かつてサブカルの総本山と呼ばれた伝説の漫画雑誌があった。その名は『月刊漫画ガロ』。その独自の編集方針で、才能ある若手漫画家をあまた育て、ガロに掲載されるようなアングラ色の強い漫画をガロ系と称したりと一時代を築いた。現在は廃刊状態であるが、未だ根強いファンが多いこの漫画雑誌についてまとめた。
『月刊漫画ガロ』
1964年〜2002年頃まで青林堂が刊行していた漫画雑誌。漫画界の異才をあまた輩出した事で知られる。
「月刊漫画ガロ」は今では伝説の漫画雑誌の地位を不動にしています
“アク”の強い作家を数多く輩出し、長らく日本のサブカル界をけん引した
創刊当時から、大学生やサラリーマンなど比較的高い年齢層の読者に支持された。
当時の大学生は漫画などを軽蔑して誰も読む人がいない風潮の中で、大学生に読まれる漫画が登場したことは先駆的兆候であった
その誌名は白土三平の漫画「やませ」に登場する忍者「大摩のガロ」から取っている他、我々の路という「我路」という意味合いもあり、またアメリカのマフィアの名前(ジョーイ・ギャロ)も念頭にあったという
出版社青林堂の創業者であり、漫画雑誌 『月刊漫画ガロ』の初代編集長の長井勝一。
中小というより零細と行った言葉の似合う、神田の材木屋の二階に居を構える小さな出版社でした
長井さんは編集者らしくない人で、通常、雑誌作りでは大事だとされる事柄について一切無頓着だった
目玉になる強力連載、読者層の設定、誌面のバラエティ、デザインやレイアウトなど、ほとんど念頭になかった
オリジナリティ第一
編集者の干渉が少なく、作家が自由に作品を発表出来た。
良くも悪くも、きわめて自由でアナーキーな雑誌
経営的には苦しかったが、特に1960年代~70年代にかけて、才能ある若手漫画家を育てる役目を果たした
商業性無視
商業性よりも作品そのものを重視した。その為、他の漫画雑誌にはない独創的な作品が数多く掲載された。
有望そうな新人に門戸を開いているとか、実験的な作品も意欲的に掲載するという編集方針
ガロ系
また活躍の場を失った漫画家への媒体提供、新人発掘の場という側面もあったという。
大手出版社の少年雑誌における表現の不自由さに突き当たった結果として生まれたのが漫画雑誌「ガロ」
他の雑誌では敬遠される前衛的実験的な作品もガロは平気で載せました。そんなアングラ色の濃い漫画作品の事を称して「ガロ系」という言葉が産まれます
カルト的な人気を誇ったが…
売れなかった
一部のマニア、知識者層、サブカルチャーファンなどからは熱狂的な支持を受けるも、販売部数は少なかった。
当時も評価自体は非常に高かったのですが、一般の人達には暗く、よく分からない、の評価で売れない、この厳しい現実に、漫画家も稿料が受け取れず、社員も給与がロクロク払われない
つげ義春さんとか白土三平さんも『ガロ』そのものが売れてお金に余裕ができるまでは、原稿料なかったんじゃないかな
原稿料0円は当たり前!?
販売部数の落ち込みによる慢性的な経営不振の為、作家たちに原稿料が支払えない状態が続いた。
ガロの最大の伝説というか、もうトレードマークやキャッチフレーズ化しているアレ。”原稿料ゼロ”
原稿料ゼロだからこそ、『タダでもいいから載せて欲しい』といった”本当に描きたいもの”を描く作家さんが出てきます
そして
歴代の作家陣などの経済的支援と強い継続の声もあり、細々ながら刊行は続いた。
そこには「お金」には変えられない、描き手と雑誌との強い結びつきがあったのだ
ガロで執筆した代表的作家とその作品
白土三平
経歴【1932〜】日本の漫画家。東京府出身。『ガロ』はもともと白土の新作『カムイ伝』のための雑誌として創刊された。
紙芝居,貸本屋,前衛誌,劇画の世界を歩んできた,日本の漫画界の巨人
60年代、白土三平は確かに時代の最先端を走っていた。個人的には、手塚治虫・梶原一騎・白土三平を「漫画界三大巨匠」と勝手に命名している
『カムイ伝』
江戸時代の様々な階級の人間の視点から重層的に紡ぎ上げられた物語。非常に多くのキャラクターが登場する壮大なスケールの作品。
1964年の連載開始から40年以上経った現在も未だ完結しておらず、白土自身も漫画家生活の大半をこの作品に費やしていることから、白土のライフワークとも言われる
旧来の漫画にはみられない様々な群像が入り乱れる骨太のストーリーが高く評価され、時代小説に比しても遜色ない漫画路線の礎を築いたとされる
水木しげる
経歴【1922年〜】日本の漫画家。鳥取県出身。妖怪漫画の第一人者として知られる。
現在の日本人が持つ「妖怪」イメージは、水木の作品から大きく影響を受けている
『鬼太郎夜話』
鬼太郎シリーズのガロ版。1967年6月〜1969年4月まで連載された。その後の鬼太郎のイメージとは少し違う。
子供や大衆に媚びていない「素の鬼太郎」が描かれています
「少年マガジン」版の鬼太郎はどんどん正義のヒーロー化していったが、ここには煙草も吸えばスリの手伝いもする原点の鬼太郎がいる
つげ義春
日本の漫画家及び随筆家。寡作な作家として知られている。実弟のつげ忠男もガロで活躍した作家の一人。
ガロ系漫画が好きなものにとって、避けては通れない存在、それがつげ義春
彼のマンガは世の闇に目を向けた厭世的で暗い話が比較的多いのですが、彼には昔から根強いファンがついており、未だにそのマニア人気は衰えていません
リアリズムと夢を描く
リアリズムに徹した日常と不条理な夢を描いた。そのシュールな作風が高い評価を得て、熱狂的なファンを獲得した。
つげ義春の漫画に出てくる風景は、今となっては既に失われてしまった、記憶の奥深くに眠っている何かを強烈に呼び覚ます喚起力があります
出典つげ義春
『ねじ式』
つげ義春の代表作。そのシュールさと常軌を逸した展開から漫画界以外でも大いに話題となった作品。
ねじ式→団塊世代のエヴァンゲリオン
多くの読者に衝撃を与えたが、ぼくもまた仰天した。悪夢のようなシュール・レアリスムの世界がそこにあり、しかもそれは小説ではとても表現できない作品だった
林静一
経歴【1945年〜】日本の漫画家、イラストレーター。ロッテの梅味キャンディー『小梅』のキャラクター「小梅ちゃん」のイラストレーションでも知られる。
マンガ家としては1970年の『赤色エレジー』の代表作で知られている。しかし、同時にイラストレーター、アニメーション作家、映画監督として様々なビジュアル分野で活躍する。いずれの分野でも高く評価される才人
『赤色エレジー』
一郎と幸子の幸薄い同棲生活を描いた作品。その時代の風俗を象徴する漫画と言われる。
読み返すごとに溢れる情景と二人の突き刺すような孤独感、そこで交差する二人の思いに胸を打つ
台詞を極端に排除し、シュルレアリズム絵画を連想させる異質な描写に多くを語らせることで、読み手が自由に思いを投げ入れる隙が生まれる。台詞ではなく画に語らせる劇画的技法は、読まれることより見られることに意識的なアニメーターの資質によって更に深化し得た
ストーリー性を限りなく排除し、シュールなイラスト的な絵を次々と描いていく。 近年は絵本作家としても有名
出典佐々木マキ
『うみべのまち』
フキダシの中に絵が入ったり、図だけのコマが続いたり、コラージュなどの描画手法も取り入れた。内容はナンセンスそのもの。
音楽で言えばコラージュのようでプログレのようでサイケ。音楽を漫画に求める人は読んでください
出典佐々木マキ
その前衛具合には、あの手塚治虫が「あれは狂ってる」「あの連載をすぐにやめろ、載せるべきではない」などと表明するぐらい
永島慎二
経歴【1937年〜2005年】日本の漫画家。かなり独特の画風で『青年漫画の教祖』と呼ばれた。
彼の描くマンガは青春期の私小説の様なもので、都会に住む青年の空虚な日々とその中に射す一筋の光といった話をセリフを抑え、絵で見せる魅力がありました
短編を中心に数多くの作品をガロで発表した。
蛭子能収
蛭子さんもガロで漫画を描いていた。
ちょうどちり紙交換のバイトをしているときに漫画雑誌「ガロ」に入選、それがデビュー
原稿料が出なかったから。当時は、ただ自分の作品が雑誌に掲載され読者から感想をもらうのがうれしかったので、細々と投稿は続けていました
出典mjmb.jp
みうらじゅん
みうらじゅんも漫画家デビューはガロだった。
青林堂の『ガロ』に自作のマンガを持ち込みました。毎月持っていったけど、デビューまで一年以上かかった。「ガロ」にしか載らないようなマンガが、そこでボツをくらっているんだから、他では当然だめ。双葉社にも行ったら、「ガロ」に持っていけば?」って言われた(笑)
まだまだ…
根本敬、滝田ゆう、赤瀬川原平、鈴木翁二、古川益三、花輪和一、丸尾末広、池上遼一、内田春菊などなど、ガロで執筆した作家は枚挙に遑がない。
あらためて、すごい顔ぶれです
ジャンルを超えて刺激的な、後に名を成したアーティストがずらり
ガロの今
ガロは幾度か経営者や編集者を変えつつ復刊・休刊を繰り返し、現在は事実上の廃刊状態となっている。
団塊世代に愛された伝説の漫画雑誌ガロ
商業誌なのにもうける気はなく、原稿料さえろくに払えない。それでも根っからの漫画好きが集まって、ここまで来た。やめたくてもやめさせてもらえなくてね
『ガロ』はその先見性と独自性で一時代を画した、単なる漫画雑誌ではない足跡を出版界に遺した