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家康が遠慮し続けた次男「結城秀康」の生涯

歴史

家康が遠慮し続けた次男「結城秀康」の生涯

結城秀康出生

結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。越前北ノ庄藩初代藩主。越前松平家宗家初代。徳川家康の次男。

天正2年(1574年)、徳川家康の次男として遠州浜松で生まれた。母は家康の側室の於万の方(長勝院)。

於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが、家康の手が付いて秀康を身籠った。

家康は正室築山殿の悋気を恐れ、於万を重臣の本多重次のもとに預けた。秀康は徳川家で同地代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務めた領主中村正吉の屋敷で誕生した。

家康は正室に遠慮し、秀康出産後家来の家に預ける。

家康は正室築山殿の悋気を恐れ、於万を重臣の本多重次のもとに預けた。

本多 重次(ほんだ しげつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。通称は作左衛門で、剛邁で怒りやすいので「鬼作左(おにさくざ)」と綽名された。

父家康に嫌われる

幼名を於義伊(おぎい)と名づけられた秀康は、父・家康に嫌われ、満3歳になるまで対面を果たせなかった。

冷遇の理由は双子で生まれてきたことにあるともされる。当時双子での出生は「畜生腹」と言われ、忌み嫌われていた。

兄・信康のとりなしで家康との対面を果たす

その対面も、あまりの冷遇に異母弟を不憫に思った兄・信康による取りなしで実現したものであったという。

徳川 信康(とくがわ のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。

兄・信康が織田信長の命により切腹させられる

天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から、織田信長の命令により信康が切腹させられる。

このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずであった。

しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。

羽柴秀吉の養子になる

天正12年(1584年)12月22日、元服して、養父・秀吉と実父・家康の名から一字ずつ取った名を与えられ、羽柴秀康と名乗った。

秀吉の「秀」、家康の「康」を一字ずつ取って「秀康」と名乗る。天下でこれほど贅沢な名前もないであろう。

秀康の活躍

秀康は天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めた。

続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げた。

天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加した。

秀吉に実施鶴松が産まれる

しかし天正17年(1589年)秀吉に実子の鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松を豊臣氏の後継者として指名。そのため秀康は他家へ養子に出されることとなる。

このころは、家康は秀吉の傘下にあり、秀康の人質としての価値もなくなっていたようです。

秀吉は、秀康を北関東の大名の婿養子とすることを考えついた。

今度は、結城晴朝の養子になる

天正18年(1590年)に秀康は関東に下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督および結城領11万1,000石を継いだ。

結城 晴朝(ゆうき はるとも)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。下総国の戦国大名で、結城氏17代当主。結城城主。伯父の結城政勝の養嗣子となり、結城氏を継承。

結城氏は下野の守護に任命されたこともある名家であった。

きらびやかな弟たち

結城秀康は、豊臣秀頼(右大臣)の義兄であり、徳川秀忠(後2代将軍)の実兄であった。弟はいずれも天下人になる運命だが、最終的に秀康は実父家康によって越前に閉じ込められた。

豊臣 秀頼は、日本の安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。天下人。豊臣秀吉の三男。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。

越前移封

秀康は、関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に参戦する。

このとき、秀康には家康らが西に引き返す間、景勝を牽制するという留守居の役目が、家康によって与えられ、任を全うした。

関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万1000石から越前北庄67万石に加増移封された。

戦後の論功行賞にて、徳川一門を含めた諸侯の中で唯一50万石を超える加封を受けている

失意のうちに病没

慶長10年権中納言に昇任。だが病にかかり職務を全うできなくなったため越前へ帰国、閏4月8日死去。享年34。死因は「当代記」が梅毒と伝える。

人物逸話

武将としての器量は一流で周囲からも認められており、武勇抜群、剛毅で体躯も良かったと言われている。

伏見城において行われた秀忠将軍就任祝いの席には、上杉景勝が秀康に上座を譲ろうとすると、、先官の礼をもって景勝に上座を譲ろうとして譲り合いになってしまったという。結局秀忠の裁定で秀康が上座になったが、これを見た人々は秀康の礼節や謙譲の心の大きさに感心したという。

鉄砲を所持したまま江戸に向かおうとして、碓氷峠の関所で止められたが、秀康は自家が徳川家中で別格扱いであるのにそれを知らずにいた不届きな関守を成敗するとした。このため関守は懼れて江戸に伺いを立てたが、江戸の秀忠は、秀康に殺されなかっただけ幸いであったと言って事態は収まったという。

慶長5年(1600年)、家康が重臣たちに後継者を誰にすべきか質問したとき、本多忠勝と正信・正純父子らは秀康の後継を支持した。秀忠には大久保忠隣しか支持が無かったという。

伏見の馬場で馬を駆けさせていると、秀吉の寵臣が馬術を競うために秀康に馬首を並べて馬走した。秀康は「自分の許しもなく共駆けするとは無礼千万である」として無礼討ちした。しかし秀吉は秀康のこの行為を、「秀康の処置は天晴れである」と褒め称えたという。

家康と伏見城で相撲観戦していたとき、観客が熱狂して興奮状態になり騒ぎ始めた。すると秀康は観客席から立ち上がって観客を睨みつけた。その威厳に観客の誰もが驚き、騒ぎは一瞬で静まったと言われている。この秀康の威厳には家康も驚き「今日の見物ある中に、三河守(秀康)が威厳驚きたり」と述べたという。

秀康は天下三名槍の一つである鍛冶師義助の傑作「御手杵」を所有していたことでも知られている。養父・晴朝から譲られたこの槍は、槍身だけで全長210cm、穂先が138cmもあり、常人には振り回せないほど重く大きかったと言われている。

御手杵(おてぎね)は、「天下三槍」と呼ばれた名槍の1つ。室町時代に駿河国嶋田の刀工、五条義助が鍛えた大身槍である。「お手杵の槍」とも呼ばれる。

越前松平家の祖となる

秀康の子の5人の男子は徳川将軍家の御家門(越前松平家)となっており、現在も各子孫が続いている。

越前松平家は御三家などの序列とは別格の制外の家とされた。

なお、福井藩松平家・津山藩松平家の家格は、いわゆる親藩大名中でも高い。



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