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韓国懐メロ大全 韓国トロット通史

韓国

韓国の歌謡曲
韓国で戦前からある歌謡曲に「トロット」「ポンチャック」と呼ばれるものがある。「トロット」はフォックストロットという曲のテンポを表す用語から取ったもので、「ポンチャック」というのは曲の伴奏のリズムからきた蔑称である。韓国では1990年代になってソテジワアイドルというグループ歌手が登場するまでは、ほとんどが、この、日本の演歌、流行歌と同じメロディラインの「トロット」が主流で、他にはバラード、フォークなどもヒットチャートを占めていた。ソテジワアイドルは90年代前半の歌謡曲シーンを若年層の圧倒的な支持でリード、90年代後半には同じくグループ歌手のH.O.Tが韓国歌謡界をリードし、日本の演歌ほどではないにしろ、「トロット」も衰勢にあるのは否めない。

身分社会韓国での歌手の地位

韓国は極端な身分、学歴社会のため、歌手の地位というのは戦前の日本における歌手の地位と余り大差がないように思える。事実、日本の往年のスター歌手が厚遇され、新聞の訃報欄にも大きく扱われるのに比して、韓国の往年のスター歌手の中には生死すら不明な人間も多いのが事実である。韓国では歌謡曲の作曲家はクラシックなどの作曲家と区別するために、新聞などにも大衆作曲家と表記しなければならず、日本でヒットした李成愛なども来日時に新聞記者から「日本でヒットできなければ、玄界灘に飛び込むんだな」と日本の常識では考えられない言葉を吐かれたという。このように韓国の歌謡曲は、日本のそれとは大きく違い、知識人階級の蔑視の対象となる、言い方は悪いが卑しい娯楽なのである。韓国においては大衆という用語自体が、低く見下すような語意を含んでいるという。

トロット、演歌は同じルーツ

戦前の日本の流行歌はトロット調のものが大半で、今の演歌に近いメロディラインのものは古賀政男の「酒は涙か溜息か」のヒットに端を発する。当時の韓国は日本領であり、韓国の歌謡曲のレコードの吹き込みのほとんどは日本で行われた。作曲家古賀政男は幼少時を韓国に過ごした事から、韓国民謡の独特の旋律をヒントに自身の音楽世界を構築した。日本演歌の祖である古賀政男の音楽が韓国民謡の影響を受けている事は、古賀作曲の「人生劇場」など多くの曲が、それまでの日本には存在しなかった3拍子で作曲されている事からも証明され、戦時中、多くの韓国人は古賀を同胞ではないかと信じて疑わなかったというのも事実である。この古賀メロディをはじめとした日本の流行歌が韓国語で現地発売され、元々、韓国民謡のメロディラインを翻案した日本の流行歌をベースに、韓国独自の歌謡曲世界が花開いていったのである。

トロット発生時の韓国事情

戦前の韓国人はすべて反政府活動家であったという認識は誤りで、いわゆる親日派といった体制順応派の韓国人も大多数いた。当時、日本と韓国の往来は自由であり、韓国人差別は存在していたにしろ、日本と韓国の間に都市インフラの格差などは余りなかった。それもその筈で時の政府は内鮮一体をスローガンに、欧米がアジア各国を植民地にしたのとは全く別個の発想で、本当に日本と韓国を同化させてしまう心づもりだったようである。1939年には韓国語の授業が廃止され、悪名高い創氏改名によって韓国人の多くは日本名となった。しかし一般レベルですべてに日本語が通用する筈もなく、歌謡曲の歌詞は一部に日本語が混じる事もあったが、ほとんどが韓国語表記のままであった。

草創期のトロット

韓国初のレコードは1908年、李東伯(イ・ドンベク)による「赤壁歌」でビクターから発売された。その後、1926年、尹心悳(ユ・シムドク)=写真右=による「死の賛美」が初の韓国内での歌謡曲ヒットとなった。尹は大阪での同レコードの吹き込み後に、劇作家の金祐鎮(キム・イジン)と共に関釜航路の徳寿丸から投身自殺をし、韓国全土に一大センセーションを巻き起こした。話題先行でレコード発売前からヒットの下地があったという事だろう。韓国へのレコード会社進出は、1928年にビクター、1929年にコロムビア、1931年のポリドール、太平レコードが進出、同年には同地においてシエロンレコードが設立された。また1933年にも現地レーベルとして、オーケーレコードが設立、当時の日本のメジャーレーベルの中では唯一、キングは韓国語レコードの生産には踏み切らなかった。

哀調の戦前歌謡曲

1932年、李愛利秀(イ・アリス)による「荒城の跡」が大ヒット、高麗の旧都であった開城を舞台にしたこの歌は韓国レーベルのレコードによる初の全国的なヒットとなった。尹心悳も李愛利秀も、元々は役者であり、韓国にはそもそも流行歌の歌手という職業がなかったので、韓国草創期のレコード歌手のほとんどは俳優であった。同年には蔡奎??(チュ・ギュヨプ)が、「酒は涙か溜息か」などの日本でヒットした流行歌を、そのまま韓国語に訳した歌などで人気を博した。逆に日本の歌手であるディック・ミネが三又悦(サムウヨル)の名前で韓国語でジャズを吹き込むなどの動きも見られた。また本来は芸術的な歌曲であった「鳳仙花」がソプラノ歌手の金天愛(キム・チョンユ)によって大ヒットした。1934年には「ノドル河辺」に代表される新民謡がヒットする傾向を見せ、日本の芸者歌手に近い、鮮于一扇(ソンウ・イルソン)などの妓生(キーセン)歌手が多く誕生した。そうした中、同年には高福壽(コ・ボクス)の「他郷ぐらし」が大ヒット、高福壽は職業歌手として韓国で初めて成功した人となった。1935年には李蘭影(イ・ナンヨン)の「木浦の涙」が、1937年には張世貞(チャン・スジャン)の「連絡船の歌」が大ヒットし、日本統治への違和感を抱く大衆の思いを代弁する形となった。

およそ、1935、36年頃より、韓国では俳優の副業としての歌手よりも、歌手専門の職業歌手が多くなり、歌謡曲黄金時代を迎える。1938年には「歌謡皇帝」こと南仁樹(ナム・インス)の「哀愁の小夜曲」が大ヒット、南は作曲家の朴是春(パク・シチュン)と組んで韓国歌謡界に不動の地位を築く。この頃、「民謡の女王」として李花子(イ・ファジャ)も人気を博した。金貞九(キム・ジング)の「涙の豆満江」が世に出たのも同時期だが、この歌はむしろ、朝鮮動乱後にリバイバルヒットした事で知られている。1940年には白年雪(ペク・ニョンソル)の「ナグネソルム」が、また秦芳男(チュ・バンナム)の「不孝者は泣きます」が大ヒットとなった。1940年頃より、韓国のレコードは日本国内ではなく、ソウルでの吹き込みが主体となっていく。しかし戦局の悪化により、韓国でもその後は戦時歌謡が量産されるようになる。韓国人志願兵第一号として戦死した李仁錫(イ・インソク)一等兵の美談を大々的に喧伝し内鮮一体の気運を盛り上げようとはかるなどの当局の意図と、いかな韓国歌謡界といえども無縁でいられる筈もなかった。写真は「息子の血書」。

解放から動乱へ

日本の敗戦は韓国では解放とされる。玄界灘から日本漁船を締め出す「李承晩ライン」で知られ、極端な反日親米主義者であった李承晩が1948年から1960年まで韓国で軍事政権を掌握、1950年から53年にかけては北朝鮮の南侵による朝鮮動乱で、国土は壊滅的な打撃を受けた。解放により、「酒は涙か溜息か」などの日本をルーツにした曲は事実上の発禁処分とされる事になる。1947年には玄仁(ヒョン・イン)の「新羅の月夜」が大ヒット、米軍キャンプをまわるジャズ歌手なども多く登場した。この頃はレコードよりもステージから多くのヒット曲が生まれた。米軍進駐の影響から、ジャズもラジオから多く流されたが、韓国でも日本同様、1930年代からアメリカのジャズソングはレコード化され、パンソリなどと共に発売されていた。朝鮮動乱の最中は軍歌や避難民の苦衷を歌う歌が流行したが、その後、北朝鮮へと渡った作曲家、作詞家などは越北作家のレッテルが貼られ、彼らの手による「さらば断髪嶺」「無情千里」など多くの有名な歌が発禁となった。これは1988年まで続き、有名な曲でありながら公の場では歌えない歌謡曲というものが多く存在したのである。

歌謡曲受難の時代

1954年、李海燕(イ・へヨン)による「断腸のミアリ峠」が大ヒットした。こうした避難民の苦衷を歌う歌は広く国民に膾炙し、1957年より始まった政府肝いりの「青春牧場」などの国民歌謡よりも圧倒的に支持された。写真は「別れの釜山停車場」。また1955年頃には、「アリランマンボ」などのマンボブームも起きている。1957年には「エレジーの女王」李美子(イ・ミジャ)がデビュー、その後、李は韓国歌謡界の女王として君臨する。1959年、韓国でもSPレコードからLPレコードの時代に突入、学士歌手と呼ばれる大学出の歌手も出現し話題となった。1961年、韓明淑(ハン・ミョンスク)の「黄色いシャツ」が大ヒット、フランスのシャンソン歌手イベット・ジローが同曲をソウルで吹き込むなど社会現象にもなった。この曲はドラマ主題歌で、こうしてドラマ、映画と連動してのヒット曲もこの頃より増えだした。また同じ頃、反共ラジオドラマによって「涙の豆満江」がリバイバルヒットした。

1960年代は旧来のトロットに加え、在韓米軍のキャンプまわりなどからポップス歌手も登場した時代だった。男女のボーカルグループも多く登場、1962年の民放開局により、歌番組からのヒット曲というのも見られるようになった。1962年、朴正熙が大統領に就任、1979年に暗殺されるまで政権を担い、感情的な反日論を抑えて日本との国交回復などを行い、強権的な手法によって韓国の奇跡の経済成長を実現した。当時の韓国は北朝鮮よりも貧しい国で、国民は食糧難に絶えず脅かされるといった悲惨な状態であった。現在の経済大国と化した韓国の基盤を築いたのが、この朴政権である。しかし一方では朴政権は歌謡曲への規制も強め、1975年にはビートルズやストーンズなどの曲をはじめとする222曲を発禁処分とした。共産主義を匂わせる歌詞はご法度だったのである。その一方で、1964年の反共空軍映画「赤いマフラー」の主題歌などは、健全歌謡として大いに推奨され、またヒットした。1967年、南珍(ナム・ジン)による「カスマプゲ」が大ヒット、同年には後に国民的歌手となる羅勲児(ナ・フナ)もデビューした。1971年には銀姫(ウニ)による「サランヘ」が、1973年にはパティ・キムによる「離別」が大ヒット、どちらも作曲家の吉屋潤(キルオキユン)の手によるものである。「離別」は北朝鮮の金正日の愛唱歌としても知られる。1976年には趙容弼(チョー・ヨンピル)による「釜山港へ帰れ」が大ヒットした。

写真は左から「茨の花」の白蘭児(ペク・ナンア)、「私は十七歳」の朴丹馬(パク・タンマ)、「雨降る湖南線」の孫仁縞(ソン・インホ)、「慶尚道娘」の朴戴弘(パク・ジェホン)、「断腸のミアリ峠」の李海燕(イ・ヘヨン)。

日本でのブームを経て

韓国本国では次第に演歌調の歌謡曲は下火となり、余り泥臭くない曲が主流となっていった。1970年代にはグループサウンズのキーボーイズや、ロックの申重鉉(シン・ジュンヒョン)などが若年層に支持された。MBCによる大学歌謡祭はトロット、フォーク、ロックとあらゆるジャンルの新人を発掘し、若手歌手の登竜門だった。しかし1980年代初頭には演歌調のトロット復活の兆しが高まった。1980年、全斗煥が大統領に就任、1987年まで政権を担った。これに先立つ1977年、李成愛が日本語訳した韓国の歌謡曲のレコードを日本でヒットさせるという快挙を成し遂げた。それまでにも菅原都々子による「連絡船の歌」のヒットや、韓国人歌手の小畑実がスターダムにのぼりつめるなどの動きはあったが、本格的な韓国歌謡曲の日本への紹介は李を初めてとする。李の活躍は趙容弼や羅勲児の日本進出ももたらし、爆発的にではないにせよ、韓国本国の歌手の名前が日本にも浸透するようになった。しかし、それは韓国の歌手に対して誤った認識も生む事になる。趙容弼などは日本では演歌しか出していないため、本国での国民的歌手の扱いを理解しがたい向きも多いのだが、韓国本国での趙は演歌歌手ではなく、ロックもポップスも歌うオールマイティの歌手という認識なのである。数多くあるレパートリーの中にたまたま演歌も入っている、というのが趙の場合、正しい姿であるのだ。

韓国での歌謡曲への発禁措置は現在に至るまで、緩和されはしたものの続いているのが真実である。1980年代には「独島、我が国土」という日韓の領土問題を扱った歌が発禁となったのをはじめ、1988年の民主化によってかつての越北作家の曲などは解禁になったものの、日本の歌謡曲の発禁措置が解かれたのは2004年であった。最近では1997年にも、ロックの歌詞が反社会的だとの理由でレコード会社の社員などが当局に拘束される事件もあった。

1990年代にはソテジワアイドルなどの、従来のトロットの流れを全く汲まないグループの歌が若年層を中心に支持され、トロットはすっかり中高年世代の歌というイメージになってしまった。しかしそれ以降も「南行列車」「サランウンアムナハナ」などの世代を超えて知名度の高いヒット曲はトロットからも生まれている。現代韓国での上記に挙げた以外でのトロットの懐メロ歌手として有名なところでは、朴一男(パク・イルナム)、白承泰(ペク・スンテ)、呉基沢(オ・ギテク)、朴戴弘(パク・ジェホン)、河春花(ハ・チュナ)、?槌?美(チョ・ミミ)、沈守峰(チム・スホン)、金蓮子(キム・ヨンジャ)、金秀姫(キム・スヒ)、魏金子(ウイ・クムジャ)などがいる。新世紀を迎えて韓国トロットのトップスターとされるのが太珍児(テ・ジナ)である。太は「サランウンアムナハナ」の大ヒットなどで、新世紀の韓国の中高年世代に圧倒的な支持を得ているのである。他には玄哲(ヒョン・チョル)、周??美(チュ・ヒョンミ)、雪雲道(ソ・ルンド)なども活躍している。

韓国トロットスター歌手の群像


李愛利秀(イ・アリス)

1930年に20歳で歌手デビュー。32年、高麗の旧都である開城を舞台にした「荒城の跡」が韓国レーベルのレコード初の大ヒットとなる。その後、西条八十によって、日本でも李アリスの名前で同年に「あだなさけ」などのレコードを吹き込む。私生活では2度も恋愛沙汰で自殺未遂を起こすなど波乱の生涯であった。2008年10月28日、韓国日報が京畿道で98歳で健在である事を報じ、その消息が半世紀ぶりに明らかになった。

蔡奎??(チュ・ギュヨプ)

1930年に歌手デビュー。32年に「酒は涙か溜息か」=写真右、「希望の丘(丘を越えて)」「影を慕いて」など日本の流行歌を韓国語訳した歌でヒットを飛ばす。その後も「峯子の歌」などのヒットを連発するが、34年には東京で16歳の女給とのスキャンダルを起こし、37年には詐欺で逮捕されるなど歌以外の部分でも話題に事欠かなかった。また長谷川一郎の日本名で日本でもレコード吹込みを行っている。極端な親日家でも知られ、大政翼賛会に入会、日本軍の軍装で軍用機募金運動を行うなどしたが、日本の敗戦後もうまく立ち回り、ステージ活動などをこなした。49年に北朝鮮へ渡るが、最後は炭坑に送られ、粛清同然の悲惨な最期を遂げたという。

李蘭影(イ・ナンヨン)

元祖「エレジーの女王」。1916年、木浦に生まれる。33年にオーケーレコードから歌手デビュー。35年に「木浦の涙」が大ヒット、39年には作曲家の金海松(キム・へソン)と結婚、40年には「泣けよ門風紙」「木浦は港」がヒットする。日本敗戦後は夫とK.P.K楽団を主宰するが、朝鮮動乱で夫が北朝鮮軍に拘束され、それが最後の別れとなった。7人の子供は渡米しラスベガスで歌手として活躍。晩年はアル中となり65年に没した。

高福壽(コ・ボクス)

1911年12月に慶南の蔚山の雑貨屋で生まれ、子供の頃から背が高く、近くの山などでよく歌を歌っていた。蔚山で小学4年までをすごし、5年生からは釜山で生活、蔚山の教会の合唱団に入り、宣教師からドラムとクラリネットを習得、蔚山中学では抜群の成績で、30年には釜山で高校を卒業した。32年、コロムビア主催で朝鮮日報後援による、全国新人歌手選抜コンテストが韓国で初めて開かれ、妓生(キーセン)歌手全盛の時代に、素人上がりの新人歌手を発掘して、流行歌の質を高めようという掛け声の下、予選大会が韓国内9都市で開かれ、釜山での慶南予選に参加して1位に。9都市それぞれ3位までの入賞者は全国大会に出場権を得て、実家の雑貨屋から売上金を盗んでソウルへ向かった。しかし洪蘭坡(ホン・ナンパ)が審査委員だった、という事でわかるように、このコンテストは歌曲など重視で、あっさり落選。コロムビア所属ながらも鳴かず飛ばずで、34年4月の東亜日報による先のコンテスト入賞者らを集めた小公洞公会堂での音楽大会でようやくデビュー。ここで3曲を歌い上げ、これはオーケーレコードの李哲(イ・チョル)社長の目にとまり、スカウトされる。

12月、鳴り物入りの宣伝で、「他郷ぐらし」が発売された。これはあっという間に2万枚が売れ、オーケー専属のギャラとして1000ウォンの大金を手に入れた。35年からは毎月、新曲を発売、4月には「砂漠の恨」でヒット、37年1月には「チャクサラン(片思い)」がヒット、この快進撃は38年4月まで続き、この頃には「他郷ぐらし」は5万枚の記録的なヒットとなっていた。タキシード着用でステージをこなし、韓国女性から爆発的な支持を得た。妓生らの乗った人力車が劇場を取り囲み、「高福壽」と絶叫しながらぐるぐる回るという伝説まで生まれたほどだった。しかし39年には、3年間交際していた10歳年下の19歳のビクター歌手、黄琴心(ファン・グムシム)と結婚。40年代より、夫妻で日本語のレコードも吹き込むようになったが、ステージでは韓国語で歌い、満州やハルビンでのステージでは、「他郷ぐらし」に客席の韓国人らが号泣したという伝説も残されている。間島の公演では夫を亡くして生活苦の中年女性が、「他郷ぐらし」を聞いて「郷里の釜山に帰りたいけど帰れない」と号泣して自殺したという逸話もある。夫妻で日本、満州、樺太とステージを行い、韓国人らの熱狂的な支持を得たという。

朝鮮戦争では北朝鮮軍に連行されたが、韓国軍の落下傘部隊に救出され、こうした経緯もあって、韓国陸軍の慰問芸能活動を熱心にこなすようになった。51年1月4日の、共産軍のソウル侵攻時には、夫妻は大邱に避難して喫茶店を経営、そこでステージ活動も行っていた。58年秋に歌手生活25周年のステージを開いて引退。歌手育成の学校を開き、「大田ブルース」の安貞愛(アン・ジョンエ)と「椿娘」の李美子(イ・ミジャ)はこの学校の出身。その後はタクシー会社を経営、巨額の資金で映画「他郷ぐらし」製作を行うが失敗し、莫大な借金を抱え、往年の名歌手も書籍セールスマンに落ちぶれた。72年2月10日に高血圧で延世大医学部病院で死去。3男2女を設け、長男は歌手、三男はテレビの音楽監督をしていたが、2004年には末の息子が婚約者とタイのカオラックでインド洋大津波に巻き込まれ死去している。

李花子(イ・ファジャ)

1935年、酒場で働いているところをスカウトされ、妓生(キーセン)歌手の系譜をつぐ中では最も多くのヒットを連発した。38年、「コルマンテ牧童」が、39年には「オモニム前上白(母への手紙)」がヒット。40年の「花柳春夢」は、日本の菅原都々子が「片割れ月」としてリバイバルするほどのヒットとなった。スキャンダルの女王としても知られ、晩年はアヘン中毒になり50年頃、没したといわれるが消息は定かではない。

南仁樹(ナム・インス)

「歌謡皇帝」。1937年、オーケーレコードからの再デビューで「水車サラン」がヒット。学歴、音楽経験ゼロからのスタートだったが、作曲家の朴是春(パク・シチュン)との黄金コンビによって、38年には「哀愁の小夜曲」「コジピンプッサラン(裏切られたかりそめの恋)」が大ヒット、40年、「泣いて別れた釜山港」などヒットを連発した。「女インス」「金インス」と呼ばれる遊び好き、締まり屋としても知られ、日本の敗戦後は興行にも手を伸ばし、持病の肺結核を悪化させた。47年、「去れよ、三十八度線」、53年には「別れの釜山停車場」、56年には「青春告白」などのヒットを飛ばし、62年に没するまで第一線のスター歌手であり続けた。

黄琴心(ファン・グムシム)

1921年12月10日、ソウルの霊泉で生まれた。美声と美貌で町内では有名だったが、34年、14歳の時、近所の蓄音機屋の店員がオーケーレコードの春の専属歌手選抜に応募するように薦め、1等で合格となり、専属歌手となった。16歳でデビュー。これに目をつけたビクターレコードに引き抜かれ、38年、「いとしのあなた」を発売。これが大ヒットした。オーケーレコードとビクターレコードのトラブルは法廷闘争にまでなって韓国中の話題を呼んだ。結局、これはビクターレコードの勝利に終わった。高福壽(コ・ボクス)とはオーケーレコード時代からの交際で、歌劇「春香伝」での共演で知り合った。結婚に反対する家族の元から家出、そして妊娠までするという、当時の韓国社会では驚天動地のスキャンダルを巻き起こしたが、39年に結婚している。この時から、ビクターの公演に夫婦で共演するようになった。結婚後もステージでチョゴリ姿で歌うと、女性ファンすらもため息を漏らすという美貌は衰えていなかったという。40年代には夫婦で日本、満州、樺太などで公演も行い、朝鮮戦争終結後の53年に「三多島消息」でカムバック、ステージ重視の活動を続け、50年代の韓国社会で「鶯の女王」として韓国を代表する女性歌手として認められ、60年にはアジア映画祭の招待歌手となった。事業の失敗で借金を抱えた夫を養いながら一家の生活を支え、72年には夫が死去。96年からパーキンソン病となり、2001年7月30日に死去。

張世貞(チャン・スジャン)

1921年生まれ。平壌の少女歌手として、37年に「連絡船の歌」でデビューし、大ヒット。39年には「港の名無草」がヒット。当時の歌謡界に力のあった李哲(イ・チョル)をめぐっての李蘭影(イ・ナンヨン)との不仲は有名。40年には「さらば断髪嶺」がヒット。日本の敗戦後は舞台などで活躍したが、晩年はロサンゼルスで過ごした。2003年に死去。

金貞九(キム・ジョング)

1916年、元山の生まれ。31年に元山光明普通学校卒業。兄に作曲家の金龍煥(キム・ヨンファン)、姉に歌手の金安羅(キム・アンラ)がいる。キリスト教徒で、38年の「王書房恋書」などのコミックソングで人気を博した。同時期に「涙の豆満江」「海の交響詩」を出し、ヒットとなる。「涙の豆満江」は60年のKBSラジオの反共ドラマによって再び火がつき、90年代あたままで韓国国民の間では「釜山港へ帰れ」を上回る支持を集めていた。こうした功績によって80年に歌手としては稀有な文化勲章を受章している。ソウルの草原の家というビアホールで70歳を過ぎてからも現役歌手としてステージに立っていたが、98年、ロサンゼルスで死去。

白年雪(ペク・ニョンソル)

1915年5月19日、慶尚北道星州郡の富農の家で、3男1女の末弟として生まれた。農業学校を卒業後、31年に作家を志望してソウルへ向かい、銀行員、見習い記者など仕事を転々として、35年にコロムビアレコードで作詞家となる。しかし作詞よりも歌唱で認められ、太平レコードの朴文芸部長の勧めで38年に自ら日本で吹き込んだ「流浪劇団」が39年に発売されるやヒット。太平レコードの専属歌手となった。不安定な歌唱で収録にもNGを連発する事で知られる。同年には「愛の地平線」「マドロス朴」などがヒット、40年1月発売の「ナグネソルム」が大ヒット、8月には「番地のない酒場」が発売され、また大ヒットとなった。41年には満州移民奨励の歌「福地万里」「大地の港」がヒットした。また、朝鮮人志願兵督励の歌「息子の血書」も吹き込んだ。日本の敗戦後はオーケーレコードに移籍し、アジア劇団を組織。しかしやがて大邱で孤児院を経営するなど事業に専念するが、朝鮮戦争を経て歌手復帰した。その後は映画制作に失敗、63年には歌謡界から実質リタイアし、70年に完全引退、元々、熱心なエホバの証人の信者でもあった事から、芸能界とは一切絶縁したまま78年9月にロサンゼルスに渡り、80年12月6日に没した。

秦芳男(チュ・バンナム)

1917年生まれ。40年に「不孝者は泣きます」が大ヒット。日本でのレコーディング中に母の訃報が入り、曲のタイトルそのままの吹き込みとなった。その後、作詞活動なども行い、50年からは作詞家に転向した。半夜月(パ・ニャウォル)の名前で「断腸のミアリ峠」などの作詞で知られる。

玄仁(ヒョン・イン)

1919年12月14日に東莢に生まれる。本名は玄東柱(ヒョン・ドンジュ)。父はスタンダード石油や毎日新聞記者だったと伝えられる。42年に上野の東京音楽学校声楽科を卒業したバリトン歌手。上海で活動中に終戦を迎える。声を震わせるような歌唱で知られ、47年に高麗映画協会による、韓国解放後初の映画「自由万歳」が明洞の劇場で上演されたが、その時に幕間で歌われた「新羅の月夜」が爆発的なヒット。初日にアンコールが9回、当時の韓国人には珍しい背の高さや、それまでのトロットとはまったく違うと当時は感じられたメロディライン、そして独特の歌唱法は、「新時代を予感させる」と大評判となった。余りの評判にすぐさまレコード化が決定したが、レコードの材料がなく、古いレコードを潰してプレスした。そのため100回も聞かないうちに、突然、潰した筈の原料に使われたレコードの日本の歌が聞こえてくるなど、劣悪なレコードであったが、これが売れに売れた。続いて「故郷万里」を発売、次いで「雨降る顧母嶺」を発売し、これは無名の峠だった顧母嶺を観光地化させるほどのヒットとなった。

48年には韓国解放後初の音楽映画「青い丘」に主演、相手役の新人女性歌手と同棲生活に入ったが、後の朝鮮戦争で生き別れとなっている。49年に父が死去、服喪のために1年間、芸能活動を自粛、復帰直後の50年6月27日に朝鮮戦争が開戦し、そのまま京畿道広州の村の屋根裏部屋に隠れ、9月28日のソウル奪還で再びステージ復帰するが、51年1月4日のソウル放棄では、釜山で避難生活を送った。そんな中、オリオンレコードから釜山で吹き込んだ「頑張れクムスナ」を発売、朝鮮戦争で生き別れになった恋人の名前を吹雪の波止場に叫ぶというこの歌は、爆発的なヒットとなったが、これは自身の実体験でもあった。戦時中は自由劇場、大邱劇場などのステージや軍への慰問を行った。

53年には大邱でソウル復興の「ラッキー・ソウル」を吹き込み、ヒット。その後、ソウルで喫茶店経営をして、歌手を辞めて事業家への転進を図るも失敗。歌手に復帰し、南仁樹(ナム・インス)と並ぶ人気を博した。57年に再婚、3人の子供を設けるも、5年で離婚。59年には事業に失敗し破産、その後、ライバルの南仁樹の死去から活躍も下火となり、不遇の時代を過ごす。68年には15歳年下のファンの女性と同棲するが、すぐに破局、74年に渡米しニューヨークで移民として暮らした。78年には元ミスコリアの女性と結婚、クラブ経営などをするがまたも借金を背負い、81年に帰国。南珍(ナム・ジン)など往年の歌手らと組んで、98年から懐メロショーの全国公演を行い、奇跡のカムバックを遂げ、懐メロ番組の常連となった。2000年春から体調を崩し、懐メロショーの全国公演を取りやめて引退状態となり、02年4月13日に糖尿病でソウルで死去。

李美子(イ・ミジャ)

1941年、ソウル生まれ。58年に歌手デビュー。「エレジーの女王」。歌手という職業が低く見られがちな韓国においては、破格の扱いを受けるまさに歌謡界の女王。韓国では美空ひばりを「日本の李美子」と呼ぶ事からも、その存在の大きさが窺える。ヒット曲だけで100曲を超え、歴代大統領もコンサート観覧に行くほど。64年のヒット曲「椿娘」は日本的であると当局により発禁処分を受けた。67年頃まで殺人的なスケジュールが続き、1日に4劇場16ステージという伝説を残すが、これは事実であった。ジープで移動途中に食事をとり、匂い消しにガムを噛んでからステージに上がったという。ある時、ガムを口の中に入れたままステージに上がってしまい、舌の下に置いてステージをこなしたが、歌いづらくて飲み込んだところ、失神しそうになり曲が止まってしまったという「ガム事件」なども、ファンの間では知られた話。夏場は移動のジープに氷を入れたバケツを積んで、体を冷やしながら次の舞台へ向かったという。MBCによる韓国歌手ランキングではナンバー2の得票で、トップは趙容弼(チョー・ヨンピル)、ナンバー3はソテジワアイドルであった。

南珍(ナム・ジン)

1945年、木浦生まれ。本名は金南珍(キム・ナムジン)。漢陽大演劇映画学科卒業、65年に歌手デビュー。71年、「カスマプゲ」が大ヒット。羅勲児(ナ・フナ)とのライバル関係は韓国歌謡界では有名な話。2001年には夫人が息子の大学不正入試で当局に拘束された。06年には大韓民国歌手協会初代会長に就任。

羅勲児(ナ・フナ)

1947年、釜山生まれ。本名は崔弘基(チュ・ボンギ)、作詞、作曲も自分で手がける。67年に歌手デビューし、85年の「ムシロ」をはじめとしてデビュー以来、ヒットを連発、日本にもファン層を抱える。趣味は書道など。

趙容弼(チョー・ヨンピル)

1969年に歌手デビュー。76年の「釜山港へ帰れ」など100曲を超えるヒット曲を持つ、韓国の国民的歌手。日本での活動から演歌オンリーの歌手と思われがちだが、実際はポップス、ロックから演歌までレパートリーは広く、韓国のあらゆる世代から名実共にトップ歌手と認識されているのが事実。

パティ・キム

1959年、米軍キャンプでデビュー。パティ・ペイジから芸名を取る。韓国人だが、この芸名でアメリカ在住者と誤解される事が多かった。73年、「離別(イビョル)」が大ヒット。夫で作曲家であった吉屋潤(キルオキユン)とはその後、離婚したが、「離別」は北朝鮮の金正日をはじめ、多くのファンによって支持されている。89年には韓国人初のカーネギーホール公演を行う。

太珍児(テ・ジナ)

1953年生まれ。忠清北道出身。74年に歌手デビュー。90年代から「ミアンミアンヘ(ごめんね)」「サランウンアムナハナ(恋は誰もがするけれど)」などのヒットを連発し、新世紀を迎えた韓国トロットのトップスターの座を射止める。

韓国大衆歌謡ヒット曲一覧


発売年 曲名 歌手
1932 荒城の跡 李愛利秀(イ・アリス)
鳳仙花 金天愛(キム・チョンユ)
酒は涙か溜息か 蔡奎??(チュ・ギュヨプ)
希望の丘 蔡奎??(チュ・ギュヨプ)
影を慕いて 蔡奎??(チュ・ギュヨプ)
1934 他郷ぐらし
高福壽(コ・ボクス)
国境の夜 金永吉(キム・ヨンギル)
ノドル河辺 新民謡
1935 木浦の涙 李蘭影(イ・ナンヨン)
砂漠の恨 高福壽(コ・ボクス)
1936 涙の豆満江
金貞九(キム・ジング)
1937 連絡船の歌 張世貞(チャン・スジャン)
大韓八景 鮮于一扇(ソンウ・イルソン)
私は十七歳 朴丹馬(パク・タンマ)
1938 哀愁の小夜曲 南仁樹(ナム・インス)
コルマンテ牧童 李花子(イ・ファジャ)
海の交響詩 金貞九(キム・ジング)
いとしのあなた 黄琴心(ファン・グムシム)
1939 夢見る白馬江 李寅権(イ・イングォン)
紅桃よ泣くな 金英椿(キム・ヌンチュン)
幕間むすめ 朴響林(パク・ヒャンリム)
感激時代 南仁樹(ナム・インス)
1940 ナグネソルム 白年雪(ペク・ニョンソル)
番地のない酒場 白年雪(ペク・ニョンソル)
不孝者は泣きます 秦芳男(チュ・バンナム)
泣いて別れた釜山港 南仁樹(ナム・インス)
さらば断髪嶺 張世貞(チャン・スジャン)
茨の花 白蘭児(ペク・ナンア)
1941 福地万里 白年雪(ペク・ニョンソル)
大地の港
白年雪(ペク・ニョンソル)
1942 喫茶店の青い夢
李蘭影(イ・ナンヨン)
落花流水
南仁樹(ナム・インス)
1943 船艙
高雲嶺(コ・ウンボン)
息子の血書
白年雪(ペク・ニョンソル)
1944 君と僕
南仁樹(ナム・インス)
1946 帰国船
李寅権(イ・イングォン)
1947 新羅の月夜
玄仁(ヒョン・イン)
去れよ、三十八度線
南仁樹(ナム・インス)
雨降る顧母嶺
玄仁(ヒョン・イン)
1949 漢江
沈蓮玉(シム・ヨノク)
1950 前線夜曲
シン・セヨン
1951 頑張れクムスナ
玄仁(ヒョン・イン)
1952 サンフランシスコ
白雪姫(ペク・ソリ)
1953 別れの釜山停車場
南仁樹(ナム・インス)
夢に見る故郷
韓正茂(ハン・ジョンム)
ラッキー・ソウル
玄仁(ヒョン・イン)
三多島消息
黄琴心(ファン・グムシム)
1954 断腸のミアリ峠
李海燕(イ・へヨン)
別れの仁川港
朴慶遠(パク・キョンウォン)
アメリカチャイナタウン
白雪姫(ペク・ソリ)
1955 泣きながら越える峠
朴戴弘(パク・ジェホン)
故郷へ馬車は行く
明国煥(ミョン・グクファン)
1956 雨降る湖南線
孫仁縞(ソン・インホ)
青春告白
南仁樹(ナム・インス)
水車の廻る由来
朴戴弘(パク・ジェホン)
大田ブルース
安貞愛(アン・ジョンエ)
1957 十九の純情
李美子(イ・ミジャ)
さすらいのキムサッカ
明国煥(ミョン・グクファン)
1958 明洞ブルース
高雲峰(コ・ウンボン)
崩れた愛の塔
南仁樹(ナム・インス)
1960 過去は聞かないで
羅愛心(ナ・エシム)
1961 黄色いシャツ
韓明淑(ハン・ミョンスク)
僕の彼女はオールドミス
崔喜準(チェ・ヒジュン)
1963 海辺にて
安多星(アン・ダソン)
はだしの青春
崔喜準(チェ・ヒジュン)
1964 椿娘
李美子(イ・ミジャ)
パパの青春
呉基沢(オ・ギテク)
下宿生
崔喜準(チェ・ヒジュン)
泣いて越える朴達峠
朴戴弘(パク・ジェホン)
1965 三千浦娘
銀鈴姉妹(ウンバンウル・チャメ)
永登浦の夜
呉基沢(オ・ギテク)
1966 葦の純情
朴一男(パク・イルナム)
小島の先生
李美子(イ・ミジャ)
同宿の歌
文珠蘭(ムン・ジュラン)
初雨
パティ・キム
1967 カスマプゲ
南珍(ナム・ジン)
三角地ロータリー
?羝弌淵戞Ε曄?
霧の奨忠壇公園
?羝弌淵戞Ε曄?
故郷無情
呉基沢(オ・ギテク)
黒山島娘
李美子(イ・ミジャ)
霧の街
鄭薫姫(チョン・フニ)
麻浦終点
銀鈴姉妹(ウンバンウル・チャメ)
1968 カプトリ・カプスニ
キム・セレナ
ソウルよ、さようなら
李美子(イ・ミジャ)
あなた
パールシスターズ
コーヒー一杯
パールシスターズ
ハゲのチョンガー
金相姫(キム・サンヒ)
1969 愛は泪のたね
羅勲児(ナ・フナ)
越南帰りの金軍曹
金秋子(キム・チュジャ)
ソウル讃歌
パティ・キム
愛するマリア
パティ・キム
嘘だよ
金秋子(キム・チュジャ)
あなたは遠くに
金秋子(キム・チュジャ)
1970 カジマオ
羅勲児(ナ・フナ)
お嬢様
李美子(イ・ミジャ)
1971 サランヘ
銀姫(ウニ)
遠い故郷
羅勲児(ナ・フナ)
花指輪をはめて
銀姫(ウニ)
朝露
楊姫銀(ヤン・ヒウン)
友達
金敏基(キム・ミンギ)
浜辺へ行こう
キーボーイズ
幸せの国で
楊姫銀(ヤン・ヒウン)
1972 君と一緒に
南珍(ナム・ジン)
水車は回るのに…
羅勲児(ナ・フナ)
1973 離別
パティ・キム
土曜の夜
金世煥(キム・セファン)
1974 手紙
オニオンス
どうしたらいいの
尹恒起(ユン・ハンギ)
鯨狩り
宋昌植(ソン・チャンシク)
美人
申重鉉(シン・ジュンヒョン)と
葉銭(ヨプチョンドゥル)
水を少しください
韓大洙(ハン・デス)
1975 なぜ呼ぶの
宋昌植(ソン・チャンシク)
1976 ノムハムニダ
金秀姫(キム・スヒ)
釜山港へ帰れ
趙容弼(チョー・ヨンピル)
貴方は知らないの
ヘ・ウニ
哀心
全永録(チョン・ヨンノク)
馬鹿なおれ
ディックファミリー
太陽が昇る日
宋大寛(ソン・デグァン)
1977 桐の葉
崔憲(チェ・ホン)
僕はどうしたら
Sand Pebbles
1978 夜汽車
李銀河(イ・ウナ)
松鶴寺
金泰坤(キム・テグン)
さくらんぼ
崔憲(チェ・ホン)
タルチュム(仮面劇)
滑走路(ファルチュロ)
1979
趙容弼(チョー・ヨンピル)
その時、その人
沈守峰(チム・スホン)
1980 恨五百年
趙容弼(チョー・ヨンピル)
窓の外の女
趙容弼(チョー・ヨンピル)
迎日湾の友
チェ・ベゴ
おかっぱ頭
趙容弼(チョー・ヨンピル)
火遊びなの
オクスン80
1981 ミオミオミオ
趙容弼(チョー・ヨンピル)
大同江便り
羅勲児(ナ・フナ)
歌の花束
金蓮子(キム・ヨンジャ)
1982 偶然出会ったあなた
隼(ソンゴルメ)
1983 独島、我が国土
鄭光泰(チョン・グァンテ)
君は我が人生
崔辰熙(チェ・ジニ)
1984 ああ大韓民国
丁秀羅(チョン・スラ)
アパート
尹秀一(ユン・スイル)
Jに
李仙姫(イ・ソニ)
雨降る永東橋
周??美(チュ・ヒョンミ)
1985 ムシロ
羅勲児(ナ・フナ)
風 風 風
キム・ボムリョン
カルムリ
羅勲児(ナ・フナ)
1986 愛の迷路
崔辰熙(チェ・ジニ)
虚空
趙容弼(チョー・ヨンピル)
1988 朝の国から
金蓮子(キム・ヨンジャ)
新沙洞のあの人
周??美(チュ・ヒョンミ)
私の心、星と一緒に
玄哲(ヒョン・チョル)
1989 揚羽蝶
金興国(キム・フングク)



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