日蓮宗の方からこのようなコメントをいただきました。 「>創価学会では、とくに日蓮宗の害毒は酷い&#8… | 質問の答えを募集中です! 日蓮宗の方からこのようなコメントをいただきました。 「>創価学会では、とくに日蓮宗の害毒は酷い&#8… | 質問の答えを募集中です!

日蓮宗の方からこのようなコメントをいただきました。 「>創価学会では、とくに日蓮宗の害毒は酷い…

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日蓮宗の方からこのようなコメントをいただきました。
「>創価学会では、とくに日蓮宗の害毒は酷いと、日蓮宗の寺院の周りには精神病院が多い、一家離散、精神障害を日蓮宗では引き起こすと、耳にタコができるぐらい聞かされました。

根も葉もない、出鱈目です。創価学会の元上位組織である、日蓮正宗の教義は日蓮聖人や日興師のものではありません、二十六世堅樹院日寛による『日蓮本佛・釈迦脱佛論』は中古天台恵心流の『天台本佛・釈迦脱佛論』の焼き直し、盗用教学です。
その他も九世日有の教学をベースに発展して来た宗門であり、現在の日蓮正宗の『血脈相伝』や『唯授一人』等も全くの作り話でしかありません。
ようするに彼等の言う所の『堕地獄』や『脳乱』『罰論』は何の根拠も無い嘘偽りです。」

詳しくは、

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13144568453?fr=chie_my_notice_newansより

創価学会、日蓮正宗の方々、どのような反論、説明をしますか?

是非、全ての衆生、万民が納得する説明をお願いしたい。

  1. 匿名 より:

    日蓮宗側の者から一言です。

    >全ては「日蓮宗にとって都合が良いか悪いか」が、
    日蓮宗に於ける御書の読み方なのです。
    >本門戒壇の大御本尊様と
    >唯授一人の血脈に背いて、
    >どんなに南無妙法蓮華経を唱えても、それは成仏の因と
    ならないばかりか、堕地獄の業にしかなりません。

    おどろきましたね、
    これらはすべて、「本未有善」の教えを信じきっての
    ご発言ですね。

    たとえば、
    >その証拠に未だ、『法華経の題目を以て本尊とすべし』と
    云う、大聖人様の御明確な御教えに背いて、
    釈尊を本尊と立てています。

    これなども、北山本門寺に写本在・本尊問答抄のご文ですね。

    冒頭の『法華経の題目を以て本尊とすべし』の後は、
    「問うて云く、いずれの経文、いずれの人師の釈にか
    出たるや。

    答う、法華経の第四法師品に云く、「薬王在在処処に
    もしは説き、もしは読み、もしは誦し、もしは書き、
    もしは経巻所住の処には、みなまさに七宝の塔をたてて
    極めて高広厳飾(ごんじき)ならしむべし。

    また舎利(しやり)を安(やす)んずることをもちいざれ、
    ゆえはいかん。
    このうちには已に如来の全身います等云云・・」

    と題目を本尊とした理由となる経文を上げています。
    つまり、遺骨を本尊とする必要は無く、題目を持って本尊と
    したのは、釈迦如来の全身だからですと。

    更に読み進めば、
    「問う、その義いかん。仏と経といずれか勝れたるや。
    答て云く、本尊とは勝れたるを用ゆべし。例せば儒家には
    三皇・五帝を用いて本尊とするがごとく、
    仏家にもまた釈迦を以て本尊とすべし。

    ・ ・・と明言しています。

    問うて云く、しからばなんじいかんぞ釈迦を以て本尊と
    せずして、法華経の題目を本尊とするや。

    答う、上(かみ)に挙ぐるところの経釈を見給へ。
    私の義にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と
    定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台とのごとく、法華経
    を以て本尊とするなり。

    ・・・・このように、くどいほどの説明が続きます。

    「上(かみ)に挙ぐるところの経釈を見給へ。私の義には
    あらず。・・・」とは、
    この手紙の冒頭の経文や、天台の経釈を指しますね。
    説明済みですので省略します。

    つまり、日蓮が大書した南無妙法蓮華経とは
    釈迦仏の全身なのです。

    と、さらに、
    この事は自分の一存ではなく天台、釈迦仏も、これを本尊
    としていて、日蓮もこれを本尊とするのですと。

    つまり、西山本門寺在「一代五時鶏図」に日蓮の言う
    「天台宗の本尊」が明かされていますね。

    勿論、現実には顕わされていない、(知れども明かさずの
    天台ですので)

    日蓮だけが明かす天台宗の、いわゆる「幻の本尊」
    なのですね。(学会版では、632pです)
    とにかく、末法本未有善の人が、剃髪し、さも、
    日蓮の弟子だと言い張るのですが、

    上行日蓮は本尊抄において
    「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字
    を以て幼稚に服せしむ「因謗堕悪必因得益」とは是なり、
    我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」
    と教えています。

    日蓮の弟子は久遠に、釈迦仏から下種済みの地涌の菩薩で
    あり、当然、釈迦仏の初めての弟子なのですよ。

    この期に及んで、相承がどうのなどという人が居ますが、
    虚しく映るばかりですね。

    刻々と朽ちて行く木材に、仏のお名を刻んで、本尊と言うなら
    まだしも、

    これを「仏の当体」だといえば、これはもう、
    日蓮の教えではないですね。

    とにかく、末法に出現する日蓮の弟子、本己有善の元に
    集う事が何よりも大事でしょうね。

  2. 匿名 より:

    (続きです)
    この文の意は、末代の凡夫法華経を信ずるは、普賢の善知識の力なり。また云く、「もしこの法華経を受持し、読誦し、正憶念し、修習し、書写することあらん者は、まさに知るべし、
    この人はすなわち釈迦牟尼仏を見るなり。仏口よりこの経典を聞くがごとし。

    まさに知るべし、この人は釈迦牟尼仏を供養するなり」と。

    この文を見るに、法華経は釈迦牟尼仏なり。

    法華経を信ぜざる人の前には、釈迦牟尼仏入滅を取り、
    この経を信ずる者の前には、滅後たりといえども、仏世(よ)に在(ましま)すなり。

    のお考えは、57歳に置かれましても、いささかのブレもございません。

    大書された法華経の結要五字七文字は久遠釈迦仏であり、インド釈迦仏を含めて、すべての仏が成じること(誕生)が出来たのは、この仏(日蓮大聖人いわく、仏界常住たる「無始古仏」)の指導のおかげですね。

    法華経は久遠釈迦仏なのです。

  3. 匿名 より:

    なるほど。

  4. 匿名 より:

    >今末法に入って、眼とは所謂、未曾有の大曼陀羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり云々,→曼陀羅御本尊以外無いと言う事に成りませんか?

    ですが、
    曼荼羅と言うも、御本尊と言うも、「信仰の対象とする仏」を指します。

    曼荼羅に顕わそうが、仏像に刻もうが、本尊はたとえば、大日であったり、阿弥陀仏であったり、釈迦仏であったりするわけでしょう。

    なぜ、「曼陀羅御本尊以外、たとえば、仏像ご本尊ではいけない」のでしょうか?

    宗祖大聖人は「眼目」について、「木絵ニ像開眼之事」
    (曾存)には、

    「仏滅後は木画の二像あり。これ三十一相にして梵音声かけたり。〔ゆえに仏にあらず〕。また、心法かけたり。
    生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり。(中略)

    また木絵二像の前に阿含経を置けば、声聞とひとし。
    (中略)
    三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云。
    ゆへに普賢経に法華経の仏を説ていはく、

    「仏の三種の身は方等より生ず」文。この方等は方等部の方等にあらず、法華を方等といふなり。

    またいはく、〔「この大乗経は、これ諸仏の眼なり。
    諸仏これに因(よつ)て五眼(ごげん)を具することを得る」〕


    三十一相の仏の前に法華経を安置したてまつることに
    よって、始めて純粋の円仏ということができるのである。

    したがって普賢経には法華経の仏のことを、
    「仏の三種の身は方等より生ず」と説いている。

    ここで方等というのは五時でいう方等部のことではなく、
    法華のことを方等といっているのである。

    また同経には「この大乗経は諸仏の眼であって、諸仏は
    この経によって五眼を備えることができる」
    とも説かれている。

    ここでは宗祖は「曼荼羅以外はだめ」とは言いません。
    「曼陀羅御本尊以外は駄目と言う事には成らないと
    愚考いたします。

    >「本尊問答抄」から‘問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや・・其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給えり故に今能生を以て本尊とするなり,→→法華経の本尊は釈迦一仏のみの生命だけでは無く日蓮大聖人を始め全ての仏を生み出す父母(根源)=釈迦の上に更なる仏が存在すると言う事が明らかでは無いでしょうか?

    ここは、もうすこし、略さずにみてみます。

    「問うて云く、しからばなんじいかんぞ釈迦を以て本尊と
    せずして、法華経の題目を本尊とするや。
    答う、上(かみ)に挙ぐるところの経釈を見給へ。私の義
    にはあらず。

    釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も
    仏と天台とのごとく、法華経を以て本尊とするなり。

    その故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。

    釈迦・大日、総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。
    故に今能生を以て本尊とするなり。

    つまり、
    〔問〕それならばなぜ釈尊を本尊としないで、
    法華経の題目を本尊とするのか。
    〔答〕それは前に引用した経文やその解釈を見ればわかる
    ように、日蓮一人の勝手な考えではなく、釈尊も天台大師も法華経を本尊とされたのである。

    そのため末代の世にある日蓮も釈尊や天台大師と同じように、法華経を本尊とするのである。

    それは法華経は釈尊を生んだ父母であり、また諸仏の眼目
    であって、釈尊も大日如来も、十方世界のあらゆる諸仏も
    すべて法華経から生まれたのである。

    このため生みの親の法華経を本尊とするのである。

    つまり、
    答う、上(かみ)に挙ぐるところの経釈を見給へ。
    私の義にはあらず。

    の・・上に挙げる「経釈」とは、
    「法華経の第四巻の法師品第十」
    「涅槃経の第四巻の如来性品」
    「天台大師の法華三昧懺儀」などです。

    「法華経の第四巻の法師品第十」には
    この経のある所はどこであっても、七種の宝石で飾られた高く広い立派な塔を建てて供養せよ。なぜなら、この法華経の中には仏の全身がましますから、したがって、
    別に舎利(遺骨)を安置する必要などない」と説かれ、

    涅槃経の第四巻の如来性品には「迦葉よ。諸仏が師とするものは法である。そのために仏は法を敬い供養する。法が常住永遠であるから諸仏もまた常住なのである」と説かれ、

    天台大師の法華三昧懺儀には「道場の中によき高座を設けてただ法華経一部を安置せよ。仏像や舎利やその他の経典を安置する必要はなく、法華経一部だけで良い」と述べられています。

    法華経一部を安置すれば、この「法」は、釈迦仏の全身であるがゆえに、仏像とか、遺骨とか、その他の経典は無くてもいいよ」とあるわけです。

    つまり、38歳時の「守護国家論」の[法華経は釈迦仏なり]

    「法華経に云く、「もし法華経を閻浮提に行じ、受持することあらん者は、
    まさにこの念を作(な)すべし、皆これ普賢威神の力なり」と。
    (以下に続く)

  5. 匿名 より:

    「法華経」と神道の「中今」の思想は五十歩百歩の考えと思えます。「法華経」を教義としておられる方は、日本のその昔有った神仏習合のお考えに近いのでは?

  6. 匿名 より:

    日蓮宗信徒です。開目抄には『日蓮は日本国の緒人に親しき父母なり』と書いてあるだけで、本抄にて日蓮聖人は、はっきりお釈迦様が本佛だと言っています。
    日蓮宗は日蓮聖人の書いた本物の開目抄を持っているので、間違い様がありません。

    また日興さんが、正統な跡取りと言うのも嘘です、『二箇の相伝書』も九世日有が書いた、所謂偽書です。日興さんは、少し気に入らない事です、身延山を逃げ出し、日向上人に授与された大量のお曼陀羅を盗みました、以来日興さんの門流では、身延山を妬み続けています。

  7. 匿名 より:

    はじめまして現在学会員の者です。・・・それでは、先ず始めに、あなた方が御開山様と仰がれます‘民部日向上人,筆録に依られます‘御講聞書(御義口伝は偽書扱いなのに?・・・),より引用させて戴きますと‘此の大乗経典は是れ諸仏の眼目なり、所詮、眼の一字は一念三千の法門なり・・・今末法に入って、眼とは所謂、未曾有の大曼陀羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり云々,→曼陀羅御本尊以外無いと言う事に成りませんか?・・・次に「本尊問答抄」から‘問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや・・其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給えり故に今能生を以て本尊とするなり,→→法華経の本尊は釈迦一仏のみの生命だけでは無く日蓮大聖人を始め全ての仏を生み出す父母(根源)=釈迦の上に更なる仏が存在すると言う事が明らかでは無いでしょうか?・・・究め付けに「諸法実相抄」から‘されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ,→→御本仏はまさしく‘南無妙法蓮華経,と仰せで在らせられる事が明快・明確でありましょう。・・・その他‘教主釈尊より大事なる法華経の行者日蓮,‘此の時地涌千界出現して本門の教主釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し・・・,と。 いかがでしょうか?-{WaKaranntii1さん続きをお聞かせ下さいませ}-貴方が引用されております‘守護国家論,‘木絵二像開眼之事,等の御抄は未だ曼陀羅御本尊が顕わされる以前の時期の、権実狂乱を糾される事等が主体とされ、かつ天台宗学を帯た御教示が成されていらっしゃるでしょう、ですから南無妙法蓮華経の七文字が記述されておりません・・・大聖人云く‘又法門の事は佐渡の国へながされ候いし巳前の法門は・ただ仏の爾前の経とおぼしめせ,(三沢抄)

  8. 匿名 より:

    開目抄
    「日蓮は日本の諸人に主師父母なり」
    大聖人御自身主師親三徳具備の仏と宣言されています。
    日蓮宗では、この日蓮の意志を無視して大菩薩と立てている。
    紙の不足した流罪の時、余白を埋め尽くして書かれた御書
    ですが、都合の悪い御書ですから、偽書と言っている。

    身延相承書、池上相承書、これも都合が悪いから偽書扱い
    でしょう、なぜなら日向ではなく、日興上人に相承する
    と示されていますから日蓮宗にはまずいでしょうね、

    御義口伝に曰く
    「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」
    法師品に曰く
    「若しは経巻処住の処には、乃至この中には、如来の全身有」
    宝塔品に曰く
    「若しよく持つ事有らば即ち仏身を持つなり」
    観普賢経に曰く
    「此の教を持つ者は仏身を持つ」

    何れも人法体一、人法一箇を言っています。
    きつね、鬼子母神、摩利支天、等本尊を店頭で販売している
    状態である日蓮宗では本尊の大事をわすれ、
    釈尊を拝むのか、日蓮大聖人の像か、曼荼羅を拝むのかさえ
    結論をだしていない、「本尊に迷えり」の戒めを知るべきでしょう。

    開目抄には
    「一念三千文底秘沈」と仰せである、文底秘沈の三大秘宝
    そして弘安2年10月12日の大御本尊を一大秘宝の大御本尊と
    立てる事が、日蓮大聖人の出世の本懐であると示されている。
    これを理解出来ないから、本尊に迷うのです。



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