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【日本史】徳川将軍15人の主なプロフィールまとめ

歴史

歴代将軍のプロフィールをまとめてみました。

三英傑の一人。

17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く江戸時代を築いた。

豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位でトップになり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになる。

関ヶ原の戦い・大坂の陣などを経て天下人となる。

武術の達人であり、健康オタクでもある。

「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」と評される

天正18年(1590年)、小田原征伐に際して実質的な人質として上洛し、元服・秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗る。
秀吉からは、羽柴の名字を与えられる。

慶長10年(1605年)、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となる。

2代将軍秀忠の次男(嫡男)。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。

老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立。

武家諸法度の改訂で、大名に参勤交代を義務づけた。
寛永18年(1641年)までに鎖国体制を完成させた。

伊達政宗、藤堂高虎、毛利秀元、立花宗茂といった戦国時代を生き抜いた武将たちを御咄衆として置き、合戦の話を聞くことを好んだ。特に伊達政宗のことを大変深く尊敬し、外様大名としては異例な高待遇で接していた

父は第3代将軍徳川家光。
将軍家を継承した時はわずか11歳。

保科正之を主導者にして外様大名などに一定の配慮を行ない、末期養子の禁を緩和し、大名証人制度の廃止や殉死禁止令が出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から文治政治への政策切り替えが行われた。

家綱の死により、徳川将軍家の直系は断絶した。

2代将軍・徳川秀忠は祖父。初代将軍・徳川家康は曾祖父。

家綱時代の大老酒井忠清を廃し、自己の将軍職就任に功労があった堀田正俊を大老とした。

幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらった。荻原重秀もここから登用されている。

現代の評価の低さはドラマによるところが最も大きい。

第3代将軍・徳川家光の孫。

悪評の高かった生類憐れみの令や酒税を廃止するなど気概を示したため、庶民からの人気と期待は高かった。

柳沢吉保を免職し、甲府徳川家旧臣である間部詮房・新井白石らを登用して文治政治を推進。

新井のほかに室鳩巣ら多くの学者を招聘し、人材の登用に尽力したといわれる。

第6代将軍・徳川家宣の四男として生まれる。
4歳で将軍となり、8歳で死去。

側用人の間部から「上様、何事もこの詮房にお任せ下さい」という言葉を受け、間部や新井白石の路線をそのままに政治を行った。

家継の死により、第3代将軍・徳川家光の系統は断絶。

暴れん坊将軍(ドラマ) 米将軍。

徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父。

幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行。

江戸時代を代表する名君の一人とされる。

徳川吉宗の長男として江戸赤坂の紀州藩邸で生まれる。

言語不明瞭に加え、猿楽(能)を好んで文武を怠ったため、父・吉宗や幕閣を散々悩ませたとされる。

側用人制度を復活させた。田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代

実は女性であったという説がある。

父は第9代将軍・徳川家重。

幼名は竹千代。幼少時よりその聡明さから、第8代将軍であった祖父・吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育った。吉宗は死去するまで、家治に直接の教育・指導を行った。

趣味に没頭していたため暗君、無能扱いされる事も多い。しかし無能ではなく、ただ単にやる気がなかっただけとする説もある。

田沼意次を側用人に重用。

御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。

家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免。
松平定信を老中首座に任命した。
定信が主導した政策を寛政の改革と呼ぶ。

寛政の改革では積極的に幕府財政の建て直しが図られたが、厳格過ぎたため家斉は父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わった。

家慶に将軍職を譲っても幕政の実権は握り続けた
(大御所時代)

第11代将軍・徳川家斉の次男として江戸城で生まれる。長兄である竹千代が早世したために将軍継嗣となり、天保8年(1837年)に45歳で将軍職を譲られた。

家臣の意見を聞いても「そうせい」というのみであったから、「そうせい様」と呼ばれて暗愚と見られている。

また老中首座の水野忠邦を重用し、天保の改革を行なわせた。
高野長英や渡辺崋山などの開明的な学者を弾圧した(蛮社の獄)

天保12年(1841年)に大御所・徳川家斉(第11代将軍。家定の祖父)の死後、(第12代将軍・家慶の)世嗣となる。

幕末の難局にも関わらず、家定は就任直後から後継問題が浮上するほど体が弱く、一説には脳性麻痺だったとも言われ、将軍として指導力を示すことが出来なかった。

菓子作りが趣味だったとされている。時には家臣たちに振る舞まっており、松平慶永(春嶽)から「イモ公方」などと呼ばれた上、「凡庸の中でも最も下等」とまで評されたと伝わる。

将軍就任の前は徳川御三家紀州藩第13代藩主。

血筋だけでなく英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣からの信望厚く、忠誠を集めたと言われている。その死に関しては「家茂さまの御薨去をもって徳川幕府は滅んだ」と嘆息したと伝えられる。

甘いものを好んだ。
虫歯や脚気の原因はこれらの食べ過ぎだと思われる。

桜田門外の変。大老井伊直弼、暗殺時の将軍

江戸幕府最後の将軍。御三卿である、一橋徳川家から、徳川宗家を相続。「けいき」と呼ばれることも多い。

禁門の変においては、慶喜は自ら御所守備軍を指揮し、鷹司邸を占領した長州藩軍を攻撃した。

大政奉還、江戸城開城。
武芸、文芸に達者。



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