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法師品第十における質問です。 サッダルマ・プンダリーカでは、この経説が説かれる「土地では、高く…

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法師品第十における質問です。
サッダルマ・プンダリーカでは、この経説が説かれる「土地では、高く聳える大きな宝石づくりの如来の塔が建立されるべきであるが、
そこに如来の遺骨が安置される必要はない。それは何故であるかと言えば、そこには如来の全体の遺骨が安置されているからである。」とあります。
妙法蓮華経によると「…の処にも皆、応に七宝の塔を起てて、極めて高く広くして厳飾(かざり)あらしむべし。また、舎利を安んずべからず。所以は何(いか)ん。この中には、己に如来の全身有(いま)せばなり。」とあります。
私は漢文は弱いのですが、「舎利を安んずべからず」は、「遺骨を軽く見てはいけないよ」と読んでしまいますから、その後の「なぜなら、元々、全身の遺骨があるのだから」と上手く繋がります。
しかし、プンダリーカだと意味不明です。「全体の遺骨が安置されているから、遺骨を安置する必要はない」とはどういう意味でしょう?全体の遺骨が安置されているなら、後から安置などできようはずもないのに。
恐らくこの時代、大乗仏教側の優婆塞・優婆夷達が舎利を重んじていたことに由来するのだと思います。生誕地・涅槃地などに、仏舎利を安置していた筈ですから。
それと、次章の「見宝塔品」の多宝如来出現に繋がるのだと予想はできます。しかし、今一つ理解に苦しむところです。

  1. 匿名 より:

    鶯さん、大木です。
    久しぶりに「スカッ!」とするご回答でしたね。で、私は横道です。

    大石寺蔵「本尊問答抄」の冒頭にも、いきなり出てきますね。

    「問うて云く、いずれの経文、いずれの人師の釈にか出たるや。

    答う、法華経の第四法師品に云く、薬王在在処処にもしは説き、もしは読み、
    もしは誦し、もしは書き、もしは経巻所住の処には、みな、
    まさに七宝の塔をたてて極めて高広厳飾ならしむべし。

    また舎利を安んずることをもちいざれ、ゆえはいかん。

    このうちには已に如来の全身います等云云涅槃経の第四如来性品に云く、
    また次に迦葉、諸仏の師とするところはいわゆる法なり。

    この故に如来は恭敬供養す。法常なるをもつての故に諸仏もまた常なり云云

    天台大師の法華三昧に云く、道場の中において好き高座を敷き、法華経一部を安置し、
    またいまだ必ずしも形像・舎利並に余の経典を安んずべからず、

    ただ法華経一部を置く等云云」・・・・・ですね。

    皆様が仰るように、「お墓(遺骨)」は要らないのでは・・・なども、
    この仏の教えの解釈からすれば、頷けるところでしょうか。

    とは言うものの、わが国において、
    「遺骨がある」とか「無い」とかを議論すべきではない、ご遺骨よりも大事な事がある」とは
    現実には中々、言えないかも知れませんがね。

    さて、日蓮のこの遺文には、かっての兄弟子に請われたのでしょう、
    本尊を授与して、その、内容が詳しく、問答方式をもって
    、述べられていますね。

    最初は「法華経をもって、本尊とする」から始まります。
    「諸仏を生んだのは法華経である」と。

    ところが、他宗は皆「法を本尊としないで、仏を本尊としているが、なぜ
    日蓮は「法華経(七文字)を本尊とするのか?」と
    わざわざ、設問して、

    では、法と仏ではどちらが勝れているのか」に続いて、
    「本尊とは、勝れるを用いるべきだ。」すなわち、
    「仏家では「釈迦仏」をもって本尊とすべき」と
    明言していますね。

    その理由として、上に書いたように、遺骨を拝むのではなく釈迦仏を拝するのだと。
    「法華経」とは生身の釈迦仏の全身なのですよと。

    だらだらと長くなっちゃたけれど、
    私(日蓮)の一存で書いたわけでは有りませんよ兄弟子さん。
    諸仏(応身釈迦仏)や、天台大師、も本尊としているので、
    私も、これを本尊としたのですよと。

    とは言うものの、
    釈迦仏が本尊とした仏って、どなただっけ。

    「法ではなく、仏を本尊にすべし」
    と明言なさっているわけで、しかも、その仏はインド釈迦仏様やら、
    天台大師が本尊としておられるらしい。

    で。大聖人も、それを本尊としているのですよと。

    そんな事を言われましても
    「法に勝る本尊となる仏って、鶯さん、思い浮かぶ?」

    これまでに、散々、諸仏の親は法華経なんですよと、教えていて、
    ここで、本尊は「法ではなく、仏を以って本尊」ってんでしょ。

    で、鶯さん、師、日蓮が弟子達に教えていた教材の一つが
    「一代五時鶏図(西山本門寺蔵)」ですか、

    (学会版632P)に「天台宗のご本尊」というのがありましたよ、
    「久遠実成実修実証の仏、釈迦如来」と。

    しかしこれ、「天台」の本尊ではなく、「天台宗の本尊」ではないのですかと。

    何故、天台大師は日蓮より先に広めなかったのでしょうかね、と。
    ところが、天台宗にはこのような本尊は無いとのことらしいですね。

    つまり、日蓮の胸中にのみ存在する「幻の天台宗の本尊」なのですね。
    ひょっとして、日蓮と、それから、この事を教えられた弟子だけが知っていた??

    あの、大書された南無妙法蓮華経とは、釈迦仏の事でありその釈迦仏とは
    「四依の菩薩」を見れば、その、ご正体が解かります。

    いつも、大雑把で、ごめんなさいね。

    「法華経とは釈迦仏なり」(守護国家論)は(38歳)
    引用の「本尊問答抄」は57歳、ですね。当然と言えば当然ですが、
    一貫していて、ブレていませんね。

  2. 匿名 より:

    お三方とも、回答有難うございます。
    法師品がこんなに重要な章だとは思っていませんでした。一つ一つ読み進めることの大事さを噛み締めています。
    今後とも宜しくお願い致します。

  3. 匿名 より:

    「舎利を安んずる」は仏身を安置する。「べからず」で安置するな。
    「経巻に全身まします」を受け、天台大師は、法華経を安置せられていました。

  4. 匿名 より:

    こんにちは。

    ご質問にお応えする前に、法師と仏塔供養について少しご説明いたします。

    サンスクリット語の「ダルマバーナカ」”dharmabhāṇaka” を中国で「法師」と訳しています。ダルマバーナカとは、「教えを語る者」のことです。古くは、辻説法をする者のことで、出家修行者とは認められていないような者たちのことをいいました。

    釈尊が亡くなられて約100年程して、インドを統一したアショーカ大王が仏教に帰依し、仏教を国の宗教として保護しました。そして、それまで八つの仏塔に納められていた仏舎利を掘り出して細かく砕き、その多くの仏舎利をインド中に分けて、それぞれに仏塔を建てて供養をしました。仏塔管理は、戒律上、出家修行者が就くことができず、法師がその任務に就くようになりました。

    各地に仏塔が建つと在家信者による仏塔信仰がブームになり、法師は、信者たちを仏塔に案内をし、礼拝の仕方を伝え、仏伝や教えを参拝者たちに語りました。しかし、法師たちは、仏塔信仰は仏陀の説いた道ではないことを知っていましたので、何とか在家者たちも智慧の道を進めないものかと思案し、大衆部の出家者たちと組んで在家救済の一大ムーブメントが起こりました。それが大乗仏教の始まりです。

    大衆部の出家者たちと法師たちは、在家を救済する菩薩たち向けの経典を次々と編纂しました。般若経典は完全に菩薩向けですが、法華経は、在家信者のために作られた譬え話も盛りこんで編纂されたようです。

    法華経では、仏塔を管理する者が法師なのではなく、法を説く者が法師であると教えています。聞く立場から語り伝える立場になるようにと導いています。具体的には、受持・読・誦・解説・書写の行を勧めています。まず自身が経典を受けて保ち、それを読んで暗記し、人に説いて伝え、自分が持っている経典を書き写して新しく仕上がった経典を他者に与えなさいと説いています。そして、その経典を授かった者ば、それを仏とみて供養しなさいと言います。経典そのものを供養しなさいということではなく、そこに仏法が綴られていますから、仏法を供養しなさいという意味です。

    仏塔信仰の問題点は、亡き釈尊を神格化して崇めることです。釈尊は神への信仰を勧めていませんから、もちろん自分自身を崇めよとは言いませんでした。重要なのは、釈尊自身よりも、釈尊の悟った法のほうです。釈尊自身も、妙法を悟って仏陀に成ったのですから、仏陀の本体は妙法のほうにあると観たのが大乗仏教です。よって、仏塔信仰から仏道へと人々の信の方向を変えるために、法師品は説かれています。その一つの譬諭が、質問者さんのおっしゃっている「仏舎利ではなく、仏法を供養せよ」という一節です。

    サンスクリット語のシャリーラを中国で舎利と音写しています。シャリーラは、「身体」「肉体」の意味ですが、死体・遺骨の意味としても使われるようになったようです。仏舎利といえば、釈尊の遺骨のことをいいますから、仏教用語としては、遺骨の意味で定着しています。

    「舎利を安んずべからず」という訓読は誤解を招きそうです。「不須復安舎利」(ふしゅぶあんしゃり)を訓読にすれば、「また舎利を安ずることを須いず」になると思います。「安」という語は、”Pratiṣṭhāpita” からの訳のようです。この語は、「安置」「納める」「祀る」「入れる」のことですから、おそらくは「安置」の「安」を取っているのだと思います。「安」という一字で「安置」を意味するのか調べてみましたが分かりませんでした。しかし、サンスクリット語から読めば「安置」の意味として使っているのは明らかです。「不須」というのは「必要としない」という意味ですから、「舎利を安置することを必要としない」という意味になるのではないでしょうか?

    ~薬王、在在処処に、もしは説き、もしは読み、もしは誦し、もしは書き、もしは経巻所住の処には、皆七宝の塔を起て極めて高広厳飾ならしむべし。また舎利を安ずることを須いず。所以は何ん。この中にはすでに如来の全身います。

    仏法のあるところには、仏塔を建てて供養しなさい。その仏塔には仏舎利を納める必要はありません。なぜなら、その仏塔にはすでに如来の本体である妙法がすべて収まっているのです。

    如来の本体である妙法については、次の見宝塔品第十一から本格的に説かれるようになります。

    合掌



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