ジャイアント馬場”の野球選手時代とは? 知られざる「馬場正平」という人間のアイデンティティに迫る | 質問の答えを募集中です! ジャイアント馬場”の野球選手時代とは? 知られざる「馬場正平」という人間のアイデンティティに迫る | 質問の答えを募集中です!

ジャイアント馬場”の野球選手時代とは? 知られざる「馬場正平」という人間のアイデンティティに迫る

ジャイアント馬場

プロレスラーということ以外、ジャイアント馬場のことを詳しく知らなくても、「しっぺ デコピン ババチョップ」という遊びは誰しもがやったことがあるだろう。1999年に亡くなったジャイアント馬場は、プロレスラーとして1960年代に日本を一世風靡した、国民的大スターであった。

そのジャイアント馬場が、実はその昔、プロ野球選手であったことをご存じだろうか。1955年、高校を2年生の時中退し、読売ジャイアンツ(巨人)にスカウトされて投手として入団しているのだ。プロレスラーとしての彼はよく知られているが、1959年に退団するまでの彼の野球選手時代の実力や成績、当時の評判や人間関係などはほとんど語られてこなかった。

先日発売された『巨人軍の巨人 馬場正平』(イースト・プレス)は、地元、新潟県での青春時代や巨人軍時代の生活や成績などを、現存する詳細なスコアや関係者への取材によって迫った伝記本である。ライターの広尾晃氏がプロレスラー「ジャイアント馬場」ではなく、本名の「馬場正平」という1人の人間としての知られざるアイデンティティや実像に深く切り込んでおり、読めば「馬場さんってこんな人だったんだ!」と驚くはずだ。

本書の発売を記念して11月27日、著者である広尾晃氏と、昨年『1964年のジャイアント馬場』(双葉社)を出版したノンフィクション作家の柳澤健氏によるトークイベントが行われた。会場の紀伊国屋書店新宿本店には、野球やプロレスファンであろう30代~50代の男性が多く詰めかけた。

イベントでは本の紹介とともに、馬場さんがなぜプロレス界において時代を象徴するヒーローになれたのか、巨人軍時代の不遇さと奇跡など、プロレスと野球の両方の面での馬場さんへの2人の熱い思いが語られた。

ジャイアント馬場

1955年の串間キャンプでランニングをする馬場(前列左)。 出典:『巨人軍の巨人 馬場正平』(イースト・プレス)

広尾氏はまず本書を執筆した経緯について振り返る。それは柳澤氏が書いた、プロレスラーとして本場のアメリカに渡り、世界的な快挙を成し得た1964年頃のジャイアント馬場に迫った『1964年のジャイアント馬場』にインスパイアされたからだったという。馬場正平の生き様を考える上で、このアメリカ時代を掘り下げた柳澤氏の功績は大きかったようだ。

その柳澤氏は自著の紹介とともに、馬場さんのプロレスラーとしての偉業を語る。世界のプロレスは1960年代に隆盛を誇り、70年代を境に衰退していった。それはテレビの普及と共に盛り上がり、他のコンテンツが次々と登場することで下火になっていったからだ。しかし、日本にはジャイアント馬場とアントニオ猪木という2人の天才プロレスラーが存在したことで、世界の流れとは違った盛り上がりがあった。

この2大スターがいたおかげでメディアが対立関係を盛り上げ、どちらが強いのか、どちらの方が好きなのか、といった議論でファンは大いに興奮した。そして馬場さんは全日本プロレスを、猪木さんは新日本プロレスを創立し、それが今の日本プロレス界の流れに行きついている。これほど隆盛を極めた国というのは他にはないのだと、世界的に見ても日本のプロレスが独自の進化を遂げてきた経緯を柳澤氏は説明した。

また、プロ野球時代の馬場さんについては「二軍止まりだったとはいえ、巨人軍にスカウトされたこと自体がアスリートとして凄い」と2人は同調する。当時は今のように多様なスポーツがあったわけではなく、スポーツができる人はみんな野球をするといったくらい野球人口が多かった。そのため、野球選手の門は今以上に狭かったはずだからだ。

ジャイアント馬場

1959年のキャンプが宮崎でスタート。巨人軍の投手陣と。右端が馬場。(前列左)。 出典:『巨人軍の巨人 馬場正平』(イースト・プレス)

さらに短い巨人軍時代でも、長嶋茂雄と王貞治という2大レジェンドと一緒に在籍していたというのも、馬場さんが野球でもプロレスでも時代の目撃者であることを裏付けているそうだ。馬場さんは約80年の日本プロ野球の歴史の中で、一番劇的に変わった時代にその最前線にいたのだ。「馬場さん自身は野球選手時代についてほとんど語ってはいなかったが、当時はいろいろなことがあったはず。心の中に多くのことを蓄積していたのだろう」と、広尾氏は馬場さんの思慮深さを分析する。

しかし、「野球は試合をこなして成績を残せば積みあがっていくが、プロレスはそうではない」と広尾氏。プロレスという個性を見せるスポーツは人間的な魅力がないと、トップにはなれないのだ。戦後にプロレス界を席巻した力道山は、“卑怯なアメリカ人に復讐するヒーロー”という政治的な意味合いもあって国民は夢中になった。一方で1970年代は学生運動や光化学スモッグといったいろいろな社会問題があり、その反逆のヒーローとしてアントニオ猪木がトップに立った。このように「プロレスは時代の鏡なので、時代性を担うことができる人でないとトップになれない」のだと柳澤氏は熱く語る。

1964年に成功を収めたアメリカから凱旋帰国した馬場さんは、1960年代における日本の高度成長期にふさわしいカラっと明るいプロレスをしていた。政治性やスポーツとは別軸の力関係云々が無い、楽しいスポーツに子どもたちは夢中になった。こうした柳澤氏の解説を聴くと、リアルタイムで彼を見ていない世代でも馬場さんがいかに時代の寵児であったのかがよくわかるだろう。

また広尾氏は自著の中で、馬場さんのトレードマークでもある身長の要因「巨人症」にも触れている。巨人症とは、その名の通り成長ホルモンが過剰に分泌されて著しく身長が伸びる病気で、手術によって治療が施される。馬場さんも成功率1%という当時の手術を受けている。しかし当時の人たちは、馬場さんの身長が巨人症という病気から来ていることを知らなかったそうだ。そもそも巨人症自体を知らなかったためで、「馬場さんの登場のおかげで今ではこの病気が日本で認知されるようになった。巨人症という1つのアイデンティティだけをとってみても着目すべき点がたくさんある」と広尾氏は語る。馬場さん自身は、あまりにも他の人と違って高すぎる身長をコンプレックスに感じる部分はあったのかもしれないが、これこそが自分の個性であり、プロレスラーとして生きていく上では大きな武器になると思ったのだそうだ。

広尾氏は最後に馬場さんについて、「お会いしたことはないけれど、あの大きな体の中に別の“中の人”がいる感じがする」と語った。野球選手、プロレスラーといった肩書ではなく、1人の人間としてリスペクトしているのだろう。リアルタイムで馬場さんを見てこなかった筆者でさえ、時代に愛され時代を変えた男の全く知らなかった真実に触れてみると心震えるものがあった。こんな人だったから、あの時代、日本中の誰もが夢中になったのかと。



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