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【世紀の天才】レオナルド・ダ・ヴィンチの突き抜けたエピソード

画家

イタリアルネサンス期に生きた天才の代名詞「レオナルド・ダ・ヴィンチ」。知れば知るほど、謎の深まる圧倒的に凄い人です。

天才の代名詞 レオナルド・ダ・ヴィンチ

本名はレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Leonardo di ser Piero da Vinci ) で、絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学など様々な分野に顕著な業績を残し、「万能人 (uomo universale )」 などと呼ばれている。

史上最高の画家の一人とされているとともに、おそらくは人類史上もっとも多才な人物である。

彼の名前は「Leonardo da Vinci」。「da」は英語の「from」と同じで、「ヴィンチ村出身の」となる。という事で、「ヴィンチ村出身のレオナルドさん」という意味

長身で長髪、ひげをたくわえた美男子で、ものごしはやわらかく穏やか。服装は派手で目立ちたがり、会話もウィットに富んでいて人をひきつける性格だったようです。ただ、一方でよく考え込んで気難しく、頑固で好き嫌いのはげしい孤独な人でもあったようです

孤独な幼少時代

レオナルドは彼の作品に「Leonardos」または「Io,Leonardo」とサインしている。専門家の大半は彼の作品を「da Vincis」ではなく「Leonardos」と表記する。 おそらく彼は私生児だったので父の名前を使わなかったのだろうと考えられている。

出典my pensee

イタリアのトスカーナ州フィレンツェ県にあります。ダ・ヴィンチの生きた時代と大きく変わっていない、自然にあふれた風景が広がっています。

レオナルド・ダ・ヴィンチはヴィンチ村という自然に囲まれた村に生まれ育ったため、同年代の友達があまりおらず、イナゴやかえるなどの自然が遊び友達だったとされる。

幼少期のレオナルドは、原因は不明だが正当な教育を受けず、自然とともに暮らしていた。自由奔放な性格だったと言われる叔父からの影響とされている。この頃、「水」に対し、人並みならぬ興味を抱いていた。

レオナルドは14~16歳でフィレンツェに移ったとされる。その後、画家の見習いとして「アンドレア・デル・ヴェロッキオ」の工房に弟子入りし、ボッティチェッリらと共に学んだ。

レオナルドは、工房でヴェロッキオの絵画「キリストの洗礼」の一部を描いた。その出来は、師匠ヴェロッキオを驚愕させ、以後ヴェロッキオは一切筆をもたなくなったという逸話がある。

フィレンツェのウフィツィ美術館所蔵。
ヴェロッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチの合作とされることの多い絵画。画面全体の不調和や統一感の欠如が見られることから、さらに第三者の手も入っていると推測されます。

とどまることのない多才ぶり

ウィトルウィウス的人体図は、「画家は自然を師とするべし」と言ったレオナルドが追求しただろう、大自然の神秘を数学的に垣間見るような不思議に感覚に囚われるデッザンなのである。

黄金比率で有名なデッサンです。

27歳の時、レオナルドは裁判所の壁につるされた死刑囚をデッサンして人々を驚かせた。

また、近代解剖学の出発点となったレオナルドの人体解剖への執着も常軌を逸していた。

レオナルドは眼球を調べることで光と眼鏡の原理を解明しているし、幾人もの妊婦の死体を解剖することによって妊娠の原理と胎児の成長の過程を究明する努力もしていた。

レオナルドは科学的創造力の面でも畏敬されている。ヘリコプターや戦車の概念化、太陽エネルギーや計算機の理論、二重船殻構造(double hull )の研究、さらには初歩のプレートテクトニクス理論も理解していた。

ANAの社章にもなっているダ・ヴィンチが考案したヘリコプターの図案。ANAの飛行機の尾翼に、この絵がマークとなってつけられていたこともありました。

レオナルドが構想、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かだったが、自動糸巻器、針金の強度検査器といった小規模なアイディアは実用化され、製造業の黎明期をもたらした。

軍事エンジニアだった時期

ダ・ヴィンチは新たな仕事場を求めて、30歳の時にミラノへ移住。この街が彼の新たな出発点となる。

ダ・ヴィンチは当時のミラノ公爵に、画家としてではなく、なんと軍事関係のエンジニアとして、自らを売り込んだ。当時、ミラノはヴェネチアとの戦争状態にあった。仕事を手にするためには、軍事エンジニアとして売り込むほか手はなかったのだ。しかし、なんとその時、ダ・ヴィンチは軍事に関する知識も経験も何一つ持っていなかったのだという。



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