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大河ドラマ「真田丸」トリビア:「汁かけ飯」の北条氏政とは?真田家が滅亡のきっかけに。

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「真田丸」第1話で、高嶋政伸さん演じる北条氏政が、初めて登場するシーンが「汁かけ飯」で印象的でした。北条氏政とはどんな人物だったのか?まとめてみました。

「汁かけ飯」で有名な北条氏政

汁かけ飯の逸話とは

氏政が、食事の際に飯に味噌汁を二度かけたことから、父・北条氏康から、
「毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れんとは。北条家もわしの代で終わりか。」(汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来る訳がない)

と、嘆かれたエピソードの事です。

氏政の暗愚を示す話ですが、一方で、氏政の慎重さを物語っている逸話でもあります。そもそも実話ではなく、後世の軍記物の創作と言われています。

(追記)→「真田丸」第8話に、この逸話がでていました。「あせらず、食べる分だけ少しづつ汁を掛けて味わう。」が、複数回汁を掛ける氏政の真意だそうです。

北条氏政はどんな人物だったのでしょうか?

1538年生まれ、小田原北条家(後北条家)4代目当主。父は名将と知られる北条氏康。

父・氏康の死後、上杉家との同盟を絶ち、武田信玄と同盟を結び、弟氏照、氏邦らと協力し、小山氏などの諸豪族を帰服させ、版図を広げた。

小田原北条家の最盛期を担った人物で北条氏の領土を広げた。一方で曾祖父・早雲や父・氏康と比べて武勇に欠け、最後は北条家を滅亡に追い込んだこともあって評価が低い。

兄弟でも抗争する戦国時代に兄弟仲が非常に良く、弟たちと協力し、内部崩壊もなく良き家臣と共に合戦でも武功を挙げている。決して無能な武将というわけではない。

北条氏の滅亡のきっかけに、真田家が深くかかわっています。

天正10(1582)年6月に織田信長が本能寺で横死すると、それを好機として氏政は上野国の奪還をはかり、織田氏の関東総奉行である滝川一益を神流川(かんながわ)合戦で撃破。

「真田丸」第7話 奪回、敗れた滝川一益は本国の伊勢に逃げ帰ります。

関東から織田勢力を駆逐した北条氏は、権力の空白地帯となった武田旧領に侵攻。上杉景勝、徳川家康らも武田旧領に進入して、3者間で争奪戦が繰り広げられることになった。

世に言う天正壬午(じんご)の乱です。

この時、北条に従ったはずの真田昌幸が裏切り、そのために北条氏の作戦は歯車が狂います。結局、甲斐の若神子において徳川家康と対陣(若神子の戦い)の末、信濃・甲斐は徳川領、上野は北条領で合意し、徳川氏と和睦。

しかし、北条から徳川傘下に転じたはずの真田昌幸が、こんどは家康の命に反して上野・沼田城を北条家に明け渡す事を拒んで上杉景勝に寝返り、上田城・沼田城にて徳川と北条と抗戦。

色々ありますが、最終的には

中央を制した豊臣秀吉の上洛命令に応ぜず、さらに1589年10月に、北条氏邦の家臣が真田昌幸の名胡桃城を狙い、城を乗っ取った事件を秀吉にとがめられた結果、小田原の陣が勃発。あえなく降伏して、弟・氏照と共に豊臣秀吉から切腹を命じられています。

詳細は、今後の「真田丸」のお楽しみです。

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