彭城の戦い (わずか3万の項羽軍が劉邦軍56万を粉砕)

歴史

屈辱の左遷から勢力を拡大させた劉邦をどん底に突き落とした「彭城の戦い」に至るまでをダイジェスト。

紀元前206年

史上初めて中国を統一した秦を滅亡させた項羽は、お気に入りの諸侯を各地の王にして、思いのままに領地の分配をおこなう。

この領地の分配は、秦との戦いでの功績は二の次で、秦の首都・咸陽に一番最初に乗り込んだ劉邦は逆に危険視され、約束の関中の地ではなく、流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中が与えられた。

この漢中が、地図の上で咸陽の左側に位置することから、活躍の場が失われる移動や降格を「左遷」と言うようになったとされている。

圧政をひく秦からの解放者のはずが…

項羽は多く不満を買い、各地で反乱が続発した。

項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになる。

そのため、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。

劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れた。

さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげていく。

そうして56万人にも膨れ上がった大軍勢で、項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。

彭城の危機を知った項羽は

九江王・英布に彭城を守備するよう要請する。

しかし、英布は仮病を使い、項羽の要請に応じない。

反乱鎮圧に奔走する項羽が留守にし、わずかな守備兵だけを残していた上に英布の援軍も無い彭城は、劉邦が率いる56万の連合軍に太刀打ちできずアッサリと陥落した。

劉邦は連合軍に対して全軍の指揮を執らず、各国各々に指揮を任せていたため、彭城を制圧後は無法状態となり、連合軍は大勝利に浮かれて、日夜城内で宴会を開き、城内の財宝を荒らし、を犯し、好き放題に遊びだす。

彭城の陥落を知った項羽は3万の精鋭部隊を編成

項羽は猛スピードで彭城へと引き返してくると、油断しきっていた連合軍56万を木っ端微塵に打ち破る。

連合軍は10万人にものぼる死者を出し、川に追い詰められて殺された兵士の死体で、川の水がせき止められるほどであった。

連合軍は散り散りになって逃走し

劉邦は途中に家族が住む沛に立ち寄るものの既に父・劉太公や妻・呂雉ら家族はすでに項羽軍に捕らえられていた。

劉邦は、子ども達を発見したので馬車に乗せて逃亡するが、途中、劉邦は恐怖で錯乱状態となり、馬車を軽くするためと言って子ども達を捨てようとするが、御者の夏侯嬰に諭される。

56万の大軍を擁しながら、わずか3万に大敗するというブザマさに各国は劉邦を見切る

項羽軍に追い詰められ

劉邦らは命からがらケイ陽(河南省鄭州市)に逃げ込む。

項羽軍に包囲され、長い籠城を続けることになる。

劉邦はこの絶体絶命のピンチを、軍事の天才である韓信に望みを託す。

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