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[真実]意外と知らない本当の坂本龍馬

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好きな偉人を聞かれると1,2位を争う有名人ですが、私達の知ってる坂本龍馬はどこまでが真実か?坂本龍馬の実像を龍馬好きな私がまとめてみる!!!

みんなが思う坂本龍馬

剣術が強くて、正義感があって、時代の先を読む力も構想力もあって、行動力が素晴らしく、商才にたけていて、精神は自由にして闊達(かったつ)、気遣いも細やかなので女性にも男性にももてる。

あらゆる事柄から虚心に学び、しなやかに発想し、人をつなぐ人

出典indexnew

 

龍馬の人気は、器の大きさにある。龍馬の功績は、西欧列強によって幕藩体制が揺れる中、仲の悪い薩摩藩と長州藩を同盟させ、江戸幕府が徳川270年の政治体制を朝廷に返上するという大政奉還をやってのけたことです。

 

龍馬が人気になった経緯

突出した龍馬の人気は、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』が作り上げたもの――という見方に異論はなさそう。

「坂本龍馬という人は、司馬遼太郎の小説が出るまでは歴史の中に埋もれていた人物でした。有名であるのは『司馬遼太郎が描いた坂本竜馬』であり『史実の坂本竜馬』ではないのが実態です」

司馬遼太郎の長編小説「竜馬がゆく」だろう。現代の人が持っている坂本龍馬のイメージはこの作品によって作られたものと言っても過言ではなく、私もこの作品に感化されたひとりである。以後、龍馬を題材にした物語はすべてこの作品をベースにしており、学者さんまでもが崇拝しているということを思えは、この作品がもたらした影響ははかりしれない。

誕生日

龍馬の誕生日でありますが、一般には十一月十五日を此の英傑・龍馬の誕生日とし、後に凶刃に倒れた命日と奇しくも同月同日だったとしていますが、これについては明確な根拠がありません。当時は子息や家族の誕生について、姓名や生年月日等の詳細な情報を役所に届け出る制度はなく、それは明治五年の壬申戸籍の制定まで待たなければなりません。

●楢崎龍の証言(『千里駒後日譚』)

龍馬の生まれた日ですか、天保六年の一一月一五日で、ちょうど斬られた日と一緒だと聞いておるのですが書物には一〇月とあります。どちらが真か分かりませぬ

次の四つが有力な説です。

 ・天保6年10月10日説

 ・天保6年10月15日説

 ・天保6年11月10日説

 ・天保6年11月15日説

 前回にも述べたように何れの説にも確たる根拠はないが、明治以降の出展数からすると、天保6年11月10日説が最も多くなっている。

11月15日は坂本龍馬の誕生日であり、命日であるとされている。

これは間違いではないが、正しくもない。

龍馬が生まれたのは天保6年11月15日であり、西暦に換算すると1836年1月3日にあたる。
そして、慶応3年11月15日に京都河原町の近江屋の2階に居たところを刺殺者に踏み込まれて殺された。この日は西暦換算で1867年12月10日になる。

天然パーマ

たぶん、龍馬と聞いて大半の方が思い浮かぶのがこの写真だと思います。

髪がグシャグシャしていて、なるほど天然パーマとゆう感じです。

およそドラマや映画で坂本龍馬を演じられた方々は、
大抵このイメージでやられていたと思います。

番組では、場所や陽の当たり方から検証されていて、
この写真は早朝に撮られた写真とのこと。

実はこの髪の毛、寝起きでボサボサだったと言うのです(;゚□゚)エェ。

こちらも龍馬の写真。

見事な直毛です。

これが本当だとすると、今までつちかわれてきた
坂本龍馬の風貌のイメージはかなり変わってしまいます。

天然パーマと直毛、どちらが真実なのでしょう。

身長

坂本龍馬の正確な身長は、分かっていないが、大男だったという。
「写真」と「当時、着用していた紋付のサイズ」を元に、 研究者が計算したところ、坂本龍馬の身長は「180cm」であった。
ほかの研究では「174cm」や「169cm」という説もある。

いずれにしても当時の平均的な身長は、150cm台であったため、
”坂本龍馬は、大男であった”と言えるだろう。
また龍馬の姉・乙女も、約174cmと大柄であった。

出典坂本龍馬

 

龍馬の身長についてですが、明治以後に龍馬の身長について語っている人は3人おります。
3人によると、
田中光顕(元・陸援隊士) =5尺7寸(173cm)
関龍二 (元・海援隊士) =5尺8寸(176cm)
信太歌之助 (元・幕臣) =5尺9寸(179cm)
となっています。

幕末の志士で6尺(約180センチ)とも5尺8寸(約174センチ)ともいわれ大柄とされていた坂本竜馬の身長が169センチだったという研究結果が5日、明らかになった。肖像画の着衣や所持品などから身長を推定する方法を2人の学者が開発。その結果、竜馬は平均よりは大きいものの、イメージよりは小柄という結果になった。

薩長同盟

龍馬が薩長に手を組ませることを思いつき、乗り気でない両者を説得して実現した”という「薩長提携発案伝説」「薩長提携実現伝説」は司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』等で世間に広まった架空の「龍馬伝説」の一つに過ぎない

薩長同盟が成立したのは龍馬の力によるところが大きいといわれているが、それは龍馬の側に立って物事を見た場合の見方であり、これが長州藩または薩摩藩の立場から見た場合は違った見方になる。

龍馬が行った長州との交渉事はすべて西郷の伝達であり、あくまでも“薩摩藩の密使”として長州に接近したんです。

出典www.shotentai.com

剣術

龍馬は2度にわたる江戸での剣術修行で北辰一刀流の免許皆伝を許された剣の達人というのが通説になっているが、実際にはそうした事実を証明する資料は残っていない。それどころか、田舎の少年剣士にすらコロコロと負かされたというような話も残っていて、龍馬の剣の実力を疑問視する声は多い。

有名な桂小五郎との「御前試合」は完全な作り話。
これも、現在では確実に否定されている割には「史実」と思い込んでいる人が多い話です。時系列的に完全に矛盾し、この「試合」があったとされる当時、二人は完全に別々の土地にいました。

北辰一刀流の最高位を貰った剣の達人でもなく、実際の龍馬の伝位は「中目録免許」でごく普通の腕前です。

暗殺

近江屋事件といえば『龍馬暗殺』となりますが、本当は『中岡慎太郎暗殺』事件なのであって、刺客の狙いは実は中岡慎太郎の方だった。

その他の真実

幕府の追っ手が龍馬を捕縛するために寺田屋を襲撃しますが、このとき入浴中だったお龍が機転を利かせて龍馬に知らせたため難を逃れたエピソードは有名です。
ただ、入浴中というのは作り話の可能性も・・・寺田屋を襲撃したのは午前3時ごろですから、こんな時間にお風呂に入っているというのも考えずらいですよね。

坂本龍馬は、「新官制擬定書(新政府の人事案)」を作成した。
この新政府の人事案には、「坂本龍馬」の名前が、入っていなかった。
そのことを知った西郷隆盛が”新政府に入ってはどうか”と龍馬に言うと、
龍馬は「ワシは、世界の海援隊をやります」と答えたという―――

この有名エピソードは、
大正時代に書かれた「坂本竜馬(著者:千頭清臣)」によって生み出された 「作り話」である。
実際には、「坂本龍馬」の名前は、参議候補者として記載されていた。

出典坂本龍馬

 


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