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【貂蝉・甄姫・鄒氏…】残酷な死を迎えた三國志のヒロインたち

三国志

悲劇のヒロインをまとめました。孫尚香 張春華

貂蝉

朝廷を牛耳り、洛陽から長安に遷都するなど、暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允が、董卓誅殺を行う為に当時16歳とされる養女・貂蝉を使い、董卓の養子の呂布と仲違いさせる。

正史に悪評が書かれることを恐れる王允に、董卓のそばに入って殺害する策を探ることを自分から志願。董卓の宴の際に琵琶に仕込んだ刀で暗殺を謀るも失敗。そのまま妃とさせられてしまう。
呂布に惚れられて結果的に董卓の殺害に成功するが、正史での評価を極端に恐れていた王允の放った刺客に殺されてしまう。

出典蒼天航路

初めは袁紹の次男袁煕の妻だった。曹操が冀州を攻め落とした時、曹丕(後の文帝)は真っ先に袁紹の屋敷に乗り込んだ。その際に甄氏を見初めて妻にしたという。曹丕に寵愛され、曹叡(後の明帝)と娘の東郷公主(早世した)を産んだ。しかし、曹丕の寵愛は次第に薄れていき、郭貴嬪(後の郭皇后)や李貴人・陰貴人に移っていった。更に山陽公(後漢の献帝)の二人の娘たちが入内したこともあり、悲嘆した甄氏は曹丕に対して恨み言を述べた。これが曹丕の勘気に触れ、黄初2年(221年)8月に死を賜った。

ある時、司馬懿が病に倒れたので、張春華は夫の見舞いに来た。妻が来たと聞いた司馬懿は突如怒り出し、「おいぼれは小憎らしいものだ。今更しゃしゃり出てきて、いったい何の用だ」と言った。張春華は怒りと恥ずかしさのあまり断食し、息子たちを巻き込み命を絶とうとした。それを聞きつけた司馬懿は驚き謝ったので、張春華は断食を止めた。司馬懿は部屋を退出する際、「おいぼれの命を惜しんだのではない。ただかわいい息子たちが苦しんでいるのを気がかりに思ってのことだ」と言った。
正始8年(247年)に張春華は59歳で死した。

劉備との政略結婚の話の時に、初めて孫夫人の名前が出てくる。周瑜発案の婚姻政策により劉備を呼び寄せ、当初は殺そうと考えていたが失敗したため、代わりに国内に事実上拘留して骨抜きにさせるという計略を立てる。しかし、趙雲が諸葛亮より授かった策を用いることで、劉備は孫夫人と共に荊州へ脱出することに成功する。夫となる劉備とは年齢が30歳近くも離れていたが、両人の仲は良好なものであった。

その後、劉備と孫権との関係が悪化したため呉へ帰国。夷陵の戦いで劉備が戦死したとの誤報を聞いて長江へ身を投げ、後世「梟姫祠」という廟がたてられたという。

鄒氏

張済(張繍の叔父)の後妻だが、彼の死後は張繍の元に身を寄せる。曹操と度々交戦する張繍だったが、宛城にて一度は降伏する。しかし、曹操は滞在中に鄒氏と出会い、密接な関係を築いている事が張繍の耳に入ると「叔父の妻に手を出すとはなんという愚か者だ」と激怒し、賈詡の策でもって骨抜きとなった曹操へ反逆した。

その後、曹操に身をささげた鄒氏は張繍に殺された。
また、曹昂に殺されたとする説もある。



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