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南無妙法蓮華経 というのは、仏様の名前なのでしょうか?

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南無妙法蓮華経 というのは、仏様の名前なのでしょうか?

  1. 匿名 より:

    大木と申します。
    他教団の「南無妙法蓮華経」解釈には興味が尽きません

    私は、日蓮の「南無妙法蓮華経」解釈についてです。

    いきなり、
    本尊問答抄(大石寺写本在)(366ぺーじ)です。

    「問うて云く、末代悪世の凡夫は何物を以て
    本尊と定むべきや。

    答えて云く、法華経の題目を以て本尊とすべし。

    問うて云く、いずれの経文、
    いずれの人師の釈にか出たるや。

    答う、法華経の第四法師品に云く、〔薬王在在処処にもしは説き、
    もしは読み、もしは誦し、もしは書き、もしは経巻所住の処には、
    みな、まさに七宝の塔をたてて極めて高広厳飾(ごんじき)ならしむべし。
    また舎利(しやり)を安(やす)んずることをもちいざれ、

    ゆえはいかん。

    このうちには已に如来の全身います等云云〕

    質問者さん、ここでは、いきなり
    >法華経の題目を以て本尊とすべし。・・・からはじまります。

    で、ごらんのように、
    釈迦仏の説いた「法華経の第四法師品」には「遺骨」を
    信仰の対象としなくてよろしい、この法華経の在る所には
    如来の全身が居るのですから。・・・と明示していますでしょ。

    このお手紙は57歳作ですが、
    38歳時の「守護国家論」(66p)にも、
    「この人はすなわち釈迦牟尼仏を見るなり。
    仏口よりこの経典を聞くがごとし。

    まさに知るべし、この人は釈迦牟尼仏を供養するなり」と。
    この文を見るに、法華経は釈迦牟尼仏なり。

    法華経を信ぜざる人の前には、釈迦牟尼仏入滅を取り、
    この経を信ずる者の前には、滅後たりといえども、仏、
    世に在(ましま)すなり。」・・・・と教えています。

    38歳の遺文から「法華経は釈迦牟尼仏なり。」のお考えは
    57歳にして、少しも変わっては居ない事がわかります。

    「問答抄」に戻ります。
    「他宗は大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来と「仏」を本尊と
    するのだが何故日蓮独り「法華経」を本尊とするのかと、

    ご自分で「問い」を設けています。

    「何ぞ天台宗に独り法華経を本尊とするや、

    「答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす其の義あるべし、

    「問う其の義如何、仏と経といづれか勝れたるや、
    「答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、

    例せば儒家には三皇五帝を用いて本尊とするが如く
    仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。・・・・

    重複しますが、
    他宗は仏を本尊とするのに、何故、「経」を本尊とするのか?
    また、仏と経とは、いづれか勝れたるや?

    お答えしよう、
    本尊とは勝れたるを用うべし、
    仏家は釈迦を以て本尊とすべし。・・・・と質問者さん、

    本尊をご図顕されたご本人が自ら、「問い」自ら「答え」ています。

    「仏と経といづれか勝れたるや、
    答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし」、
    仏家は釈迦を以て本尊とすべし。・・・・とです。

    まあ、他宗は知りませんが、日蓮はこのようにはっきりと
    御自分の図顕ご本尊は「釈迦を以て本尊とすべし」とあります。

    質問者さん、もう少し、続けます。

    「 問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の
    題目を本尊とするや、

    答う、上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず
    釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、

    末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、」
    ・・・・・

    いかがでしょうか、

    「そこまで言っても、まだ、釈迦を以て本尊とせずして法華経の
    題目を本尊としているではないか、これはどういうことなのか?

    お答えしよう。
    上(この手紙の最初)に書いた様に、釈迦仏が説いた
    「法華経の第四法師品」の経文解釈をみてください。

    あの大書した、五字七字は釈迦仏の全身なのです・・・と。

    このように、私(日蓮)の独断で、五字七字を「本尊」と大書
    したのではありません。
    釈迦も、天台大師も、この仏を本尊としていますので、
    この日蓮もそれにならって「この仏」を本尊としたのです。・・・・・・

    (引用を終わります。)

    さて、問題は、日蓮が書いた、その南無妙法蓮華経が「仏」だと言う事は
    わかったのですが、さて、どの仏なのだろうか?・・・は、

    文中の釈迦が、また天台が本尊とした、「仏」を見つければ、日蓮が
    本尊とした仏が、現代の我々にでも、判ると言う事です。

    残念ながら、浅学のため私は、釈迦仏の本尊は判りませんが、
    それでは、天台の本尊はどうでしょうか?

    これなら、御書に明記されています。

    「一代五時鶏図」(学会版・632P)からです。
    「天台宗の御本尊・久遠実成実修実証の仏、釈迦如来」とあります。

    もちろん、公にはしていない、日蓮だけが知って、教える、
    「幻(天台は明かさないのでしたね)の天台の本尊」なのですね。

    他教団の「南無妙法蓮華経」に対する解釈は色々在るようですが、

    このように、日蓮がお曼荼羅に顕わした南無妙法蓮華経に限って
    の話ならば、各御書の記述を根拠としまして、

    「南無妙法蓮華経」とは「久遠釈迦仏なのです」と申し上げても、
    よいかと思います。

  2. 匿名 より:

    ↑この九界を出発点とした上で→不変→随縁の一往復のワンスクロール(これは法華経の二処三会の前霊鷲山→虚空会→後霊鷲山のワンスクロールに該当)、この共通の出現ロジックを有情で展開すれば生命体としての仏(人本尊)、非情で展開すれば非生命体としての仏=本尊(法本尊)。故に妙法蓮華経に南無した、南無妙法蓮華経という現象によって出現したものはそれが有情であれ非情であれ“仏”を意味します。

    生命体としての仏は生物学上の遺伝配列は飽くまでヒトのそれ、本尊は飽くまで長方形の紙であり主成分はセルロースで分子式は(C6H10O5)n、両者は全く違う表現方法で現象世界に存在しているがその出現ロジックは全く同じ、故に人本尊と法本尊は相即不二であり人法一箇という。

  3. 匿名 より:

    皆様、ありがとうございました

  4. 匿名 より:

    南無妙法蓮華経とは、仏性を心の中から出す、魔法の言葉です。
    正しい御本尊に、南無妙法蓮華経と唱えるとき、仏性が呼ばれて
    出てくるのです。南無妙法蓮華経を唱えるとき、宇宙大の生命に
    なれます。

    創価学会員からでした。

  5. 匿名 より:

    信仰の告白です。。。

  6. 匿名 より:

    http://homepage3.nifty.com/houmanji/oshie1.html
    こちらが意味です。
    サーベルタイガーさんには及びませんが。

  7. 匿名 より:

    フフッ、面白い回答がつくかと静観してみたが、こんな所かな?

    日蓮正宗信徒のサーベルタイガーです。南無妙法蓮華経は仏の名です。

    先ずこの手の質問の回答として“妙法蓮華経に南無する(帰命する)”という回答は非常に多いですがこれだけでは片手落ちの50点、何故ならばそれは“何故それが仏の名になるのか”という説明には実はなっていないのですよ。

    そもそも“妙法蓮華経”とは一応は28章から成り立つ『物語のタイトル』ですが再往、つまり真意は仏の主観から見た命の実相、即ち“三世に流転する命のメカニズム”に付けられたネーミングを意味する。

    『至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時因果倶時不思議の一法之れ有り之を 名けて妙法蓮華と為す』とある様に、

    例えば全ての天体に引力というベクトルが働いているこの宇宙の摂理にアイザック・ニュートンが『万有引力の法則』と名付けた様に、

    例えば光が持つ不可思議な特性にアルベルト・アインシュタインが『相対性理論』と名付けた様に、

    『命』という曖昧模糊とした存在が持つ特性、即ち主観と客観(三世間)が優性と劣性のコンディション(十界)を十如是のプロセスに従って明滅させながら三世に亘り生死を永遠に繰り返していく、この命の特性を表現するに相応しい言葉として“妙法蓮華経”と名付けた訳です。

    つまり妙法蓮華経(法華経28品)とはその原理法則を物語として表現したものであり、“妙法蓮華経”とはその物語のタイトルである以上に“物語に込められた原理法則に名付けられたネーミング”色の方が濃い。

    法華経に物語形式として込められた“三世に流転する命という存在のメカニズム”、このメカニズムは天台の言葉を借りれば一念三千と呼ばれる原理法則であり、我々九界の生命体には曖昧模糊とした存在としてしかその眼に映らぬ命でも仏の眼から見ればそのメカニズムの全体像を俯瞰出来る訳であり、そのメカニズムを妙法蓮華経(別名・一念三千)と名付けているのです。

    このメカニズム(実相)は九界の生命体では俯瞰出来ない、“唯仏与仏乃能究尽諸法実相”とある様にただ仏のみがこの命のメカニズムの全体像である妙法蓮華経=一念三千を俯瞰する事が出来る。故に妙法蓮華経は仏の悟りなのであり、命が仏(自受用身)というチャンネルへシフトした時に初めて命を含む万物を妙法蓮華経(一念三千)と観測する事が出来る、逆に言えば命や万物を妙法蓮華経(一念三千)と観測する事に成功したならばその者の命のチャンネルは必然的に仏(自受用身)へとシフトチェンジしている事になる。

    つまり自受用身と一念三千は主観と客観の関係に在り、自受用身が観測者であり主観ならば一念三千(妙法蓮華経)は観測対象であり客観となる。

    妙法蓮華経(一念三千)が仏の主観から見た命や万物のメカニズムであり仏の心のスクリーンにのみ映る仏の悟り、ここまでは良いでしょうか?

    では“南無妙法蓮華経”とは何かと言えば、命や万物を妙法蓮華経という原理法則と俯瞰出来る状態=仏へと自身の命をシフトする、つまり仏独自のアルゴリズム(モノの見方・認識法)をマスターする、仏と同じ観測法を獲得する、仏と同じ視点に立つ、引いては仏の悟り(妙法蓮華経)にリンク・アクセスする(南無する)事であり、言ってしまえば南無妙法蓮華経というフレーズそれ自体が“仏になる”という意味を持つ。

    これが妙法蓮華経と南無妙法蓮華経の決定的な違いであり、妙法蓮華経とは仏の心のスクリーンにのみ展開される形無きアルゴリズムであり仏独自の命や万物の俯瞰の仕方(=仏知見)、それは飽くまで仏の心の中にしか展開されない形無き概念なのですよ。だからこそ仏はあまねく衆生の心の中からブラックボックスの如く秘められた仏としてのアルゴリズムを開き・示し・悟らせ・入らせる為にこそ世に出現した。

    釈尊・天台までの法華経が南無妙法蓮華経でなく“妙法蓮華経”であるのはここに由来する。

    対し南無妙法蓮華経とは形無きアルゴリズムだった妙法蓮華経という仏の悟りに、この天体の草木という依り代を与える事で本尊という形ある物理的な存在へと具現化したもの、大聖人の法華経=本尊が形無きアルゴリズムではなく具体的な形を持ったものであるからこそ妙法蓮華経ではなく南無妙法蓮華経と定義される所以がここに在る。

    御義口伝に曰く

    『帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり』

    とある通り、南無妙法蓮華経とはその精神性のリーチが仏の悟りに届き、その上で形を持った物理的な存在として具現化している事を意味する。言ってしまえば妙法蓮華経とは名詞であり南無妙法蓮華経は実は動名詞の様なものだ。

    “その心法が不変真如の理という仏の悟りへとリーチが届き、その上で随縁真如の智、つまり色法を獲得して物理的な存在として出現する”

    (失礼、以下返信スペースへ)

  8. 匿名 より:

    創価学会の池田名誉会長は、なぜ祈りが叶うのかという疑問に対して、「それは、君自身にもともと祈りを叶える力があるからです。その祈りを叶える一番力強い生命を『仏性』ないしは『仏の生命』と言います。そして、仏の命を引き出すためにお題目を唱えるのです」と言われています。自分の生命の中から引き出され、湧き出した仏の生命の力が、最も良い形で祈りを叶えていくということです。

    ■唱題でなぜ仏の生命が湧き出すのか

    ではなぜ、唱題をすると仏の生命が湧き出してくるのでしょうか。この点についても、池田名誉会長は、次のように言われています。

    「南無妙法蓮華経」が、仏の生命の“名前”だからです。みんなもそれぞれ、名前を持っています。「○○君」「○○さん」と呼ばれれば、「はい」と言って、振り向くよね?
    同じように、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることで、自分の中から、仏界の生命が呼ばれて「はい!」と元気良く出てくるんだ。
    大聖人は御書で、「我が生命の中の仏性が南無妙法蓮華経と呼ばれてあらわれるところを仏というのである(557頁趣意)」と仰せです。
    そして、南無妙法蓮華経は、宇宙を貫く根源の法です。太陽や星が運行していく究極の力でもあります。
    宇宙のあらゆる存在の奥底に、みんなと同じく南無妙法蓮華経が厳然と具わっている。ですから、ひとたび、題目を唱えれば、そのすべてが呼び起こされ、味方となっていくんです。
    御本尊は、いわば大宇宙に開かれた生命の窓です。題目は、宇宙のあらゆる仏界を呼び起こす合言葉といえる。
    唱題することで、自身に宇宙大の可能性を開いていくことができる。自分でも気づいていない、本当の自分の力を湧き立たせていくことができるのです。
    そして、宇宙の善の力をすべて味方にしていくのだから、これほど強いことはないんだよ。
    これは、戸田城聖先生の弟子として、世界に仏法を弘めてきた、私の人生の確信です。

    ※自身にも、宇宙の森羅万象にも、等しく具わる究極の『法』を本尊として拝し、唱題することが、法華経に説かれる修行の真髄ということです。

    http://sgi.cyclehope.com/



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