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天下を取らせた徳川に滅ぼされた「福島正則」の生涯

歴史

天下を取らせた徳川に滅ぼされた「福島正則」の生涯

福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。

尾張で生まれる

永禄4年(1561年)、桶屋を営んだ福島正信(正光)の長男として尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)で生まれる。

幼いころ父親の桶屋家業を継ぐために修行していたが、大人と喧嘩をして鑿(のみ)で相手を殺害した。

母親の縁から、秀吉に仕える

母が豊臣秀吉の叔母(大政所の姉妹)だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に仕え、天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。

秀吉とともに出世街道を登ってゆく

天正10年(1582年)の山崎の戦いでは、勝龍寺城を攻撃するなどして軍功をあげ、300石を加増されて500石となった。

山崎の戦い

山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍が、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)において、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突した戦い。

古来、天王山の戦いと呼ばれてきた。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5,000石を与えられた。

賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で行われた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と織田家最古参の重臣柴田勝家との戦いである。

この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって亡き織田信長が築き上げた権力と体制の正統な継承者となることを決定づけた。

拝郷 家嘉(はいごう いえよし、天文18年(1549年) – 天正11年(1583年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

加賀大聖寺城城主。織田氏の家臣。通称は五左衛門。名は久盈(ひさみつ)とも。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは、父・正信とともに、後備えとして兵300を率いて従軍したらしい。 正則は本陣から美濃に撤退する際に敵と戦い、褒美として胴肩衣(襦袢)を賜った。

小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。

尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。

また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。

伊予国今治で大名となる

根来寺攻めや、四国征伐にも従い、天正15年(1587年)の九州平定の後、9月5日に伊予国今治11万石の大名に封ぜられた。

小田原征伐にも参加

小田原征伐では、織田信雄の軍として、蜂須賀家政・細川忠興・蒲生氏郷などとともに韮山城を攻撃、包囲した。

韮山城(にらやまじょう)は伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山)にあった室町時代後期から戦国時代にかけての日本の城。平山城。

15世紀末に北条早雲の関東経略の拠点として整備され、後北条氏の関東支配後も伊豆支配の拠点としてその持ち城であったが、天正18年(1590年)には豊臣秀吉による小田原征伐において激しい攻防戦を経験している。龍城の異称を持つ。

文禄・慶長の役

文禄の役では五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京畿道の攻略にあたった。年末には京畿道竹山の守備についた。

続く慶長の役には参加しなかった正則であったが、秀吉は慶長4年(1599年)に朝鮮半島に大軍勢を派遣して大規模な軍事行動を計画しており、その軍勢の大将として石田三成と増田長盛とともに抜擢されていた。

豊臣秀次事件ののち、尾張に移封される

文禄4年(1595年)7月、秀吉によって豊臣秀次が切腹させられるという大事件が起こった。この際、正則は日本におり、秀次に切腹の命令を伝えている。同年、尾張国清洲に24万石の所領を与えられた。

石田三成との確執

正則は石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。

この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意したが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。

小山評定にて、徳川家(東軍)の味方につくことを誓約する

三成が挙兵した報を受けての小山評定では、正則が三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約し、反転して西上する方針が決定する。

「豊臣秀吉子飼いの福島正則ですら、徳川家康の味方をするのであれば」と、それまで家康の味方につくことを躊躇していた豊臣傘下の大名たちは、安心して東軍についた。

家康は福島正則に対して「あのときの福島正則の決断がなければ、関ケ原での東軍の勝利はなかった」と、後日激賞します。

関ケ原の戦い

清洲から美濃方面に進軍し、西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させる。

関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家勢1万7,000と戦闘を行った。

宇喜多勢の前衛8,000を率いた明石全登に、福島勢は一時退却を余儀なくされたが、なんとか宇喜多勢の進撃を防ぎ切ることに成功する。

関ケ原の勝利と、広島への移封

やがて小早川秀秋の背信を機に、西軍の戦線は次々に崩壊した。宇喜多勢は、開戦時から戦っていたため疲労が頂点に達し、東軍による集中攻撃に持ち堪えられなくなり、壊滅した。

戦後安芸広島と備後鞆49万8,000石を得た(広島藩)。

江戸幕府と豊臣秀頼への忠誠

慶長9年(1604年)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加して忠勤に励む一方、豊臣家を主筋に立てることも忘れなかった。

慶長13年(1608年)に秀頼が病を患うと、正則は見舞に大坂城へ駆けつけている。

豊臣秀頼

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより、文禄2年8月3日(1593年8月29日) – 慶長20年5月8日(1615年6月4日))は、日本の安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。

天下人。

大坂冬の陣、夏の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)の総称。

江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである。

大坂の陣では秀頼に加勢を求められても正則は拒絶

一族の福島正守・福島正鎮は豊臣軍に加わった。

幕府には従軍も許されず、冬の陣、夏の陣ともに江戸留守居役を命じられたが、嫡男の福島忠勝が兵を率いて幕府軍に加わった。

豊臣家への内通により改易される

しかし戦後、正則の弟の福島高晴は豊臣家に内通したとして、幕府より改易を命じられた。

徳川幕府の策略

家康死後まもなくの元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を幕府に無断で修理したことが武家諸法度違反に問われる。

正則はその2ヶ月前から届けを出していたが、幕府からは正式な許可が出ていなかった。

福島側の言い分では、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけという。

安芸広島50万石を没収される。

怒った将軍・徳川秀忠の命により、安芸・備後50万石を没収

徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。

江戸幕府の第2代征夷大将軍。

さらに4万5千石に減封・転封される。

信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減封・転封される。

元和6年(1620年)に嫡男・忠勝が早世したため、正則は2万5,000石を幕府に返上した。

寛永元年(1624年)、高井野(長野県高山村)で死去した。享年64。

福島正則荼毘所跡(ふくしままさのりだびじょあと)は、長野県高山村にある福島正則屋敷跡の北方向500mにある史跡。

福島正則供養塔、杉の木、標柱、説明板からなる。

高山村指定文化財。

大名としての福島家は取り潰される

幕府の検死役の堀田正吉が到着する前に、家臣・津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したため残りの2万石も没収された。

幕府は正則の子・福島正利に旧領から3,112石を与えて旗本とした。



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