【日本史】室町幕府、足利将軍15人プロフィールまとめ.

歴史

室町幕府の歴代将軍をまとめました。実は徳川将軍家と同じくらいの歴史があります。

鎌倉幕府滅亡後→後醍醐天皇による建武の新政
→これに反発した足利尊氏が京都で創始した【武家】政権。
1338年~1573年にわたる約240年間

室町幕府、の由来は三代目将軍義満が創設した花の御所(室町殿)から。
最後は織田信長によって、事実上崩壊。

わかりやすくするため、足利義稙を10代と12代とし、
16代15人としてますが、一般的には15代です。

最初は後醍醐天皇鎮圧軍→離反→鎌倉幕府を滅亡させる。

その後建武の新政に反旗、鎌倉にて新幕府政権樹立を試みる。

京都にて、弟との二頭政治を敷いたが、
最終的に対立。観応の擾乱を引き起こす。

後醍醐天皇の崩御後はその菩提を弔うため天竜寺を建立。

初代将軍足利尊氏の嫡男。
母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。

室町季顕から「花亭」を買い受け別邸とした。
のちに「花亭」は足利家より崇光上皇に献上され仙洞御所となった。

足利義満は再び、天皇家から「花亭」を譲り受け、
邸宅を営んだ。これが世にいう花の御所。

3代:義満(よしみつ)1368-1394

父は第二代将軍足利義詮。

南北朝の合一を達成。幕府権力の確立。
鹿苑寺(閣)を建立して北山文化を開花。
明との勘合貿易を行う

室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。

義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。

父は三代将軍足利義満。
将軍在職28年で、歴代室町将軍中最長の在任期間である。

父子関係は非常に険悪であったとされ、
9歳で義満より将軍職を譲られるが、太政大臣となった義満の在世中は実権が全くなかった。

子である義量に将軍職を譲るものの、義量は早世。
その後、将軍代行として政務を行った。

後継者を任命することを拒否し、
弟4人の中からクジ引きで後継者が決められた。

5代:足利義量(よしかず)1423-1425

父は義持。16歳で父から将軍職を譲られて第5代将軍に就任する。
しかし疱瘡を患うなど生来から病弱であった上、
大酒飲みでさらに体調を悪化させた。

将軍職ではあったものの、父の権威や有力管領の存在もあり、
実権はほとんどなかったとされる。

19歳で没。嗣子がいなかったため、
引退した義持が将軍代行として政務を引き継ぎ、
その後義持の弟に将軍職が引き継がれる

6代:足利義教(よしのり)1429-1441

3代将軍足利義満の3男。
母は側室の藤原慶子で、4代将軍足利義持の同母弟。

義持が後継者を任命せず、くじ引きにより将軍となったため、「くじ引き将軍」とも呼ばれる。

永享の乱を引き起こすが、衰退していた将軍の権威を取り戻し、中央集権化を再度確立した。

最期は、赤松満祐による嘉吉の乱で殺される。
現役将軍の暗殺は幕府の権威を衰退させた。

7代:足利義勝 (よしかつ)1442- 1443

6代将軍足利義教の嫡男。

嘉吉の乱により父が暗殺されたため、
9歳で将軍職を継ぐものの、わずか8ヶ月で没。

死因は落馬、暗殺など諸説があるが、赤痢による病死が有力であるとされている。後任の将軍には同母弟で8歳の義政が選出された。

8代:義政(よしまさ)1449 – 1473

父は6代将軍足利義教、母は日野重子。
早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。

文化面では功績を残し、庭師の善阿弥、狩野派の絵師狩野正信らを召抱え、東山の地に東山殿を築いた。
東山殿は慈照寺となり、銀閣、東求堂が現在に残る。

この時代の文化は、閣に代表される3代義満時代の華やかな北山文化に対し、銀閣に代表されるわび・さびに重きをおいた「東山文化」と呼ばれる。

晩年は後継者問題から応仁の乱を引き起こしてしまう。

9代:義尚(よしひさ)1473- 1489

父は8代将軍義政。応仁の乱のさなか、文明5年に義政から将軍職を譲られ、9代将軍に就任する。

一条兼良から政道や和歌などを学ぶなど、文化人としての評価は高い。和歌に熱心で、14歳頃から盛んに歌会を主催した。

応仁の乱後、下克上の風潮によって幕府の権威は大きく衰退してしまったが、義尚は将軍権力の確立に努めた。

六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。

10代:義稙(よしたね)1490 – 1493

父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時、次期将軍として擬せられた足利義視。

伯父義政の死後に第10代将軍に就任する。その後、当時の幕府でもっとも有力な大名である細川政元と対立して将軍職を廃され幽閉されたが、脱出して越中国へ逃れ、諸大名の軍事力を動員して京都回復・将軍復職をめざして各地で逃亡生活を送る。

11代:義澄(よしずみ)1495-1508

父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。

明応2年(1493年)に従弟の10代将軍・足利義稙が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立された。

しかし、永正5年(1508年)に前将軍・義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こしたため、近江国へ逃れて将軍職を廃され、復帰できないまま死去した。

12代:義稙(よしたね)1508 – 1522

逃亡生活を続けていたが、周防国の大内義興の支援を得、その軍事力に頼って京都を占領、将軍職に復帰する。

第12代将軍に在職中の永正10年(1513年)に、義稙(よしたね)と改名。

しかし、大内義興が帰国後、今度は当時管領であった細川高国(政元の養子)と対立の末、京都を出奔して再び将軍職を奪われ、最後は逃亡先の阿波国で死去した。

13代:義晴(よしはる) 1521- 1546

第11代将軍足利義澄の長男。

側近集団を内談衆として再編成して政権中枢に置くことで自己の親裁権の強化を図る。

足利義満以来続けてきた日野家との婚姻関係に代えて、
近衛家出身の正室を迎えて朝廷との関係強化を図るなど、

将軍権威の回復に努めたが、細川氏の内紛をきっかけにした大規模な争乱によって挫折することになった。

14代:義輝(よしてる)1546- 1565

第13代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。

義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。

伊達晴宗と稙宗(天文17年(1548年))、武田晴信と長尾景虎(永禄元年(1558年))、島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久(同3年(1560年))、毛利元就と大友宗麟(同6年(1563年))、上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信(1564年)

など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行い、将軍の威信を知らしめた。

最期は、永禄の変で殺害される

15代:義栄(よしひで)1568(2月- 9月)

永禄の変で従兄の13代将軍義輝が三好三人衆・
松永久秀に殺害されると、三好三人衆や久秀らによって
父・義冬(義維)の代わりに、将軍候補として擁立された。

室町幕府歴代将軍の中で唯一、
本拠地のある京都に一度も足を踏み入れずに終わっている。

主体性が無く、三好三人衆と松永久秀による完全な傀儡将軍だった。

16代:義昭(よしあき)1568年- 1588

父は室町幕府第13代将軍・足利義晴。
母は近衛尚通の娘・慶寿院。
第14代将軍・足利義輝は同母兄。

兄義輝と母慶寿院が松永久秀らに暗殺されると、
幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗。

そして、美濃国の織田信長に擁されて上洛し、
第15代将軍に就任する。

やがて信長によって京都から追われ備後国に下向し長らく在国したため、一般には室町幕府は滅亡したとみなされてしまった。

豊臣政権が完全に確立するまでは、依然そのまま将軍であった。豊臣政権確立後は将軍職を辞し、豊臣秀吉から、山城槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として豊臣政権下で遇され余生を送った。

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