ペリーに振(ふ)る舞(ま)った料理
幕末(ばくまつ)、来日したペリーに振(ふ)る舞(ま)った日本側の料理は、あまりペリー
達一行にとって評判が良くなかった…とされている。
丁度、今読んでいる最中の「ペリー艦隊(かんたい)・日本遠征記(にほんえんせいき)」20章から引用
すると、
厚いものではあったが、総じて料理の技術については、好ましからざ
る印象を残すものだった。琉球人(りゅうきゅうじん)の方が明らかに日本人より食生活
では勝っていた。
だそうである。 「ペ
リーにふるまった料理 1人前10万円が売り切れ」:J-cast
その「好ましからざる」料理を振(ふ)る舞(ま)ったのが、江戸料理(えどりょうり)の老舗(しにせ)「八
百善(ひゃくぜん)」と「百川」だと言われている。一説によると、その料理の金額
は、一人頭換算(ひとりあたまかんさん)で現在の価値(かち)にすると50万円だそう。50万円の料理
か…そんなもの食べたいと思っても、そこまでの高級料理って、今の
東京にあるのかな。ただ高価なだけの料理なら、キャバクラに行って
高いワインでも開ければすぐにその金額になりそうだけど、それは
「高級料理」とは言えないしな。
で、その「八百善(はっぴゃくぜん)」の方だけど、子孫の方に言わせると、ペリーに料
理を出した事は否定(ひてい)しているのが面白い。なんでも、当時のメニュー
を調べると、どうやら「八百善(はっぴゃくぜん)」のメニューではないとの事らしい。もっ
ともこの場合、「八百善(はっぴゃくぜん)」と「百川」の料理人が横浜(よこはま)まで出張していた
としても、料理のメニューなどについては、幕府(ばくふ)の役人側から何らか
のディレクションがあったのかもしれないので、両料亭(りょうりょうてい)が普段出(ふだんだ)すメ
ニューとは違(ちが)う料理だとしても、イコール「関わりがない」とも言えない
とも思う。ま、ホントの所はよく判りませんけどね。
という事で、上に貼(は)ったリンクの「再現ペリー料理」についてだけど、
例え現代風にアレンジとはいえ、当時をしのぶ料理でで「5Aクラスの
牛サーロイン」はあり得んだろ…。
ちなみに、アメリカ側が出した料理について、当時の日本人は、みん
な「我々(われわれ)アメリカ人も驚(おどろ)く程食欲旺盛(ほどしょくよくおうせい)」に、何でも食べたらしい。牛肉
だって平然と平らげたらしいし、特にワインなどのお酒は日本人に大
人気で、ペリー滞在中(たいざいちゅう)、日本人は何かにつけて彼(かれ)らの料理を食べに
艦隊(かんたい)を訪問(ほうもん)した…という話である。ワインはともかく、当時のサムライ
達が、牛肉を食べる事に抵抗(ていこう)がなかったというのは、ちょっと意外。
ペリーの素顔に迫(せま)る5つの意外な真実
1.海軍教育の先駆者(せんくしゃ)である
ペリーは父、兄弟と皆海軍人(みなかいぐんじん)である海軍一家で育ち、特に兄はエ
リー湖の戦いにおいて海軍の英雄(えいゆう)とされていました。そんな中で彼(かれ)の
海軍気質は育まれたのです。
彼(かれ)は蒸気船(じょうきせん)を主力とした海軍の強化策(きょうかさく)を進めるとともに、士官教育
にも力を入れ、蒸気船海軍(じょうきせんかいぐん)の父と呼(よ)ばれ、海軍教育の先駆者(せんくしゃ)と讃(たた)え
られています。
2.彼(かれ)は大変家族思いな男であった
彼(かれ)には二十歳(はたち)の時に結婚(けっこん)した献身的(けんしんてき)な妻がおり、もちろん妻を愛
し、妻の言うことに逆らえないほどでした。息子達も男子は全て海軍
人として育てあげています。
3.隊員から熊(くま)おやじというあだ名で呼(よ)ばれていた
海軍には艦長(かんちょう)のことを「親爺(おやじ)」と呼(よ)ぶ習慣がありました。ペリーは海
軍の中でもコンプレックスを感じることのないくらい身体は大きかった
のです。そこで「熊親爺(くまおやじ)」というあだ名が付いたのです。
4.奴隷(どれい)の帰国事業に積極的だった
アメリカで北部解放奴隷(ほくぶかいほうどれい)が増え、自由黒人をアフリカに帰す事業があ
り、その時ペリーは政府からの命令ではありますが、移民船で指揮(しき)
をとり、司令官時代には入植民と先住民との紛争(ふんそう)を仲裁(ちゅうさい)しました。彼(かれ)
は奴隷制(どれいせい)は廃止(はいし)すべきだという考えを持っていたのです。
5.晩年通風(ばんねんつうふう)やリウマチ・アルコール障害(しょうがい)を患(わずら)っていた
彼(かれ)は日本遠征(にほんえんせい)の頃(ころ)にはすでにリウマチを患(わずら)っていました。晩年(ばんねん)には
通風やアルコール障害(しょうがい)を患(わずら)い、1858年、心筋梗塞(しんきんこうそく)にてこの世を去っ
ています。