彼らなくして世界征服はありえなかった? チンギス・カンの8人の忠臣たち「四駿四狗(ししゅんしく)」

歴史

世界を征服したモンゴル帝国の創設者チンギス・カン。その覇業の陰には8人の忠臣たちが存在しました。たんなる主従関係を超えた腹心として、彼らは世界を相手に大暴れします。

チンギス・カンといえばご存知モンゴルの大英雄。

『元朝秘史』によれば、その業績の裏に、大ハンを支えた8人の忠臣「4頭の駿馬・4匹の狗」の存在がありました。

ではまず「4頭の駿馬」から見ていきましょう。

「四駿」は戦ではチンギス・カンの傍から片時も離れず護衛する役目を持つ。

1人目の駿馬は、「国王」ムカリです。

チンギスからは特に信任されて「国王」の称号を与えられたため、四駿の中でも筆頭といわれている。

まさに八面六臂の大活躍をします。

1196年頃からチンギスに従ってモンゴル統一の過程で数々の武功を挙げた。このため、1206年にチンギスが即位すると、万人長に任じられた。討伐でもチンギスに従って従軍し、遼東・遼西平定で功績を挙げた。

1217年、チンギスより「国王」の称号とゴビ砂漠以南の領土を与えられ、モンゴル族・契丹族・投降した真族からなる大軍を委任され東方攻略を一手に引き受けた。ムカリは史天沢や厳実、張柔ら漢人軍閥を降伏させて味方に取り込むことで討伐戦を有利なものとし、さらに高麗王朝の服属にも成功した。

しかし負け知らずとはいかなかったようで……。

晩年は老齢のためか次第に衰えが見え始め、またの抵抗も激しかったこともあって1223年のの首都・開封戦では敗退し、失意のままに同年のうちに山西南部で死去した。54歳。

2人目の駿馬は、「僚友(ノコル)」ボオルチュ。

チンギス・カンの最初の側近。『元朝秘史』によれば、少年時代のチンギスが馬泥棒にあったとき、チンギスに馬を貸して追跡を助けたとき以来の友人であるとされる。

以後、帝国初期の創業に参画し、長じて異数の勇者に成長する。戦争に強いだけでなく、政策の相談を受けることもあったようである。モンゴル草原の制覇の後は、中国北部、中央アジアに征旗をたて、誠忠と智勇は、チンギス・ハーンが高く認めるところであった。

3人目の駿馬は、父子でチンギスに仕えたチラウン。

少年時代のテムジン(チンギス・カン)がタイチウトに捕えられたとき、チラウン父子は彼をかくまって逃がしてやったとされる。

数々の戦役に従軍して功をあげ、父の死後千人隊を引き継いだが、外征にあまり活躍することなく早くに没した。

早世のため、中国元王朝について書かれた歴史書『元史』には列伝が立てられていません。

4人目の駿馬は、ボロクル。

チンギス・カンがジュルキン部を討伐した際、幼子だったが拾われてチンギスの母ホエルンに育てられたとされる

成長すると、チンギス・ハンの側近として活躍する。ナイマン部に襲撃されたケレイト部のために援軍を率いて活躍し、その後ケレイト部と対立して決戦に至った際には重傷を負ったオゴタイを救い出し、更に彼の妻もタタール部にさらわれたトルイを救い出した。

トルイはチンギスハンの末子。末子相続が基本の遊牧民では非常に有力な王族です。

若くして数々の戦功をあげたが、1217年にモンゴル高原北東の森林地帯に住む狩猟民トマト部の討伐において戦死した。

そして、「4匹の狗」たちです。

「四狗」は戦で必ず先頭に立ち、敵を震え上がらせる役目を持つ。

1人目の狗は、ジェベ。「鏃(やじり)の意味です。

最初チンギス・ハンに敵対してその乗馬を射殺し,のちに降伏してジェベ (「やじり」の意) の名を与えられたという。

遠征に次ぐ遠征の、その名のごとく放たれた矢のような生涯でした。

ジェベが参加した戦争

西夏遠征

第一次対戦争

モンゴルの西遼征服

チンギス・カンの西征

モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻

参加した戦闘

カルカ河畔の戦い

バトゥより前に、キリスト教世界と接触して打ち破ったのは、ジェベとスブタイの遠征軍です。

ヨーロッパのキリスト教世界の中でももっとも東に位置し、恒常的にテュルク系の遊牧民と接触していたルーシ(現在のロシア・ウクライナ<※当時は、北東ルーシのノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国や南西ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公国など10以上のルーシ(諸侯)が分裂・割拠していた>)は1223年にモンゴル帝国の最初の襲撃を受け、1237年にはバトゥ率いる征西軍の侵攻を受けて、ノヴゴロド公国以外は全てモンゴルの支配下に入った。ルーシの人々は、おそらく周囲にいたポロヴェツなどのテュルク系遊牧民が東方のモンゴル系遊牧民たちをタタルと呼んでいたのにならって、彼ら東からやってきた遊牧民たちをタタールと呼んだ。

ジェベはこのあと、モンゴル高原への帰国の途上で没します。

2人目の狗は、ジェルメ。最古参の将軍です。

チンギスの親衛隊長を務め、モンゴル帝国に仕える僚友(ノコル)の中でも特に高い地位にあった。

1206年のチンギスの第二次即位では第9位の功臣として顕彰され、罪を九度まで犯しても罰せられない特権と千戸長の地位を与えられる。

そんな特権を与えられたのは、チンギス・ハンがジェルメに深い恩を感じていたからです。

ジェルメは勇気だけではなく、忠誠心と義理人情にも厚かったらしく、「三つの恩」のエピソードがある。一つはボルテが攫われた時、メルキト族から主人を逃がした奮戦。残りの二つはタイチウトとの戦いで毒矢を受けて死にかけたテムジンの傷から毒を吸い出した事と、渇きを覚えたテムジンのために乳製品と水を敵陣から奪い取って完治させた事である。

3人目の狗は、スブタイ。

チンギス・カンの有力武将として活躍。中央アジア遠征では同僚のジェベとともに別働隊として逃げるホラズム=シャー朝の国王を追ってイランを横断。国王が病死しても遠征を続行し、カフカース山脈を越えてロシアに侵入、ルーシ(ロシア)諸侯の連合軍を打ち破った。この間ほぼ負けなしだったがさらに驚くべきはこれだけの遠征を一別働隊としてこなしたことである。

あの「砂漠の狐」と呼ばれた名将ロンメルがスブタイの戦略を参考にしてた、なんて話も!

「戦車戦で勇名をとどろかせた偉大な二人、ロンメル将軍とパットン将軍がともに伝説的なスブタイの弟子であり賛美者であったのは、おどろくにはあたらない。――ロバート・マーシャル」四狗の一人、<スベデイ>の機動戦術は、世界史上を見ても最高のものだったんだ。

4人目の狗は、クビライ。のちのクビライ・ハンとは同名異人です。

チンギス・ハーンのモンゴル高原統一にあたっては常に先鋒を務め、特にナイマンとの戦いでは大功をたてた。モンゴル帝国が建国されると近衛師団の総司令官に任命された。

1206年のチンギス・カン第二次即位時の功臣表では第8位に数えられ、千人隊長(千戸長)に任ぜられた。モンゴル帝国を構成する95個の千人隊(千戸)遊牧民集団のひとつを領する貴族となった。また、チンギスによって抜群の功績を賞せられて軍務を統括する役割を与えられたとされる。

8位というとジェルメよりも上ですね。こののち、彼はチンギスの庶子の王傅に命ぜられます

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