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唯才是挙とは? 三国志の曹操が出した言葉「求賢令」に魏伝 建安15年(210年)

四字熟語 漢字

世界は、こんなにも辛く厳しい場所だったのか。

 

生きる事は弱肉強食。

 

弱きものは強きものに虐げられるのが世界の真の姿である。

 

三国志の魏伝に曰く建安15年(210年)、曹操が出した「求賢令」に「唯才是挙」という言葉がある。

 

才能さえあれば人格、家柄、過去にはこだわらなく登用するという、いかにも曹操らしいエピソードである。

 

こんな話がある。

 

三国時代神医とよばれる「華陀」という人物がいた。

 

彼は神業と呼ばれるほどの腕を持ち、麻沸散と呼ばれる今で言う全身麻酔を使い世界初の外科手術を行ったといわれている。

 

曹操は彼の医の力があれば、多くの人が救われると同時に戦に軍医を同行し戦死者数を減らせる、その上自らの頭痛も治せる、と考え華陀に医の奥義を文書にし開示する事を要求した。

 

だが、医はそれに関わる様々な体験や経験、修行や勉強によって相伝されるものであると考えた華陀は要求を拒否。

 

華陀は妻の病を理由に隠遁生活を開始する。

 

しかしこの妻の病実はまったくのウソ。

 

この華陀の非礼に腹を立てた曹操は華陀を獄中に送り、獄死させてしまう。

 

その後華陀の弟子を集め華陀の医の技を編纂しまとめさせたがどうしても麻沸散だけは再現できず、その後、全身麻酔が施され手術が行われたのは華陀の死後約1600年たった後の華岡青洲が行った乳がんの手術であった。

 

余談であるが後に曹操が最も愛し、覇王の後継の才もあった「曹沖」が病に倒れたときや曹操の頭痛を治せる医者がいなくなったとき、華陀さえおれば・・・と嘆いたという。

 

あと、この「麻沸散」という名前には華佗自信の悲しい体験談が込められていた

華佗には妻と「沸」と言う名前の1人息子がいた。ある日のこと。華佗が妻と沸を連れて山中に散策へと出かけた。華佗と妻が二人で薬草を探している間、息子の沸は1人で遊んでいた。

華佗と妻は必要な薬草を手に入れ、さて帰ろうかと周りを見るが息子の姿がない。急いで探し回ると、なんと我が子が力なく倒れているのを見つけた。急いで介抱してみたがすでに沸は事切れており、沸の口の中には木の実があった。沸が食べたのは毒の実だったのである。

華佗はその実を調べてみると、どうやら適量であれば麻薬効果がある事を知った。我が子の死と言う大きな悲しみを越え、念願の麻薬完成にこぎ着けた華佗は、その麻酔薬に我が子の名である「沸」をつけ「麻沸散」と名づけた

 上記の古事から学べることは、「後悔先に立たず」ということと「能力を持つものがそれを出し惜しむと救えたはずの人も救えない」ということ、そして「経験や体験は自分にとっての勉強であり財産」であると私は思う。

 

意味の無いことは無い。そこから何を学び、どう生かすかは自分自身なのだ。

 

皆さんは上記の華陀のエピソードをどう思うだろう。

 

歴史に正確などないので、このエピソード自体の真偽はわからないが、医術を一つの学問に昇華させ、全土にわたらせ人を救おうとした曹操に理があるか?経験や修行、勉強によって医の奥義は得られると考えた華陀にこそ理があるのか?



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