浄土宗、浄土真宗同じようにみえますがどこが違うのか?宗祖はご存知の通り法然上人とその弟子親鸞聖人ですが、ともに「南無阿弥陀仏」と称えて阿弥陀如来にお救い頂きましょうというのが基本です。称える南無阿弥陀仏の心持の問題などから考察していきたいと思います。
浄土宗と浄土真宗は仏教宗派のなかでも知名度の高い宗派のように思います。
家の宗派がこの二つのどちらかであるという方は多いのではないでしょうか。
宗派の名称が類似している浄土宗と浄土真宗ですが、それぞれどのような宗派なのでしょうか。
両宗派とも「南無阿弥陀仏」と称えて阿弥陀如来にお救い頂こうという教義が基本です。
開祖はいうまでもなく浄土宗が法然上人、浄土真宗が親鸞聖人ですが…
いったいどこに違いがあるのでしょう?
2人とも、念仏(南無阿弥陀仏)に帰依するまでには、相当な迷い・苦しみがあったようだ。2人とも、長い間、多くの教理を研究し、厳しい修行をしたが、それでも煩悩から解脱できず、深い絶望に陥ったという。そしてその絶望の中から、教えが生まれたようである。
出典親鸞聖人
もともと、浄土宗というのは「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて極楽浄土への往生を祈るのが教えです。(専修念仏)
天台宗の源信が書いた「往生要集(おうじょうようしゅう)」にその原点があるようです。
他の信仰との差異は、他の行いを一切捨て去り、『念仏のみ唱えていれば』極楽往生できる、「他力本願」を説きました。
法然の著書『選択本願念仏集』には、ただ念仏を称えることが重要である、と書かれています。
法然の死後、念仏と往生の考え方の違いによって5派(浄土五流)に分派するが、
鎮西義と西山義の2派以外は早くに途絶え、鎮西義が浄土宗の主流となっていく。
浄土五流のうち一向義から親鸞によって浄土真宗が生まれた。
親鸞の教えをもとにした浄土教の一つで、阿弥陀如来の本願力を『信じる』ことで往生するという「絶対他力」の立場をとる。
経典は観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経(浄土三部経)。
他の仏教宗派に対する真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、無戒であるという点にある(明治まで、表立って妻帯の許される仏教宗派は真宗のみであった)。
浄土宗との本質的な違いは、法然の教えにもうひとつ踏み込んで、信心ですら阿弥陀仏より授かったものであり、自力で往生などしようとしないで一切の物事を阿弥陀仏にお任せする「絶対他力」を説いたのです。
親鸞の『教行信証』には信心こそが重要である、
そして、信心があれば自然と念仏することができると記されています。
西本願寺( 浄土真宗 本願寺派)の公式Webサイトです。 浄土真宗 本願寺派は親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、門主を中心として 浄土真宗 の教義をひろめ、自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献することを目的としています。
親鸞の著書に記されている「浄土真宗」・「真宗」とは、宗旨名としての「浄土真宗」のことではなく、
「浄土を顕かにする真実の教え」であり、端的に言うと「法然から伝えられた教え」のことである。
親鸞自身は独立開宗の意思は無く、法然に師事できたことを生涯の喜びとした。
親鸞は法然の教えを否定して新たな宗派を開いたのではなく、その教えをさらに深めようと
していく過程で分岐していったものが「浄土真宗」であったと考えられます。
両派の教義の違い
浄土宗との大きな違いは、阿弥陀如来への信心を重視していて、念仏を唱える事を直接的な極楽浄土への往生の条件とはしていないことでしょう。
念仏を称えることは大切だが、もし称えようとした時言葉を発せない状態にあったとしても、信心は決定しているので救われるといったところでしょうか。
念仏に対しての考え方については、法然が観念仏(仏をイメージする念仏)などを廃して南無阿弥陀仏という「称名念仏」を行うことを選んだ一方で、親鸞はさらに、人が自力に頼ることを止めたとき、阿弥陀仏そのものに“称えさせられている”という他力の念仏を主張しています。
簡単にまとめると 同じ念仏でも
念仏とは感謝の気持ち(阿弥陀仏への)であり、それは言葉にするべき。
浄土宗での立場からはその感謝を日々唱えることで信心を得られるとしていて、
浄土真宗での立場からはその念仏を唱えようとした時に信心は得られるが、感謝の気持ちは
言葉に出してするべきだと言っています
ただ一心に称えよという法然と信心も大事という親鸞
※南無阿弥陀仏のそもそもの意味は
阿弥陀仏(阿弥陀如来)に帰依します(信じます、身をゆだねます)等です。
教義以外では
ご本尊は同じ阿弥陀如来でも形が微妙に異なります
また日常に読むお経はまったく異なります。
本体の後ろが舟後光という形になっています
出典yom.sc
舟後光の上にさらに後光があります