日蓮系の宗派で、仏像を本尊としている宗派は、以下の
文証をどう考えるのでしょうか。
三沢抄
「佐渡の国より弟子共に内々申す法門あり、中略、而るに
此の法門出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は
皆日出でて後の星の光、巧匠の後に拙きを知るなるべし。
此の時には正像の寺堂の仏像、僧等の霊験は皆消え失せて、
但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしと見えて候。」
この祖師の御指南によれば、正像の仏像を本尊とするのは、
霊験が消え失せた、抜け殻を本尊としている事になる。
これをどう判断されるのでしょうか。
>この祖師の御指南によれば、正像の仏像を本尊とするのは、
>霊験が消え失せた、抜け殻を本尊としている事になる。
>これをどう判断されるのでしょうか。
何か大きな勘違いをされてはいませんか?taikutsumanさん、
「正像の寺堂の仏像、僧等の霊験は皆消え失せて、」なのです。
日蓮の広める本尊は「正像の寺堂の仏像や、曼荼羅」ではありません。
文証を添えましょう、観心本尊抄からです。
日蓮の本尊について、くわしく載っています。
「その本尊の為体(ていたらく)、
本師の娑婆の上に、宝塔空(くう)に居し、
塔中の妙法蓮華経の左右に、
釈迦牟尼仏・多宝仏。釈尊の脇士は上行等の四菩薩なり。
文殊・弥勒等の四菩薩は、眷属として末座に居し、
迹化・他方の大小の諸菩薩は、万民の大地に処して雲閣
(うんかく)・月○(げつけい)を見るがごとし。
十方の諸仏は、大地の上に処したもう。迹仏・迹土を
表するが故なり。
かくのごとき本尊は、在世五十余年にこれなし。
八年の間、ただ八品に限る。
正像二千年の間は、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士とし、
権大乗並に涅槃、法華経の迹門等の釈尊は、文殊・普賢等を以て脇士となす。
これらの仏をば正像に造り画(えが)けども、
いまだ寿量の仏あらず、末法に来入して、
始めてこの仏像出現せしむべきか。
(引用終わり)
このように、「始めてこの仏像出現せしむべきか」の
日蓮の本尊は
曼荼羅であろうと仏像であろうと「寿量の仏」なのです」と
ありますね。
御一考を。
さて、それから、お引きの本尊問答抄です。何度お話し申し上げても、
無駄なのでしょうか?
>本尊問答抄
>「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以って本尊とせずして
>法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経
>釈を見給へ私の儀にあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と
>定め給えり。」
そのあとに
「末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、」が続きます。
いいですか、taikutsumanさん。
>答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の儀にあらず釈尊と
>天台とは法華経を本尊と定め給えり。」
ですからね、「上に挙ぐる」すなわち、この手紙の冒頭部分の経釈、法華経と
天台経釈をもう一度見給へ・・・です。
で、
問うて云く、いずれの経文、いずれの人師の釈にか出たるや。
答う、法華経の第四法師品に云く、
〔薬王在在処処にもしは説き、もしは読み、もしは誦し、もしは書き、
もしは経巻所住の処には、みなまさに七宝の塔をたてて極めて
高広厳飾(ごんじき)ならしむべし。
また舎利(しやり)を安(やす)んずることをもちいざれ、ゆえはいかん。
このうちには已に如来の全身います等云云〕
ですね。おわかりでしょうか?法華経の第四法師品に云く(中略)
また舎利(しやり)を安(やす)んずることをもちいざれ、ゆえはいかん。
このうちには已に如来の全身います等云云〕
法華経の題目の本尊について、法師品に、読み、書き、誦しなさい。この中には
「如来の全身います」と、つまり、本尊に大書された題目は釈迦如来の全身
なのですから、と
さらに、大聖人は
法と仏いずれを本尊とすべきなのかと問い、本尊とは優れたるを用いるべきだと、
つまり、仏家は釈迦仏を本尊とするべきだと、あなたの引いたこの「本尊問答抄」
でも明言していますね。
ですからね、
>私の儀にあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給えり
末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、
とあなたも引用されているのですから、調べたらどうですか?
「末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり」
なのですから
、釈迦仏、や、天台の本尊たる「法華経」って法なの?
それとも、書いているように法に勝る「釈迦仏」なの?
一代五時鶏図に日蓮の教える天台の本尊が明かされています。
もちろん、知れども明かさずの天台ですから、この本尊、天台宗の人も知らない
日蓮だけが説く「幻の天台宗の本尊」なのだそうですが。
そこには「久遠実証実修釈迦如来」とあります。
末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか>
末法以前の仏像とは違う、始めて出現する仏像と御指南
されています。
末法出現の仏像とは、久遠元初の自受用報身日蓮大聖人
の出現を示すものです。
この事は、釈迦牟尼仏、多宝如来、二仏を脇士従えた
南無妙法蓮華経を所持した仏、日蓮で明らかでしょう。
寿量品文底に秘された仏です。
法華取要抄
「如来滅後に竜樹、天親、天台、伝教の残したまえる所
の秘法何物ぞや。答えて曰く、本門の本尊、と戒壇と
題目の五字なり」
末法弘通の法体をお示しになっています。仏像とは、
仏宝である日蓮大聖人の魂魄、法宝である大御本尊以外
ありません。
脇士の釈迦如来を末法の仏像とは、曼荼羅をみてもその
ようには解釈できない。,此の大法のみ一閻浮提に流布すべし>
本尊問答抄
「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以って本尊とせずして
法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経
釈を見給へ私の儀にあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と
定め給えり。」
本尊問答抄
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以って本尊と定むべきや、
答えて云く法華経の題目を以って本尊とすべし」
弘安二年十月十二日に成就された大御本尊を一閻浮提に流布
すべしと解釈すべきでしょう。,法華経寿量品に出現の、久遠の過去に「我本行菩薩道」
を行じて成道した、久遠実成の釈尊、
神力品に出現した、妙法蓮華経を所持した釈迦牟尼仏
菩薩道に至る以前の、凡夫で在りし頃には、何れの法門
を以って因行修行したか、この寿量品文底に秘された法
と仏こそ神力品に示された、妙法蓮華経を所持した仏と
なり、久遠元初の教主釈尊となります。,日蓮系の宗派は、日蓮祖師の文証をもって判断すべきです。
でなければ、法は乱れ、数多の宗派を生む事になるでしょう。
>正像の仏像
末法に入っているのですから、正像の本尊が力をなくし、末法の仏様が本尊になります。
その本尊が仏像か曼荼羅かの違いでしょう。
日蓮聖人が、仏像を完全に否定した御文がなく、四条金吾に仏像を開眼しているなど、後世に議論の分かれるところです。
卒論で日蓮聖人の本尊について書きました。たしか、「久遠の釈尊こそ末法の本尊・・・」とかあったと思います。今、調べている時間ないけどさ。
べつに。
(´・ω・`)なんとも思いませんが?
仏像は、自分たちがなりたい姿の見本であって、手を合わせているのは、その向こう側の宇宙にある真理【法】ですから。
それが何か?