昭和を代表する偉大な文豪たち。彼らの多くは自殺という一般人の考えとは程遠い死に方を選択した。なぜ彼らは自殺という手段を選択したのか?彼らの死生観はいったいどのようなものだったのでしょうか。
なぜ偉大な功績を残した文豪たちは自殺するのか
自殺した文豪一覧
・太宰治(享年39、入水自殺)
・芥川龍之介(享年35、服毒自殺)
・川端康成(享年72、ガス自殺)
・三島由紀夫(享年45、割腹自殺)
理由一覧
●太宰治
境界性人格障害だった説。自身の体調不良や、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の一つの理由だったとする説。(Wikipediaから引用)
●芥川龍之介
遺書には「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」との言葉を、芥川が自殺の動機として記した。
●三島由紀夫
老化を忌み嫌ったから。また勇敢な死を遂げることで男気を発揮(彼はずっと自分の女々しさがコンプレックスだった)し、自分の人生(文学)をナルシシズム的に完成させようとしたから。
※三島由紀夫は自衛隊の駐屯地を占領して、人質を取り、自らの主張を演説した後に腹を切って自殺している。(三島事件)
●川端康成
自分がノーベル文学賞の栄冠に輝いたことを気に病んで。彼は、この賞は力量からして明らかに三島が受賞すべきだと思い込んだ説。
年下の友人の三島由紀夫の自殺に絶望した説。
好きだった家事手伝い女性が辞めたせい説。
遺書がないのでガス事故だった説
※諸説ありますが、自殺の原因と上げられる説まとめ。
総じて言えることは、日本の文豪には「自殺の美学」のような独特の風潮があるなということです。海外の文豪は、辛く苦しくてもたくましく強く生き抜いていった方々が多いので。
太宰治
太宰 治(だざい おさむ、1909年(明治42年)6月19日 – 1948年(昭和23年)6月13日)は、日本の小説家である。本名、津島 修治(つしま しゅうじ)。1936年(昭和11年)に最初の作品集『晩年』を刊行し、1948年(昭和23年)に山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺を完遂させた。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格』。その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称された。
16歳の頃から小説やエッセイをクラスメートと作った同人雑誌に書き始めた。高校では芥川、泉鏡花に強く傾倒し、中高を通して書き記した習作は200篇にも及ぶという。
出典太宰治の生涯
文筆家としてはまさに天才型で、口述筆記を得意とし、彼の口から出る文章は句読点から括弧にいたるまで、そのまま出版できたといわれています。
太宰治はそんな優秀な頭脳の持ち主ですが、境界型人格障害であったようです。
境界性パーソナリティ障害 – Wikipedia
境界性パーソナリティ障害(きょうかいせいパーソナリティしょうがい、英: Borderline personality disorder ; BPD)は、境界型パーソナリティ障害とも呼ばれ、青年期または成人初期から多く生じる、不安定な自己 – 他者のイメージ、感情・思考の制御不全、衝動的な自己破壊行為などを特徴とする障害である。一般では英名からボーダーラインと呼称されることもある。旧来の疾患概念である境界例と混同されやすい。治療は精神療法や心理療法を主とし、薬物療法は補助的に位置づけられ副作用に注意し慎重に用いられる必要がある。症状は30代頃には軽減してくる傾向がある。
それから酒やドラッグに溺れやすいのも境界型人格障害の特徴です。太宰治は一升くらいすぐに飲んでしまうくらい酒好きだっただけでなく、パビナールという鎮痛薬の中毒になり、精神病院に入院したこともあります。
太宰の作品には飲酒の描写が多く、主人公が泥酔し我を失ってしまうシーンが多くあります。「人間失格」など彼の死への意識が明確に描写されている作品です。
人間失格 – Wikipedia
『人間失格』(にんげんしっかく)は、小説家・太宰治による中編小説。『ヴィヨンの妻』『走れメロス』『斜陽』に並ぶ太宰の代表作の1つである。
他人の前では面白おかしくおどけてみせるばかりで、本当の自分を誰にもさらけ出す事の出来ない男の人生(幼少期から青年期まで)をその男の視点で描く。この主人公の名前は、太宰の初期の小説『道化の華』に一度だけ登場している。
ヴィヨンの妻 – Wikipedia
作者を髣髴させる、元男爵の次男だという帝大出の詩人の妻「さっちゃん」の視点で、大谷と彼を取り巻く人々の言動が綴られている。さっちゃんは、浅草公園の瓢箪池畔でおでんの屋台を出していた父とふたりで長屋に住んでいた。小金井の家はボロ家で、3人家族の家計は、しばしば熱を出す子供を医者に連れて行きたくても、お金もない有様。その上、大谷は数日も帰ってこないこともしばしば。ある時、大谷は入り浸っている中野…
富嶽百景 – Wikipedia
芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年(明治25年)3月1日 – 1927年(昭和2年)7月24日)は、日本の小説家。本名同じ、号は澄江堂主人、俳号は我鬼。
その作品の多くは短編である。また、「芋粥」「藪の中」「地獄変」など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」といった児童向けの作品も書いている。
「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。服用した薬には異説があり、例えば、山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している[9]。同日朝、文夫人が「お父さん、良かったですね」と彼に語りかけたという話もある。戒名は懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺。
出典芥川龍之介 – Wikipedia
遺書として、妻・文に宛てた手紙、菊池寛、小穴隆一に宛てた手紙がある。芥川が自殺の動機として記した「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」との言葉は、今日一般的にも有名であるが、自殺直前の芥川の厭世的、あるいは「病」的な心境は「河童」を初めとする晩年の作品群に明確に表現されており、「ぼんやりした不安」の一言のみから芥川の自殺の動機を考えるべきではないとも言える。芥川命日は小説「河童」から取って河童忌と称される。
出典芥川龍之介 – Wikipedia
「僕は罪を犯した為に地獄に堕ちた1人に違いなかった」
「人生は地獄よりも地獄的である」
「生きる為に生きている我々人間の哀れさを感じた」
芥川はこのような発言をしています
出典 芥川龍之介の自殺理由
三島由紀夫
三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 – 1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。血液型はA型[1]。戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。満年齢と昭和の年号が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にした人物として語られることが多い。
代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。
出典三島由紀夫 – Wikipedia
昭和四十五年(一九七〇)十一月二十五日、作家・三島由紀夫(四五)が東京都新宿区市ケ谷本村町の陸上自衛隊東部方面総監部の総監室において割腹自刃した。
その際、三島と行動をともにした楯の会会員四人のうち、森田必勝(二五)も、最後には古賀浩靖の手を借りたとはいえ、三島を介錯したのち割腹し、その森田の首をさらに古賀が刎ねた。いわゆる≪三島事件≫である。当時のある新聞が、三島の首と胴体が転がっている生々しい写真を掲載して非難を受けたことを記憶している。
日本の未来を憂いた三島は自衛隊に乗り込み演説した後、割腹自殺を図った。
大義のために死す 三島由紀夫 誕生の日
私は、自衛隊に、このような状況で話すのは空しい。しかしながら私は、自衛隊というものを、この自衛隊を頼もしく思ったからだ。こういうことを考えたんだ。しかし日本は、経済的繁栄にうつつを抜かして、ついには精神的にカラッポに陥って、政治はただ謀略・欺傲心だけ………。
出典三島由紀夫演説文
三島由紀夫 – Wikipedia
三 島 由 紀 夫 演 説 文 注1、 ………は、聞き取り不能 注2、 青字 は、野次に対する三島の叱咤 注3、 茶色 は、野次 私は、自衛隊に、このような状況で話すのは空しい。しかしながら私は、自衛隊というものを、この自衛隊を頼もしく思ったからだ。こういうことを考えたんだ。しかし日本は、経済的繁栄にうつつを抜かして、ついには精神的にカラッポに陥って、政治はただ謀略・欺傲心だけ………。これは日本…
三島事件 舞台となった市ヶ谷駐屯地 [注釈 1] 。現在は 統合幕僚監部 等が所在する防衛省の中枢となり、渦中となった東部方面総監部は 朝霞 へ移駐している。 場所 市ヶ谷駐屯地 ( 日本 東京都 新宿区 市谷 ) 座標 北緯35度41分34秒 東経139度43分43秒 / 北緯35.692…
川端康成
川端 康成(かわばた やすなり、1899年(明治32年)6月14日 – 1972年(昭和47年)4月16日)は、日本の小説家、文芸評論家。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。
大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った
代表作は、『伊豆の踊子』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。そのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明され、研究・追跡調査されている
川端の自殺
1970(昭和45)年の三島の自刃直後の現場を目の当たりにして以来、しばらく床に伏せるなどを繰り返していたが、それまで見られなかった言動をするようになり、1971(昭和46)年4月の東京都知事選では秦野章候補の応援弁士に立ち、美濃部都知事を激しく攻撃するなどもしていた
出典川端康成自殺
1972(昭和47)年4月16日、川端は鎌倉の長谷の自宅に岡本かの子全集の推薦文を書きかけのままで外出、14:40、自宅から100メートルほどの海岸通からタクシーで1月7日に買ったばかりの逗子の小坪にあるマンションへと向かった。15:00には逗子マリーナクラブハウスに到着、4階の自室へと上がり、水割りを少し飲んだ後、17:30に布団をすっぽりかぶって、長さ1.5メートルのガス管をくわえ、18:00に絶命した。
出典川端康成自殺
原因はノーベル賞受賞か?
川端の自殺の一因に、ノーベル文学賞受賞を挙げる向きもある。川端の受賞は1968(昭和43)年だったが、例えば1962(昭和37)年のノーベル文学賞候補には、川端以外には谷崎潤一郎、西脇順三郎が挙がっている。
出典川端康成自殺
川端は子供時代から常に天涯孤独でした。
もっとも目をかけていた三島の自殺を受け、彼は精神的にかなりの打撃を受けたようで枕辺に三島が現れたこともあったようです。
老いることで近づく死への恐れ。
出典 川端康成は72歳にもなってなぜ自殺なんかしたんでしょうか? – Yahoo!知恵袋
ノーベル賞授賞式での一枚
老いることで近づく死への恐れ。ノーベル賞をとったことで、それ以上の作品を書くことはできないと作家としての限界に気づき、絶望したのかもしれません。
若い家政婦に関係を迫って拒まれたのをショックに自殺したという説もあります。
しかし、どの理由にしても「孤独」が彼を死においやったのだと思います
出典 川端康成は72歳にもなってなぜ自殺なんかしたんでしょうか? – Yahoo!知恵袋
川端康成 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: 案内 、 検索 川端 康成 (かわばた やすなり) 1938年(39歳頃)、鎌倉二階堂の自宅窓辺で 誕生 1899年 6月14日 日本 ・ 大阪府 大阪市 北区 此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区 天神橋 1丁目16-12) 死没 1972年 4月16日 (満72歳没) 日本 ・ 神奈川県 逗子市 小坪 墓地 …