元はエリートだった。
中行説は、中国の漢王朝の宦官(かんがん)であった。宦官(かんがん)とは、去勢をされた役人である。
中国王朝において官僚は特権階級であった、貴族ではない庶民のが官僚として出世する方法は宦官になるなど一部でした。
辺境に送られて逆恨み
漢王朝の王であった文帝は、中行説を匈奴(異民族)に嫁ぐ女性のお世話役として匈奴の国に送り込むことに決めた。
しかし、中行説は匈奴の国に行くことを拒否した(辺境に行くのは嫌だから)が、漢は行くことを強制した。しかたなく中行説は守役として匈奴の国に行くこととなった。
中行説は漢の朝廷に激しい恨みを抱き、「必ずや、私は漢にとって災いを為す者になるであろう」と言い残した。
異民族を使って中国へ復讐
匈奴の国に着いた中行説は漢と決別して匈奴に帰順することを、当時の匈奴の単于であった老上単于に願い出て、老上の側近となった。
側近となるや中行説は、漢からの贈り物をこれ以上受け取ることは匈奴にとって良くないことだと老上に説き、さらに匈奴の欲しいものは漢から略奪すればよいと漢への侵攻をけしかけた。
また、単于の側近に書記を教え、人や家畜の数を把握するようになった。匈奴が漢に送る文書の様式や文言は、匈奴がより上位になるように改められた。さらに、自分の後に匈奴の国に送られてきた漢の使者に対しては、漢の朝廷に対する苦言を吐き、その使者が何を言い返しても聞く耳持たずという姿勢を貫いた。
これによって匈奴の漢への侵攻が再び深刻化し、言葉どおり中行説が漢に対し災いを為すこととなった。