヴァとの間でシンクロを示すことが必要である。つまり、技能以上に精神面(シンクロ率)が重要なのである。

イデオンも、パワーを引き出そうとすると精神的なものが必要となる。特に、物語の展開に従って,イデの力は子供の純粋な防衛本能に反応しやすいことがわかってくる。
(赤ん坊であるパウパールーの泣き声に呼応して)「イデのゲージが光りました」

シェリル「コスモとカーシャの脳波測定の結果ではね。2人が危険を感じた時にイデオンのゲージのエネルギーが上がるように見えるんだけど」
シェリル「イデオンのパワーアップと乗っている人の脳波結果ね、一致するのよ。」

<暴走と恐怖あるいは悪魔の叫び

エヴァは時に暴走する。そして、人間に制御不能となった時こそ、潜在的な力を十分に発揮し、敵を圧倒する。
「暴走です。」
そして、その姿は、敵にも味方にも恐怖を与える。
アスカ「私達、こんなのに乗ってんの」
自衛隊 「まさに、悪魔か」
時には、生物を思わせる咆哮をあげることさえある。

イデオンは、時に防衛本能により強大なパワーを発揮する。あまりの強力さに、主人公たちは自分達のやっていること(自分達の防衛)の正当性さえ疑うこととなる。
シェリル「イデの力、良き力の現れなんていうけれど、この破壊力は悪魔の力よ。あまりにも大きすぎる」
そして、時にはやはり、咆哮をあげる。
最終的に搭乗員達は、制御できないマシンを使用することを拒否し、母艦であるソロシップともども、イデオンを破棄することにする。
マーシャル「悪魔に魅入られた船なら、捨てる気にもなるな」

しかしながら、これは、イデの意思により実現しない。

<二つの敵対種族のこころの交流>

エヴァ24話において、最後のシト、渚カヲルが現れる。彼は、シンジとの間に精神的な交流をもち、シンジは、他のヒト以上にわかりあえる気がする。
シンジ「どうして、カヲル君にこんなこと話すんだろう」
そして、敵対する種族という枠を超えた感情が産まれる。

カヲル「ありがとう。君に会えてうれしかったよ。」

イデオンにおいては、捕虜となったカララと、ベスとの間に恋愛感情がうまれる。戦いをやめさせようとしたカララは、実の姉およびバッフクラン軍から辱めをうけ、自分には帰る星がなくなったことに気づく。

カララ「バッフクランにはもう戻れません。」
ベス「カララ、私達のような異星人でいいのか?」

一方、バッフクランから寝返ったギジェと、それをかくまったシェリルとの間にも、こころの交流がはじまる。

エヴァにおいては初めは防衛戦争かと思われていたものの、やがてゲンドウ及びゼーレによる人類補完計画のためのステップであることがあきらかになってくる。

一方、担当レベルの者たちにとっては、人類補完計画の内容は知らされていない。彼らは、世界のためというわけでもなく、主に自分の内面的な要請に基づいてシトと戦っている。例えば、ミサトにとっては、父の仇討であり、シンジにとっては、父に認められたいからであり、アスカにとっては、自分の評価をあげるためである。

イデオンにおいては、当初は誤解やイデの力の争奪から始まった戦争ではあるが、やがて、カララとその姉との、つまり姉妹間の感情的ないざこざが大きな要因となる。特に、姉の恋人がイデオンによって殺されたにも関わらず、妹のカララは恋人ベスとの間に身ごもったことが、姉にとっては絶対許せない問題となる。

一方、そもそも地球人とバッフクランが戦うように仕向けたのは、イデの意思によるものであることが後々明らかになる。

つまり、エヴァにおいてもイデオンにおいても、戦いの理由は2重化されており、上位レベルは謎となっており(イデの意思、人類補完計画)、下位レベルでは内面的な肉親コンプレックス(ハルルのカララへの思い、ミサトやシンジの父への思いなど)に基づいている。

<人類同士の戦い>

エヴァにおいては、シトがいなくなったあとは、ゼーレとネルフとにおける、ヒト同士の戦いへと突入する。

冬月「結局、ヒトの敵はヒトか」

イデオンにおいては、ソロシップがバッフクランの攻撃をさけて地球人側の援助を受けようとするが、拒まれた上に逆に攻撃もされる。また、最後にはバッフクランと地球人が協力して攻撃してくることもある。
シェリル「人間同士よ、お互いに助け合う義務があるわ」
ベス「我々人類は、それほどまでにやさしくはないぜ」

カララ「異星人より、身内の方が恐いものです。」

<出来そこない>

エヴァにおいては、人類は欠陥をもっているとされ、そのために補完計画が要請される。

「出来そこないの人類を、互いに補完してまとめあう、それが人類補完計画」

「人間、この不完全な生き物」

イデオンにおいては、どうしようもないお互いのエゴから生まれる戦いの中で、人類は出来そこないであるという認識に至る。

コスモ「俺達、出来そこないの生物の、その憎しみのこころを根絶やしにするために・・イデは・・」

ドバ「我らを戦わせたのか・・」

出典amarukeiichi.blog42.fc2.com

最初はただの兵器と思われたエヴァシリーズだが、実はヒトの意思が埋め込まれていることがわかる。

リツコ「ただのコピーではないわ。エヴァにはヒトの意思が埋め込まれているもの」

そして、シンジやアスカは、時に対話のようなものを行う。20話、25話など。

イデオンにおいては、ベスは病の中で、意思の集合体イデと対話を行う。また、コスモもカララに輸血するさい、イデとの対話を行う(接触編)。

<群体が宿る場としてのマシン>

エヴァにおいて最大の謎である人類補完計画とは、個人を群体化する計画であった。

そして、エヴァの役割とは、ヒトの意思の集合体が宿るためのよりしろになることであった。

イデオンにおいて最大の謎である、イデとは第六文明人の意思の集合体であることがわかる。そして、イデオン及びソロシップは、第六文明人の意思の集合体が封じ込められている場であった。

<悪魔と神>

エヴァは、悪魔にも神にもなりうる両義的な存在である。
「人類を救う救世主となるか、悪魔となるか、すべては碇の息子に委ねられたな」 

イデオンのイデも、良き力の発現と、悪しき力の発現の可能性がある。
「私は信じます。イデには良き発現があるということを」

<救世主>

エヴァにおいて、シンジは初号機もろとも、量産エヴァにより復活した生命の木に磔となる。これは、ゼーレによって贖罪の儀式とみなされる。この、キリストと同じ構図が意味するのは、エヴァ初号機が贖罪の生贄であり、ある意味救世主であることである。

冬月「人類を救う救世主となるか、悪魔となるか、すべては碇の息子に委ねられたな」

イデオンにおいては、二つの敵対する種族であるベスとカララの子は、メシア(救世主)と名づけられる。

<戦いの終局>

エヴァにおいては、戦略自衛隊がネルフに進入し、殺戮を行う。この過程の中で、サードインパクトが起きる。

イデオンにおいては、ソロシップにバッフクランが進入し、やはり殺戮を行う。この過程の中で、イデの発動が起きる。

出典yaplog.jp

<世界の破滅>

サードインパクトが発生し、ヒトはこれまでの進化を止め、リリスの卵へと帰っていく。
キール「始まりは終わりに等しい。よい。全てはこれでよい。」

イデが発動し、全てが消滅。

<救世主による、新たなる生命の歴史へ>

シンジは、最終的に人類の存続を願う。この内面的な葛藤は実写も交えて行われる。2種族の友好の希望の証である、カヲルとレイに導かれて、裸で海に復活する。

最後に、シンジは浜辺でアスカが横にねているのに気づく。シンジはアスカの首を絞めるが、なでられて、泣きじゃくる。

なお、TV版26話では、最後に「全ての子供達(チルドレン)に、おめでとう」で終わる。

イデオンでは、登場人物達(霊魂?)は裸で宇宙をさまよう。コスモはねたきりであり、なかなか起きない。カーシャやキッチ・キッチンがキスなどをして起こす。

2種族の友好の希望の証であるメシアに導かれて、また、ある惑星の海の中にはいっていく。そこで海の実写となっていく。

なお、メシア誕生のシーンでは、「ハッピバースデイ、ディア・チルドレン」の合唱が響く。

<まとめ>

要するに、イデオンとエヴァンゲリオンは、おおまかなストーリーをこうまとめられます。

人類は、太古より眠っていた物体を発掘し、それを利用して兵器とします。

主人公は、その兵器に乗りこみ、遅いかかる謎の敵と戦いますが、やがて、その兵器には心があり、それに呼応して動くことがわかります。そして、時に、咆哮をあげながら暴走し、圧倒的な力をみせつけます。また、これにより、制御しきれない兵器として恐怖の念を起こさせます。

一方、謎の敵とみなされていたもの達が、実は自分達とほとんどかわらない生命体であることがわかり、一部では心の交流が生まれます。

やがて、この戦いが、実は単なる種族抗争ではなく、人類の有り方を決めるため、別の意思によって導かれていることがわかります。問題の兵器も、人類の群体化を目的として作られたものであることが判明します。そして、出来そこないの生物である人類の、様々なエゴのぶつかりあいのなか、戦いは終局へと向かいます。

最後は敵に進入され、生身の人間同士の銃撃戦となっていきます。その中で、サードインパクトなり、イデの発動なりが起き、世界は終焉を迎えます。

しかしながら、両種族の融合である存在が、救世主としての役割を果たし、人類の生命としての歴史は再び始まります。

第二部 差異

実際にエヴァとイデオンを見比べてみると、違う部分が目立ちます。例えば、主人公を取り巻く人間環境などです。また、1話1話の演出は全く異なります。これは、当然といえば当然でしょう。かたや、ほぼ現代の日本を舞台にしており、かたや西暦2300年の宇宙移民を舞台にした物語です。

むしろ、ここまで舞台設定が異なるにも関わらず、第一部でみましたように、物語の構造は同じであることに注意すべきでしょう。

出典エヴァンゲリオンとイデオン

よって、個々の演出の違いやストーリー展開の差異についてはここでは考慮しません。エヴァとイデオンがほぼ同じ構造を持つ物語である以上、本質的な意味での2作品の違いは、同じようなストーリーや演出を考察することでこそ、明確化されるはずです。

<出来そこない>

例えば、「出来そこない」というセリフを考えてみましょう。これは、どちらでも、使用されるセリフです。

イデオンでは、人類が出来そこないであるということをどのように表現しているでしょうか。

それは、地球人とバッフクランの、エゴや防衛本能剥き出しの戦い、地球人同士の仲間割れ、何よりも、姉ハルルによる妹カララの射殺を頂点とする、人間同士の無理解、全てが間違っていることに気づきながらも戦いをやめられなかった、ドバやソロシップのクルーの姿を描くことで表現されます。

つまり、人間のエゴや愛憎を徹底的に描ききることで、人類の限界や不完全さを、視聴者が納得いくまで表現しているのです。

コスモが、「俺達、できそこないの生物の・・」と絶叫するとき、その言葉をとがめだてする気は、我々には起きようがないでしょう。

それに比較して、エヴァンゲリオンではどうでしょうか。オープニングに生命の木が登場することに象徴されるように、キリスト教の伝説にのっとり、知恵の実を食べた、できそこないの人間という位置付けがなされます。

「臆病さゆえに、知恵を発達させた人類」

そして、具体的な欠陥として表現されるのは、一貫して、人間の精神的な問題です。

「人間、この不完全な動物。人は、一人では生きることはできない。」

人間が、一人では生きてはいけないこと、しかしながら、他人との接触は恐怖でもあることを、「ATフィールド」「人類補完計画(欠けたこころの補完)」「ヤマアラシのジレンマ」「鳴らない電話」など、様々な用語を使いながら描いていきます。
そして、物語は生命の木に近づく人類という、贖罪の観点から、不完全な人類の物語は進行します。

つまり、「自我の発達」をキリスト教における知恵の実を食べた人類になぞらえ、結果としてヒトとヒトの関わりを「絶対恐怖領域」として描き、そこからの解放として、自我の発生以前である母胎回帰(人類補完計画)を目指す、というのがエヴァンゲリオンなのです。このような観点から、自我を持った人類は、「出来そこない」と呼ばれます。

結論を言うと、イデオンは、泥臭くリアリティーを持った人間の醜さを描きつづけることで、人類の欠陥を表現したのに対し、エヴァンゲリオンでは宗教的な伝説と、精神分析を組み合わせることで表現しているのです

<美女の死>

こんどは、美人の死という観点で考えてみましょう。

どちらにおいても、物語の最終段階で、主要人物は次々と死んでいきます。

リツコは、ゲンドウに撃たれますが、その直前、ゲンドウの語る言葉を見て「うそつき・・」と微笑みます。そして、撃たれた勢いでLCLに落ちますが、銃弾の傷以外は、特に顔は傷ついていません。

ミサトは、シンジをかばって重傷を負いますが、自分の死を予感しながらも、最後までシンジを励ますことを忘れません。そして、シンジを送り出したあとは、「カジ君、これでよかったのよね・・」とつぶやきます。その直後に爆風に覆われ、何も見えなくなります。

つまり、精神的に言えば、どちらも死ぬ直前には、ある種納得しているわけです。そして、顔も、ほぼ元のままです。また、死体は、そのへんにころがったまま放置されることもなく、一応消滅します。

傷つく過程が一番凄惨なアスカの場合でも、手や目に傷を負ったのは確かですが、ラストの包帯シーンを見てもわかるように、ヴィジュアル的には大きく変わっていません。

それに対して、イデオンでは、カララは実の姉ハルルに顔を3発うたれます。ハルルは、美しい妹の顔を壊したいかのように、顔のみに発砲するのです。そして、カララの死体には白い布がかぶせられますが、コスモは、見ないようとめられるにも関わらず、布をあげて顔を確認し、つぶやきます。

カーシャ「だめ、見ちゃ」
コスモ「なぜだ?」
カーシャ「顔だけ狙われて、めちゃくちゃなのよ。」

コスモ「(かまわず布をとる)きれいだった人が・・こんなに。」

カララは、撃たれる直前まで、自分に死の運命が待ち構えているとは思ってもいませんでした。イデの力をあてにしていたのかもしれませんが、赤ん坊を産むために、自分は絶対に死ぬわけにはいかない、と考えておりました。

カーシャは、やはりソロシップ内で敵の進行を食い止めている途中、突然の爆風を浴びます。そして、顔を覆うシールド部分に、びっしりとヒビがはいり、そのまま倒れます。私は、アニメの中で、このシーンほど、生きていた人間が一瞬でモノになってしまったという感じを覚えたことはありません。

キッチ・キッチンは、爆風で首が吹っ飛びます。

つまり、イデオンにおける美人キャラというのは、例外なく、顔を破壊されて、これ以上なく醜く死にます。そして、誰をとっても、自分が死ぬかもしれないということを全く予想もしないうちに、突如生命の終わりをむかえ、後は、ただモノとして、ころがっているのです。

「キャラクターの死」の両社の表現の違いは全体に一貫している

例えば、バッフクランの戦闘機の操縦士が死ぬ時の描写。戦闘機を飛ばしていた操縦士が撃たれると、次の瞬間には両手をさげ、血を流し、死亡した様子を、確認するかのように写したあとで、戦闘機は爆発します。

また、コスモの母親的役割を果たしたカミューラ・ランバンの最後の様子。車の下敷きになり、大量出血をし、コスモが無理にでも助けようと足を引っ張ると、絶叫とともに息絶えます。下半身がとれてしまったようでもありますが、さすがにその描写はありません。

物語の冒頭で博士が死ぬ時も、上半身が岩でつぶされ、足だけが痙攣しております(接触編)。

エヴァにおいても死の描写シーンが存在しますが、劇場版でのネルフ職員だけであり、シトの襲来によって第三新東京の住民が多数死んでいるはずであるにも関わらず、それらは全く描かれていません。富野作品にとって、非戦闘員の死は、戦争であれば当然なのですが、庵野作品にとっては、メインキャラ以外の部外者(いわゆる民間人)の生死にはあまり関心はないのでしょう。

そして、エヴァのメインキャラでは、醜い不慮の死亡を遂げる人物は一人もおりません。先ほどあげたミサトにしろリツコにしろ、最後はあきらめる余裕がありますし、カジも同様です。死の直前に、自分の死を見つめる余裕を持ってから死にます。それは、ゲンドウも同じです。もう少し正確に言うと、エヴァキャラは、死ぬ前に必ず一言かっこよくしゃべってから死ぬのです。しかも、誰一人として、泣き言はいいません。

「人類の滅亡」を描くシーンに最も差異が見られる

イデオンにおいては、次々とメンバーが死んだあげく、最後はイデオン本体も持ちこたえられなくなります。その時、搭乗員達の肉体も限界を超え、絶叫の中、腕が身体からはなれて吹っ飛ぶ様子まで描かれていきます。

それに対し、エヴァにおいては、人々の前に女子高生姿のレイが現れ、シャボン玉がはじけるような表現となっております。

一言でいうと、イデオンは、ヒトの死を残酷に、不意にモノとなる過程として描いているのですが、エヴァンゲリオンでは、作中人物は精神的にも視覚的にも、役を演じきった役者が舞台から退出するように、死ぬというよりは消滅していくのです。そのため、最初から役を持ってないキャラ(第三新東京の住人)の死は描かれることはありませんし、役を持っているキャラは、死ぬ前にしゃべる機会が必ず与えられるます。

このような演出の結果として、エヴァでは、視聴者があまり傷つかないようになっています。「本当のことはみんなを傷つけるから」という26話のセリフを思い浮かべさせられます。イデオンの方がリアルといえばリアルです。もっとも、富野監督の最近のインタビューでは、今ならもっと視聴者が癒されるような死に方をさせると言っていたのが印象的です。

<暴走>

マシンが異様なパワーを発揮するとき、何がもとになっているのでしょうか。

エヴァでは、シンジの危機にさいして、エヴァに融合したユイが目覚めるようです。

つまり、母性本能がもとになっています。これは、操縦者本人が生きることを目指している場合もありますが(2号機のアスカ)、あきらめている場合もあります(16話のシンジ)。

イデオンにおいては、イデの力は、純粋な防衛本能に触発されるようです。

つまり、エヴァにおけるパワーは、本人とは無関係に助けてくれる、他力本願的な母性本能であり、イデの力は、あくまでも本人の防衛本能に依存します。

<まとめ>

以上、3点ほど簡単ですが見てみました。

イデオン エヴァ

出来そこないの人類
人々のエゴのぶつかりあい   宗教的伝説と精神分析


ヒトが突如モノに       物語からの退場

暴走
自衛本能           母性本能

このような、同じことを描くさいのスタンスの違いの中にこそ、エヴァとイデオンの最も本質的な違いがあるはずです。

上記3点をみただけで、同じ物語枠を採用しながらも、この2作品は根本的なところで異なる作品であることが明らかでしょう。

他にもいくらでも両作品の違いを数えられるでしょうが、とりあえずこのくらいにしておきます。

作家性というものがある作品であれば、このような数点における傾向性の違いは、作品全てを覆っている違いでもあるでしょう。また、それらの違いはどれもリンクしているはずです。そして、それらは全て、作家そのものを特質を指し示しているはずです。

出典エヴァンゲリオンとイデオン

第三部 富野監督と庵野監督

ここまで来ると、より詳細な分析をするには、監督達自身の内面を問わなくてはなりません。

まず、富野監督は、エヴァをかなり強く批判しました。

その要点をまとめると

エヴァキャラは、生気ある人によって作られたキャラクタではない。自分としては、生きているキャラクタとして認められない。

あんな腺病質なキャラで物語が作れるのは、全て頭の中で考えてやっているからだ。性も死も実感できない人間が実在することを証明するカルテに見えた。

さて、エヴァンゲリオンにおけるキャラ描写の特徴とは何でしょうか。

よく話題になったのが、全てのメインキャラにコンプレックスを明確に設定した点でしょう。これは、精神分析的に言えば、当然のことです。

父の仇討がしたいミサトや、父に認められたいからエヴァに乗るシンジ、ユイに会えないのがさびしいゲンドウなど。間違っても、人類を守るために戦う、という使命感や、仕事だからやる、という義務感だけで動くわけではありません。

もっとも、富野キャラも、コンプレックスは人物行動の強力な動機となっています。例えば、ハルルの妹カララに対する憎しみなど。もちろん、エヴァ程多くのキャラのコンプレックスが明示されているわけではありませんが。(イデオン以外では、例えばZガンダムの主人公カミーユが、名前が女性的だということに強くコンプレックスを持ち、女性と間違えられただけで相手を殴りつけるシーンが印象的です。頭も顔もいいのに、カミーユはコンプレックスが多いキャラでした。)

両監督の違いは、コンプレックスの有り方、発現の仕方に明瞭に現れている

例えば、主人公シンジの造型を考えてみましょう。

「言われたとおりに何でもやる。それがあの子の処世術なのよ」

富野監督は、大人に反抗しないのは10代ではない、若さではない、ということをZガンダム放映時に言っていました。これは多くの富野作品に共通する少年の造型でもあります。

シャア「(カミーユに衝動的に殴りつけられて)これが、若さというものか・・」

富野監督の物語の多くは、たまたま戦争に巻き込まれた少年達が、ダメな大人たちとの軋轢の中、活躍していく姿を描いています。少年達は、大人達の身勝手さに憤りながら、強く自己主張していくのです。

主人公の少年像ひとつとっただけでも、決定的な相違が感じられます。

ストーリー開始時には、別個の性格を持っていたのが、最後にはみな同じような性格に集約されていきました。

<内罰性>

シンジ「僕なんか死んじゃえばいいんだ。」
アスカ「あたしなんか死んでしまえばいいのよ。」
リツコ「いえ、いっそのこと殺してくれるとうれしい。」
レイ「あたしには何もない」

<自信の無さ>

シンジ「僕に価値が欲しいんだ」

「みんな、僕のことが嫌いなんじゃないのかな?」
アスカ「自分で自分を誉めてあげたいのよ」
ミサト「イージーに自分に価値があると思えるから」
ゲンドウ「自分が人に愛されるなんて信じられない」

これは、まさに監督の性格でしょう。

エヴァという作品は、監督自身の内面をぶつけたところに個性があった反面、登場人物の性格も、一歩奥にはいると相似したものになってしまいました。

庵野監督「全てのキャラが、僕の性格の一部をもっています。」

しかし、別に、これは、現実感がないキャラなのではなく、現実に存在する(例えば庵野監督自身)性格のひとつなのです。

このような人物造形を、現実感がないと考える人は、単に、性格が違うタイプだということだけです。

実際、エヴァを見た視聴者の声が、かなり明確に分かれたことも、これを裏付けています。

キャラに現実感がないと批判した人と、見ていて自分のことのようにつらくなったという人と。いままでのアニメで、エヴァほど、一部の人が心からシンクロしたキャラが登場した物語もなかったでしょう。

つまり、登場人物の造形が、庵野監督個人の性格に近すぎたため、似たような性格の人は極端に同一化できるし、そうでない人には現実感が与えられなかったのです。

富野監督の登場人物たちを考えてみましょう。

イデオンでは、内罰的なキャラなど一人もおりません。それでは、あのエゴの衝突の中では文字通り生きていけないでしょう。全員が、生き残ることを目指しております。むしろ、滅亡へと至る道は、全員が生き残りを目指しすぎていることにあります。

死ぬときは、一言を言う間も与えられず死ぬか、無念の言葉をつぶやくかです。

アバデデ「な、なぜ、こんなバカな死に方を・・」・・第10話:奇襲・バジン作戦
ダミド「死んでたまるかー」・・第16話:必殺のダミド戦法
モエラ「こんなことで、俺達の運命を変えられてたまるか」・・接触篇
ハタリ「ばかな、俺はまだ、何もやっちゃいないんだぞ」・・発動篇
ベス「俺達は、やることが全て遅かったのかもしれない。」・・発動篇
コスモ「(カーシャの死を聞き)俺は、こんな甲斐のない人生など認めん」・・発動篇
コスモ「(直撃を受け)死ぬかよー」・・発動篇

何かというと「死にたい」とつぶやきがちなエヴァキャラとのギャップは非常に大きなものがあります。

結局のところ、富野監督のエヴァキャラ批判は、キャラ造型のリアルさや、出来の問題ではなく、人間のタイプとして、好きか嫌いかというところに落ち着くのではないでしょうか。

<最後に>

両作品は、キャラの設定からストーリーの運び方、演出に至るまで、大きく異なっています。そして、監督の批判騒ぎまでありました。

しかしながら、イデオンとエヴァンゲリオンの基本構造は、同一です。

ただし、両監督の資質の違いのため、全く異なる作品となりました。それは、大きく言うと、両監督の性格の違いがそのまま出ているわけで、どちらも、批判されるいわれはありません。

この2作品の類似は、名前が共にギリシア語から来ているところからはじまり、実写の導入、テレビでの未完結、2部構成での映画公開まで、双子のように似ております。

我々視聴者としては、二人のアニメ史に残る監督が、全く同じ物語を自分の個性で誠実に作った結果、いかに異なる作品になったかを、その差異を楽しみながら、味わうしかないでしょう。同じ題材で、両監督に競作のように全力で作品を作ってもらうという贅沢が許されるのですから。

この2作品は、間違い無く両監督の個性の最良の部分が出ています。そして、日本のロボットアニメの到達点もこの2作品が示しています。

この二つの作品は、のちに「セカイ系」と呼ばれる多くの作品に大きな影響を与えた

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