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妻子一族を見捨てた「荒木村重」波乱の生涯

歴史

一説には700人以上が皆殺しにされた、有岡城の悲劇をまとめました。

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。幼名を十二郎、後に弥介。荒木氏は波多野氏の一族とされ、先祖は藤原秀郷である。

婿入りした池田家の実権を掌握

天文4年(1535年)、摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(よしむら)の嫡男として現大阪府池田市に生まれる。

最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。しかし、三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握する。

池田長正の長男が池田知正(勝重)です。後の荒木村重の家臣、荒木久左衛門と言われています。
池田勝正は池田長正の家臣であったが、文武に優れていたため池田長正の死後、池田家当主に
なったと言われています。

要するに、池田長正の本当の子供(知正)と、入り婿である荒木村重とが通謀して、池田家当主となった池田勝正を追放しています。兄弟喧嘩ですね。

築城年代は定かではないが室町時代初期に池田教依によって築かれたと思われる。 永正5年(1508年)城主池田定正は細川高国と戦い焼失、落城するが嫡子久宗が奪還する。

永禄11年(1568年)織田信長に破れ池田勝正は降伏する。 その後荒木村重が入るが伊丹城に移り廃城となった。

村重、信長に臣従する

1573(元亀4・天正元)年に将軍・足利義昭と信長が対立すると、村重は細川藤孝と共にいち早く信長へ挨拶に訪れ臣従を誓います。

戦国の世とは言え村重は、裏切りを繰り返して出世していきます。

とある宴席でのこと、信長は突如、刀で側らにあった餅(饅頭とも)を突き刺します。すると村重の前に歩み寄り、その餅を村重の眼前に突き出します。一同騒然とする中、村重は動ずることなく、刀に突き刺さった餅にかじりつき、餅を食べつくします。
さらに餅で汚れた信長の刀を自分の袖でふき取ると言う徹底振り。
この振る舞いに信長は、大いに感心し、以後村重を厚遇することになります。

村重の活躍~摂津国の国主へ

その後、元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許された。

天正元年(1573年)には茨木城主となり、同年、信長が足利義昭を攻めた時にも信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。

白井河原の戦いは、元亀2年(1571年)8月28日に白井河原一帯で行われた戦い。
池田氏の一家臣であった荒木村重が、摂津国内で勢力を拡大するために起こした戦いと考えられている。
この戦いに勝利した荒木村重は織田信長からも一目おかれる存在となる。

天正2年(1574年)11月5日に摂津国国人である伊丹氏の支配する伊丹城(後に有岡城と改称)を落とし城主となり、摂津一国を任された。

信長は、荒木村重の才能を非常に高く評価していたようです。

伊丹城(いたみじょう)は、有岡城(ありおかじょう)ともいう兵庫県伊丹市にある城。荒木村重が城を落として大改修。ついで、有岡城と改称。黒田官兵衛は当城内にあった牢内に幽閉されていた時期があった。

以後も信長に従い、石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)や紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。

村重、信長に反旗をひるがえす

天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した。

1.村重は足利義昭や石山本願寺とも親しかったため、両者の要請を受けて信長に反逆した。
2.村重の家臣が密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため、それが信長に発覚した場合の処罰を恐れた。
3.信長の側近・長谷川秀一の傲慢に耐えかねたという説(『当代記』)。
4.天正元年(1573年)、村重は信長を近江の瀬田で出迎えたが、この時に信長が刀の先に突き刺 して差し出した餅をくわえさせられるという恥辱を味わさせられたという怨恨説。

家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。

そう言いながら、結局清秀も村重を裏切ります。戦国の世は恐ろしいですね。

幼名虎之助。通称瀬兵衛。家系は清和源氏の一家系摂津源氏の流れを汲む多田源氏の後裔と称した。父は中川重清(しげきよ)、母は中川清村(きよむら)の娘。妹は古田重然(織部)室。キリシタン大名である高山右近は従兄弟にあたる。

羽柴秀吉は村重と旧知の仲でもある黒田官兵衛を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は官兵衛を拘束し土牢に監禁した。

有岡城籠城から絶望へ

以後村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。

士卒を見捨て、単身尼崎城へ脱出

兵糧も尽き始め、期待の毛利の援軍も現れず窮地に陥ることとなる。天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城へ移ってしまった。

尼崎城は兵庫県尼崎市にあった尼崎藩の藩庁の城郭である。大物川と庄下川が大阪湾に注ぐデルタ地帯に築城された城で、尼崎城に直接船が横付けできた事から、海に浮かんだような城であったと言われている。

信長の提示した条件

信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば妻子を助ける」という約束を、有岡城の城守をしていた荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わした。

信長は村重の才能を惜しみ、最後まで救済措置を取ろうとしたようです。

花隈城は、兵庫県神戸市中央区の元町駅西方にあった城。別名は花熊城。

久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった。

「非道」を嫌う信長の仕打ち

信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。

12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。

出典senjp.com

荒木村重の妻。「いまやうきひ(今楊貴妃)」と評される評判の美女であった。『信長公記』には、護送の車より降りた後、帯を締め直し、髪を高く結い直し、小袖の襟を開いて、従容と首を差し出した様子が記されている。年齢は21歳とされる。だしの妹二人も村重の郎党に嫁いでいたため、ともに六条河原で処刑されている。

12月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。

六条河原(ろくじょうがわら)は、京都市内を流れる鴨川の河原に存在した刑場。現在の五条大橋から正面橋の辺り。古くから時の権力者に反抗した政治犯たちが数多く処刑されている。

その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第、皆殺しにしていく。

天正9年(1581年)8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまったため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害している。

金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗総本山の寺院。

村重、毛利氏へ亡命

しかし、肝心の村重本人は息子・村次とともに花隈城に移り、最後は毛利氏に亡命。尾道に隠遁したとされる。

その後 本能寺の変~豊臣秀吉の台頭

天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住する。

豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。

村重、秀吉を恐れ出家し、道糞(どうふん)を名乗る

秀吉が出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見。村重は処刑を恐れて出家し、荒木道糞(どうふん)となった。

およそ武将らしくなく、一族や家臣を犠牲にしてまで生きながらえてしまったことを大いに恥じ、自らを「道糞(どうふん):道端の糞」と名乗ったそうです。

茶人として復活し、利休十哲の一人となる

利休十哲(じってつ)は、千利休の高弟10人を指す呼称。蒲生氏郷を筆頭に、細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)、瀬田正忠(掃部)、高山長房(右近/南坊)、牧村利貞(兵部)、織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)

秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫(どうくん)」に改めさせたと言われている。天正14年(1586年)5月4日、堺で死去。享年52。

秀吉に仕えるものとして、名前が「糞」とはよくないと、道糞から道薫(どうくん)へと改称したとのこと。



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