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【仏教の名言】繰り返し読みたい道元禅師の言葉

仏教

「正法眼蔵随聞記」「修証義」「典座教訓」などから、印象的な言葉を引用します。「修証義」は、厳密には禅師のお言葉ではないかもしれませんが、簡潔に要約されていて読みやすいので掲載しました。はじめは取っ付きにくい文語も、朗読には最適。声に出して読むうち、味わいが深まっていくと思います。

■■ いま私たちは、最高の人生を生きている ■■

人身(にんしん)得ること難し、仏法値(お)うこと希(まれ)なり、
今我等宿善の助くるに依りて、
已に受け難き人身を受けたるのみに非ず、
遇い難き仏法に値(あ)い奉れり、
生死(しょうじ)の中の善生(ぜんしょう)、
最勝(さいしょう)の生(しょう)なるべし、
最勝の善身を徒(いたず)らにして
露命(ろめい)を無常の風に任すること勿(なか)れ。

出典奈良康明監修「あなただけの『修証義』」(小学館)

私という人の身を頂いたことは真に不思議です。仏の教えを聞くことができたのも不思議としかいえません。今私たちは、自分では理解できない積もれる恵みに助けられて、すでに有り難い私といういのちを頂いたばかりか、難値難遇な仏の真理に出会わせて頂いているのです。
生き死に人生にはいろいろあるでしょうが、今のいのちが最も貴いのであり素晴らしいのです。尊く、よりよりいのちを虚しく過ごして、露のようにはかないいのちを無常の風にゆだねてしまってはなりますまい。

身の病者なれば、病を治(じ)して後に、好く修行せんと思はば、無道心の到す処(ところ)也。
四大和合の身、誰か病なからん。
古人必しも、金骨に非ず。
只志の到りなれば、他事を忘れて行ずる也。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)一ノ六

自分が病気であるから病をなおしてから、立派に修行しようと思うのは、道心のないことの致すところである。人間の体は、地水火風の四大元素の和合から成り立っているのであるから、誰でも、病気にならぬというわけにはゆかない。昔の人、必ずしも筋金入りの体ではない。ただ、志が切にひたすらなので、ほかの事は忘れて修行に打ち込んだのである。

今生(こんじょう)学道修行せずは、何れの生(しょう)にか、器量の物となり、不病の者とならん。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)一ノ二

いま、この一生において、道を学び修行することをしなかったら、どのように生まれかわっても、素質すぐれた人となり、病なき人となることがあろうか。

■■ 自分はいつか必ず死ぬ ■■

只今ばかり、我(わが)命は存(ぞん)ずる也、

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)三ノ十七

自分の命は、ただいま現在あるのみだ、

学人は、必(かならず)しも、可死(しぬべきことを)、可思(おもふべし)。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)三ノ十四

仏道を学ぶ者は、必ず人間とは死ぬものぞということを、考えなくてはならない。

志の到らざることは、無常を思はざるに依(よる)なり。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)一ノ七

志が切実でないのは、無常を思わないからだ。

◼︎◼︎ 頼れるのは自分だけ ◼︎◼︎

今の時の人、或(あるひ)は父母(ぶも)の恩すてがたしと云(いひ)、
或は主君の命そむきがたしと云(いひ)、
或は妻子の情愛、離れがたしと云、
或は眷属等の活妙(くわつみやう)、我を存じがたしと云、
或(あるひは)、人謗(そし)つべしと云、
或は貧にして道具調へがたしと云、
或は非器にして、学道にたへじと云(いふ)。

如是(かくのごとき)等の、世情をめぐらして、主君父母をもはなれず、妻子眷属をもすてず、世情にしたがひ、財色(ざいしき)をむさぼるほどに、一生虚(むなし)く過(すぐし)て、まさしく命の尽くる時にあた〔つ〕て、後悔すべし。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)六ノ九

いまの世の人、あるいは父母の恩を捨てがたしといい、あるいは主人の命にはそむくわけにゆかぬといい、あるいは妻子の情愛はなれがたいといい、あるいは一族の生活を考えれば自分のことばかり考えてもおれぬといい、あるいは世の中の人々から非難されるかもしれぬといい、あるいは貧乏だから修行のための道具も調えられぬといい、あるいは自分には素質がないから修行をやりとおせないという、このような工合に、世間的な思わくをあれこれ考え、主君、父母から離れず、妻子家庭をも捨てず、俗世間の人情に流され、財を求め、色欲におぼれ、そうやって一生をむなしくすごし、いよいよ死ぬときに当たって、後悔することになるのだ。

■■ 貧なるべし■■

学道の人、衣食(えじき)を貪ることなかれ。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)一ノ三

仏道を学ぼうとする人は、決して衣服や食べ物を、むやみに欲しがってはいけないのだ。

僧の損ずることは、多く富家(ふけ)よりおこれり。
如来在世に、調達(てうだつ)が嫉妬を起こししことも、日に五百車の供養より起れり。

只自(じ)を損ずることのみに非ず。又他をしても悪を作(な)さしめし因縁なり。
真(まこと)の学道の人 なにとしてか富家なるべき。
直饒(たとひ)浄信の供養も、多くつもらば、恩の思(おもひ)を作(な)して、報(はう)を思ふべし。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)一ノ四

僧が身をあやまるのは、豊かさから起るものなのだ。釈尊在世の当時、提婆達多(デーバダッタ)が釈尊をねたんで事を起したのも、阿闍世王から、毎日、五百車の供養があったことがもとである。富は、自分を損なうばかりでなく、他人をして悪をなさしめる因縁となるものである。まことの修行者は、どうして富貴であってよかろうか。たとえ浄らかな信仰による供養でも、多額になったら、施しをして報恩ということを考えなくてはならない。

何況(いかにいはんや)、未だ一大蔵教の中にも、三国伝来の仏祖有て、1人も餓死寒死(うゑじにこごえじにし)たるを不聞(きかず)。

世間衣粮の資具、生得の命分なり。依求不来(もとむるによりてきたらず)、不求非不求(もとめずともきたらざるにもあらず)。正に任運として心ををく事莫(なか)れ。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」二ノ十三

ましてや、仏教のすべての経典の中にも、インド・中国・日本と教えを伝えてきた仏(覚者)や祖師がたの中で一人も飢え死にした方があったとは、いまだかつて聞いたことがない。世間にあって着もの食べもののそなえは、生まれつきの福分として、その分け前がそなわっているのだ。求めたところで、多くやってくるわけのものではない。求めなくても、与えられないわけのものではない。それこそ運として天にまかせて、それに心をわずらわしてはならぬ。

然ればこれ程に、あだなる世に、極めて不定(ふぢやう)なる死期(しご)をいつまで、いきたるべしとて、種々の活計を案じ、剰(あまつさ)え他人の為に、悪をたくい思ふて、徒(いたづら)に時光を過(すご)す事、極(きわめ)て愚なる事也。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」三ノ十一

このようであるから、これほどまでに儚ない人生にあって、いつ死ぬことになるか全く判らないのに、いつまでも生きていようとして、さまざまに生活の方途を思案し、さらにその上に、他人に対し悪事をたくらみなどして、いたずらに人生をすごすのは、まことに愚かなことである。

■■ 一事を専らにせよ■■

広学博覧は、かなふべからざる事也。一向に思ひ切て留(とどま)るべし。

只、一事に付て用心故実(こしつ)をも習ひ、先達の行履(あんり)をも尋(たづね)て、一行(いちぎょう)を専(もっぱら)はげみて、人師先達(にんしせんだつ)の気色すまじき也。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)二ノ三

広く学び、博く書を読むことは、とてもできることではない。むしろ、すっぱりと思い切ってやめるがよい。ただ一つのことについて、心得や模範とすべき先例を習い、先人の行いしあとを尋ね、一つの行に専らはげんで、決して先生ぶったり先輩顔をしたりしないことである。

仏祖の言語(ごんご)すら、多般を好み学すべからず。

一事専(もっぱら)にせん、鈍根劣器のもの、かなうべからず。

況や、多事を兼(かね)て、心想を調へざらん、不可なり。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)二ノ八

諸仏・祖師たちの言葉ですら、あれもこれもと多方面に学ぶべきではない。ただ一つのことを専心することでも、生まれつき才智がにぶく器量が劣っている者には、なかなか出来がたいことだ。ましてや、多方面を兼学しては、心のはたらきを静かにととのえることができなくなってしまうであろう。いけないことである。

人は、世間の人も、衆事を兼(かね)学して、何れも能(よく)せざらんよりは、只一事を能(よく)して、人前にしても、しつべきほどに、学すべき也。(略)。

高広なる仏法の事を、多般を兼れば、一事をも成(じやう)ずべからず。
一事を専(もっぱら)にせんすら、本性昧劣の根器、今生に窮め難し。努々(ゆめゆめ)学人、事を専にすべし。

出典出典 山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)二ノ十一

俗世間の人も、多くの事を同時に学んで、そのどれも、よくはできないよりは、ただ一つの事に練達して、人前に出ても恥ずかしくないほどに学ぶべきである。(略)。高く広やかな仏法について、多くの事を兼学すれば、一つの事すら成就することができない。一つの事を、専心まなぶことすら、生まれつき劣っている素質のものは、その生きているうちに、窮めることができぬ。悟りの道を学ぶ者は必ず一つの事に専心しなくてはいけないのだ。

本当にやりたいことはなんだろうか?
私がやるべきことはなんだろうか?

■■ 文章は技術よりも誠意 ■■

語言(ごごん)文章は、いかにもあれ、思ふまゝの理を、つぶつぶと書きたらば、後来も、文章わろしと思ふとも、理だりもきこへたらば、道の為には、大切也。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」三ノ九

言葉や文章はどうであれ、思うとおりのことを、こまごまと書いたなら、後の人が読んで、悪文だと思っても、意味だけでも通ずるなら、これが、道のためには大切な事なのだ。

■■ 外見で人は判断できない ■■

其形(そのかたち)陋(いや)しというとも、
此心(このこころ)を発(おこ)せば、
已に一切衆生の導師なり、
設(たと)い七歳(しちさい)の女流(にょりゅう)なりとも、
即ち四衆(ししゅ)の導師なり、衆生の慈父なり、
男女(なんにょ)を論ずること勿れ、
此れ仏道極妙(ごくみょう)の法則なり。

出典奈良康明監修「あなただけの『修証義』」(小学館)

その姿形がそまつな人であっても、人への痛みの心を起こせば、もうすべての人の導き手なのです。
たとえ七歳の幼い少女であっても、そのまま仏教の男僧・尼僧・男の信者・女の信者という信仰の組合の導き手なのです。人々にとって慈しみ深い父親なのです。男とか女とかの議論で本質を見失ってはなりません。これは仏の道の素晴らしい決まりなのです。

又、衆僧(しゅぞう)の得失を見るべからず、衆僧の老少を顧(み)るべからず。
自(おのれ)すら猶お自(おのれ)の落処(らくしょ)を知らず、他(かれ)も、争(いか)でか他(かれ)の落処を識(し)るを得んや。
自(おのれ)の非を以て他(かれ)の非と為すこと、豈に誤らざらんや。
耆年(ぎねん)と晩進(ばんしん)と、其の形は雖(こ)れ異なるも、有智(うち)と愚朦(ぐもう)と、僧宗(そうしゅう)は是れ同じ。
随いて亦た昨(さく)の非と今の是(ぜ)と、聖(しょう)と凡と、誰か知らん。

出典藤井宗哲訳・解説「道元『典座教訓』」(角川文庫)

食の良し悪しを、云々するなといったが、同じように、人の良し悪しも見てはいけない。いわんや、雲水の老若なども、考えるなど、もっての他というよりない。考えてもごらん、自分自身、いつ死ぬかもわからないではないか。自分以外、どうして、他人の死にゆくことがわかろうか。同じように、自分の欠点、落ち度を見て、他人も同じと思うのも、これはおかしい。(略)。
子供の頃出家した僧も、遅くなって出家した僧も、また、利口で呑み込みの早い者も、おろかで道理の見極めが遅い者も、同じ禅僧であることには間違いはない。
昨日の誤ち、今日の正しさ、悟った、悟らず、こんなことは、神、仏のみ知ることで、われわれ誰一人、知り得ようか。

■■愛語(慈愛に満ちた言葉遣い)こそ人との関わり方の基本■■

徳あるは讃(ほ)むべし、徳なきは憐れむべし、
怨敵を降伏(ごうぶく)し、
君子を和睦ならしむること愛語(あいご)を根本とするなり、
面(むか)いて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ、
心を楽しくす、
面(むか)わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、
愛語能(よ)く廻天(かいてん)の力あることを学すべきなり。

出典奈良康明監修「あなただけの『修証義』」(小学館)

人としての善き徳のある人はたたえるべきです。徳の薄い人には哀れみの心で接していきたいものです。憎い敵を説き伏せ、権力者同士を和解させて争いを回避させるのも、慈愛の言葉が根本なのです。
面と向かって真心や愛のある言葉を聞くと、人は喜びが顔に表れ、心を楽しくしてくださるのです。陰で真心のある言葉を人伝に聞くと、肝に銘じ魂に銘じて感動するものです。愛語こそ、帝王の意思や天帝の意思をも変える力があることを知らなければなりません。

■■言い争っている暇などない■■

少人と云(いふ)は、いささか人のあらき言ばに腹立(ふくりふ)して、恥辱を思(おもふ)也。
大人(たいじん)はしかあらず、たとひ打たりとも、報(ほう)を思はず。
国に少人多し。つつしまずば、あるべからず。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)五ノ十二

小人(徳のない人)というものは、他人から、少しでも乱暴な言葉でいわれると、すぐに腹を立て、恥をかかされたと思うものである。大人(有徳な人)というのは、そうではない。たとえ、打たれても、仕返しなどは考えない。国中に小人はたくさんいる。気をつけなくては、いけないことだ。

ふるく云(いはく)、君子の力ら、牛に勝(すぐ)れたり。
しかあれども、牛とあらそわず。
今の学人、我(わが)知恵才芸、人にすぐれて存(ぞん)ずとも、人と諍論(じやうろん)を好む事なかれ。
又、悪口(あくく)をもて、人を云い、怒目(どもく)をもて、人を見る事なかれ。
今の世の人、多く財をあたへ、恩をほどこせども、瞋恚(しんい)を現じ、悪口を以て謗言(はうげん)すれば、必ず逆心を起す也。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)六ノ七

古くいわれた言葉に、「君子の力は、牛よりも、すぐれている。しかし、君子は、牛と争うようなことはしない」とある。当今の学人も、自分の知識、学問の才能が、ほかの人よりもすぐれていると思っても、決して、ほかの人と論争をするようなことを、してはいけないのだ。また、ほかの人に対して口ぎたなくののしったり、怒った目つきで人をにらんだりしてはいけないのだ。当今の世の人をみるに、その多くは財を与えたり恩を施したりしてやっても「憎」みいきどおる気持ちを顔にあらわし、口ぎたなく非難したりすれば、必ず敵対心を起すものだ。

■■ 学び続けよ!■■

道は無窮なり。さとりても、猶(なほ)行道すべし。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)一ノ五

道は無窮なのだ。悟っても、なお修行しなくてはならぬ。

然らば、学人(がくにん)、道心なくとも、良人(よきひと)に近づき、善縁にあふて、同じ事をいくたびも、聞き見(みる)べき也。此言(このことば)、一度(ひとたび)聞き見れば、今は見聞かずともと思ふことなかれ。道心一度(ひとたび)発(おこ)したる人も、同じ事なれども、聞くたびにみがかれて、いよいよ、よき也。況や、無道心の人も、一度二度こそ、つれなくとも、度々(どど)重(か)さなれば、霧の中を行く人の、いつぬるるとおぼえざれども、自然(じねん)に恥(はづ)る心もおこり、真との道心も起る也。

故に、知りたる上にも、聖教(しやうげう)を又々見るべし、聞くべし。師の言(ことば)も、聞(きい)たる上にも、聞きたる上にも、重々(かさねがさね)聞くべし、弥(いよい)よ深き心、有る也。

出典山崎正一訳注「正法眼蔵随聞記」(講談社学術文庫)六ノ十五

こういうわけだから、道を学ぶ者は、たとえ道心がなくとも、立派な人になるべく近づき、善い機会にめぐり合うようにし、同じ事を、何度も何度も、聞いたり見たりするのがよいのだ。この言葉は、まえに一度聞いたから、あるいは見たから、いま見なくとも、あるいは聞かなくてもいい、などと思うようなことがあってはならぬ。ひとたび道心をおこした人であっても、同じことでも繰り返し聞くごとに、みがきがかかって、ますますよくなるのだ。道心なき人は、一度や二度、いってきかせても、なかなかいうことを聞かないものだが、何度もくりかえしいいきかせれば、道心なき人でも、あたかも、霧の中を行く人が、いつ濡れたとも判らぬうちに濡れてしまうように、おのずと自分を恥ずかしいと思う気が起り、まことの道心も起ることになるのだ。

故に、知っている上にも、教典はくり返し見るがよく、聞くがよい。師匠の言葉も、すでに聞いた上にも、何度もくり返し拝聴するがよい。そのたびごとに、ますます深い意味あいが判ってくるのだ。



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