近年では2000人以上の武将が登場する〔信長の野望〕ですが、登場武将の中にはとんでもない残念パラメータを授けられた武将達がいます。彼らの事跡を振り返り、400年以上の後世の評価は正当なのか?はたまたゲーム開発陣の陰謀なのかをまとめていきます。※最新作の大志と姫武将は除きます
一条兼定 (いちじょう かねさだ)1543~1585
まずは全シリーズを通して最下位6作、2位が4作という輝かしい?実績を誇る土佐の公家大名です。
伊予国の宇都宮豊綱の娘を娶るが、離別して豊後国の大友義鎮の長女を娶り大友氏と結んだ
婚姻外交を駆使し、九州の雄の支援を得ます。ちゃっかり前妻の実家(宇都宮氏)とも協力関係を維持し、北方の伊予に進出を図ります。
大友義鎮に協力して伊予出兵。豊綱を助けて湯築城主の河野通宣と戦うが、安芸の毛利元就が河野軍の援軍として介入してきたことで敗北を喫する
毛利勢の総大将は、知勇兼備の小早川隆景。善戦するも敗北し、土佐一条家の凋落が始まります。
知力、統率共に上位陣の小早川隆景
1569年に起きた八流の戦いで、「土佐の出来人」と言われていた長宗我部元親の侵攻を受けて妹婿の安芸国虎が自害
『土佐の盟主』とも言われていた一条家の弱体化と共に、長宗我部家が勃興。
一条家の領土を侵食し始めます。
1572年、家臣の土居宗珊(そうさん)を殺害
現状を省みず遊び呆ける兼定を見かねて諫言したところ処刑された
長宗我部家との内通が露見したため処断された
の2説があります。
1573年、長宗我部元親と通じた老臣たちにより家督を廃され,翌年豊後大友氏のもとへ追放された
出典平凡社 世界大百科事典 第2版
前年の重臣粛清が家中に波紋を及ぼし、追放劇へと繋がります。
追放先の大友領でキリスト教に感化され、洗礼を受けます。『キリシタン大名』と記される事もありますが、実際は領地を失った後です。
1575年、宗麟および南伊予諸将の援助を得て幡多郡に侵入,四万十川で長宗我部氏と戦い敗走,旧領回復の夢を絶たれる。
出典株式会社平凡社/世界大百科事典 第2版
2倍の兵力を用意され挟み撃ちにあうという敗戦です。
1代で土佐一条氏を滅ぼしたため『土佐物語』など軍記には暗愚な人物として描かれている
性質軽薄にして常に放蕩を好み、人の嘲を顧みず、日夜只酒宴遊興に耽り、男色女色し諂をなし、又は山河に漁猟を事とし、軽業力業異相を専ら
出典土佐物語
形義荒き人にて、家中の侍共、少しの科にも扶持を放し、腹をきらせなどせらる
出典元親記
『信長の野望』内の評伝もこれらの資料を基に書かれています。
しかし、近年ではこんな意見も見られました。
土佐側の文献は兼定が暗君であったために身を亡ぼしたと記しているが、長宗我部側の史料によったものですべてを事実とはなし難い
追放後も、四万十川の戦いに際して伊予・土佐の国人領主の支持を受け、更に長宗我部氏の工作に買収された旧臣に殺されかかるなど、兼定は最後まで旧領回復の強い意思を示し、反対に長宗我部氏はその存在を警戒し続けたことがうかがえる
兼定の墓所は、大きく破損していますが今でも地元の人々によって大切にされているそうです。
肝付兼亮 (きもつきかねすけ) 1558~1634
続いては、一条兼定の後塵を拝するものの、蒼天録以降、安定の2~3位をキープしている九州の戦国大名です
1571年、異母兄・良兼の死去により、亡父の正室「御南」や兄・良兼の正室である「高城」の意向を受け、良兼の次女を正室に迎え家督を継ぐ。
1573年、島津氏方の北郷時久と戦って敗れたうえ、伊地知重興・禰寝重良などが相次いで離反して島津氏に降ったため、これまで互角以上に渡り合った島津氏との立場は一変、天正2年(1574年)、島津氏に従属した。
父の正室、御南の兄はこの方。本来、島津家とは姻戚関係です
しかし、日向国の伊東氏と通じた上、夫婦仲が悪かったことで御南や高城に正室と離縁させられ、日向に追放された。
追放劇パート2。KOEIセンサーに引っかかりました。
とは言え、相手は野望シリーズ随一のチート大名と言われる島津家です。
領主の地位を追われたとはいえ、パラメータ評価はやや厳しい気もしましたが、どうやら低評価には、この二人が影響を与えているようです。
まずは先々代、父に当たる肝付兼続
戦国末期の当主肝付兼続は、肝付家の領国を最大(十数万石)にまで広げ、日向の飫肥城を制圧するなど、ほぼ大隅半島を制するほどの勢力を誇っていました。
続いて先代、兄の吉兼
父の死後、家中の権力を掌握すると永禄11年(1568年)に反攻に転じ、まず伊東氏と同盟し、飫肥を攻めて島津軍を撃退する。元亀2年(1571年)には伊地知重興の救援に向かい、島津軍を撃退した。しかし直後に病死した。享年37。
婚姻外交と積極策を用いて、大隅半島一円を制した父、兼続。
強豪島津を相手に一歩も引かず、互角以上の戦いを演じながらも夭折した兄、良兼。
偉大なる父と兄に常に比較され、当時も現在も厳しい評価が下されている感はあります。
ちなみに
現在の中の人(声優)は、肝付家の末裔の方が御担当されているそうです。
木曽義利 (きそよしとし)1577~1639
木曾義昌(よしまさ)の長男。母は武田信玄の娘真竜院。天正18年下総(しもうさ)蘆戸(あじと)(千葉県)1万石をつぐ。慶長5年関ケ原の戦いで石田三成方につき,所領没収,追放となった。叔父木曾義豊を殺害したためともいわれる。
徳川家康の関東入国に伴い、豊臣秀吉に信濃の本領を接収された後、下総・蘆戸1万石を得る。後に叔父義豊殺害の咎で改易された。
義利は粗暴な振る舞いが多く、それにより叔父・上松義豊(上松蔵人)を殺害したことを咎められて改易された。
肝付兼亮の台頭以前(~嵐世記)は、安定の2位。一条兼定からワースト武将の座を奪った事もある(天下創世)方です。
粗野、粗暴で親族殺し。 改易の後は消息を絶ちます。同列扱いされる前の二人は気の毒な…。
ちなみに先代の義昌は武田信玄の娘を娶りながら、勝頼の代に織田方へ内通し、武田家滅亡の発端を作りました。
その後も北条、徳川、豊臣と次々と従属先を変えながら、したたかに自家保全を続けましたが、義利の代で断絶。
裏切られた家康の心情が、改易に影響を与えた、とも言われております。