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歴史系の質問です。 奥州の戦国大名の伊達政宗は東北の英雄として高い人気を誇り、ゲームではとても…

ゲーム 歴史

歴史系の質問です。
奥州の戦国大名の伊達政宗は東北の英雄として高い人気を誇り、ゲームではとても強い設定ですが皆さんは政宗をどのように評価しますか?

自分は人取橋の戦いのように強さを発揮できている一方で関ヶ原の戦いの際には上杉相手に戦果を残せていないことから弱くはないけど特に強いほどでもないと思っていますが、、、

  1. 匿名 より:

    伊達政宗はイメージとして「戦争に強い」がメジャーかもしれませんが、実態は「経済力がある」という方が正しい気がします。
    とはいえ、織田家然りで経済力=軍事力です。
    そういう意味で伊達家は歴代守護職や探題として既得権益を得てきている一族ですので軍事力は高い方だと思います。
    政宗自身も小競り合いや小規模な合戦では負けたりしていますが、最終的に勝ったり、負け戦を同等条件で講和したりと結果的に見れば「戦争が強い」という事になります。

    伊達政宗の強さは合戦や外交に関して、外に出ていく力です。
    当時の奥羽地方は親戚だらけで何かしようとすれば別の親戚から仲裁される、という村社会のようなエリアです。そこを若さ(?)で押し出して行けたのは伊達政宗、その側近たちの力だと思います。
    他の方も仰っていますが、合戦は外でやるのが一番です。センゴク等にも描写されていますが、織田家や上杉家の強さはそこにあります。外に出て戦わなければ領地が拡がることもありませんし、領民・領村を守ることもできません。
    やはりその点は大きく評価されるべきでしょう。

    また、伊達政宗は人柄に一癖二癖あったのは確実ですが、その外交力は評価されるべきだと思います。
    少し変わった大名達と仲良くしたりトラブルを起こしたりしていますが、「またあいつか…」「狐憑き」とか言われたりしながらもなんか戦国時代末期の風物詩的な立ち位置に立てています。この辺りは人柄と側近たちの冷や汗を評価すべきでしょう。

    ただ、信長の野望に関して言えば確かに能力値が高すぎる気もします。野望値を係数みたいにして合戦時や内政時の結果に係数として影響するようにすれば面白いのに、とか思います。

  2. 匿名 より:

    非公開さん
    当時の概念には東北と云うものはありません。
    伊達家は奥羽の約200万石のうち、117万石に大崎合戦で降伏した大崎・葛西・黒川領33万石を領地にしております。要するに200万石のうち150万石、最上義光(政宗と和睦した伯父)の領地が24万石で、最新の研究では、摺上原の戦いで、伊達家に援軍を寄こしている。)喧嘩はしているが一族の相馬氏が7万石、残りが南部10万石なので、もし秀吉の小田原征伐が無ければ相馬や佐竹は滅ぼされていたと思われます。

    上杉勢との戦いに関してですが、伊達勢は白石城を包囲して奪っております。また、米沢と白石、福島と、米沢・会津を分断させるために峠筋の住民に銃を与えて一揆を起こさせております。これにより、上杉勢は数的有利がありながら、白石城を奪還できず、伊達軍の信夫郡・伊達郡への侵攻を許して桑折・梁川城を落とされてしまいます。

    政宗は、家康が南から進軍するので積極的に南下しましたが、小山から南進して大坂に進軍し始めた為に逆に伊達軍が孤立して攻め滅ぼされるリスクが出てきたので、上杉景勝と和睦します。条件は侵攻したエリアの返上するということで、政宗が失う領地はありませんでした。ところが石田三成があっさり倒されたので、家康の軍勢が北進する為に政宗は白石城を占拠したままのらりくらりと信夫郡や伊達郡兵を出して、最上義光の山形にも別動隊を送ります。政宗としては、領地をある程度奪還して、米沢や安達郡も返上すると家康と手形を貰っているので、こういう行動をしたと思います。

    そもそも政宗は家康の家臣ではないですし、部下でも与力大名でも小大名でもありません。家康と同僚の大名家で、しかも婚姻相手です。のちの歴史を知っている人であれば政宗の動きは不可解に感じますが、当時としては、仮に家康と三成が戦になっても長期化する可能性もあり、仮に上杉と対立しても頼みの家康が負ければ、伊達家が窮地に落ちる可能性がありました。政宗的にはそういったリスクが有ったので、あらかじめ佐竹義重や相馬義胤(どちらも正室が伊達の姫)とは打ち合わせをしており、家康や三成がどちらが勝っても生き残れるように対策をとっていたのです。

    後に佐竹義宣(義重の長男で政宗の従弟)が改易になりそうになると、政宗と義重は動いて、秋田への減封で済ませます、佐竹家には政宗の叔母の宝寿院(輝宗の末の妹)と伯母の二階堂阿南姫(輝宗の姉)、叔父の国分盛重もいます。
    また、相馬家は政宗の正室愛姫の母親於北(盛胤の妹、義胤の叔母)の実家ですし、義胤の正室が、越河御前(輝宗の叔母=稙宗の末娘なので輝宗と年齢は近い)です。
    そういう関係もあり、政宗は相馬家が生き残るように家康に根回しします。

    なので、福島正則や加藤清正、黒田長政みたいに政宗は石高を多く貰えませんでしたが、かつては敵対していた親戚大名家を残すことに成功させます。そういう点で、普通の人は政宗は2万石の加増で、あとで飛び地2万石を手に入れたしょぼい恩賞と思いますが、飛び地のうち1万石は旧蘆名領(佐竹氏の領地だった)の比較的近い龍ヶ崎だったという点もあります。

    また、大坂夏の陣で上杉勢はどれだけ活躍したのでしょうか?
    あまり聞きませんし、伊達家は恩賞として冬の陣の後に宇和島10万石を貰っております。伊達家でも片倉隊は一番の武勇で褒めたたえられており、後藤隊を殲滅して真田隊と戦い、片倉小十郎重長は恩賞として真田信繁の娘を正室にしております。

    上杉氏は上杉謙信の強さで勘違いされますが、景勝は上田長尾氏で一応上条氏の血筋は入っていますが、ぶっちゃけ言うと政宗の従弟の伊達成実も上条氏の血筋で、その父親実元は母親が上条氏の娘で越後上杉家の養子予定でしたし、上田長尾氏景勝よりも血筋が良いです。景勝がここまで過大評価されるのはひとえに上杉謙信の養子で、上杉景虎(北条氏政の弟)に運よく勝てた(直江兼続という天才がいた)からであって、正直直江兼続がいなかったら、凡愚なんじゃないかという事ですね。結局、直江兼続がいても景勝は減封されて、伊達家よりも半分以下の石高で、表高も減り実質10万石で困窮したところで、血筋が良い吉良氏から養子を貰って更に困窮して、秋月氏から鷹山を養子にして再興させているのですから、あまり褒められたものではないと思います。政宗に関しては存命中に表高は仙台領だけで97万石、長男の秀宗が準国餅大名格にされるなど明らかに比較する相手ではないと言えます。
    まあ正直言って伊達家と比較できるのは薩摩の島津家だけなんですけどね。

    次にトンデモ回答にツッコミを入れたいと思います。
    是非色々考えた上で、実際に戦場を見に行ったりした方がいいですね。
    長谷堂城の近くに百目木温泉があるのでよろしければそこの温泉から
    長谷堂城を見るのも良いと思いますよ。
    あと、松川ですが、松川町もあるので混乱されるでしょうね。

    sas********さん
    東北の雄ではあるけど東北全土を牛耳った訳でもなく信長や秀吉など中央と戦った訳でも無い。

    まず、この方の意見は出鱈目です。東北という概念が出来たのは安政年間あたりです。要するに幕末です。それまでは、奥羽、南奥羽、北奥羽みたいな感じでのすみわけが出来ています。そもそも伊達稙宗(政宗の曽祖父)の征服を目指したエリアは南奥羽、北関東であり、北奥羽には伊達家の別家である稗貫氏が花巻城に居城を構えていました。政宗的には北に軍を進めても南部の係争地帯で10万石、津軽の係争地帯て7万石、広大な出羽でも20万石であり、普通に常陸(伊達家の発祥の地がある)を目指した方が同じ面積で70万石が手に入りますし、効率もいいです。

    戦と言うのは大きな勢力を攻め滅ぼせばいいわけで、南部の広大な係争地帯で得る領地よりも常陸の佐竹や越後(ただ越後だけでは39万石しかない)の上杉を目指した方がいいわけです。次に信長についてですが、輝宗(政宗の父親)の時代に織田家とは同盟を結んでおり、奥羽支配は輝宗に任せると信長に一任されております。柴田勝家と連携して越後の揚北衆に切り崩し新発田の乱は輝宗が糸を引いてます。輝宗が暗殺されると揚北衆や新発田一族は景勝に平定されます。政宗としては景勝と同盟を組んで庄内に侵攻して貰う事で、最上義光が黒川・大崎・葛西領の介入をさせないようにしたと言われております。

    基本的にこの方は歴史を知らないので語らないで欲しいです。

    ral********さん
    この方も伊達輝宗と織田信長の関係性をしりません。伊達家は金山銀山が豊富で、今井宗久(信長のお茶の師匠で武器商人)を介して鉄砲や火薬を手に入れております。輝宗は奥羽の馬(献上した馬はかなり大きいのでポニーサイズではない)や鷹(信長が好んで鷹狩でつかった)を献上しております。輝宗とその参謀遠藤基信は外交力があり上杉謙信や景勝を背後から牽制したり、柴田勝家と組んで揚北衆に離反させるなどして、他の大名家よりも鉄砲を手に入れております。政宗の代に宗久の子、宗薫と深い関係を持ち、松平忠輝(家康の6男)と五郎八姫(政宗の長女)の縁談を持ち掛けたのも今井家の長い付き合いがありました。また、上方より鈴木元信を召し抱えて、関ケ原の後に雑賀孫一を客将に向かえたりもしており、とかく大坂夏の陣では片倉隊の鉄砲の威力は絶大で鉄砲の武装率は大名家でNO1だと言われております。
    それと関ケ原では、片倉隊が白石城を奪取、桑折・梁川城まで攻め入ります。この方の福島城を攻めたというのは江戸時代の米沢藩のファンタジー小説であり、所謂松川の戦いで、当時の松川は福島県庁の南側を流れていましたので、伊達勢が所謂福島城を攻めた場合、必ず信夫山を抑える必要があります。米沢藩時代の松川は信夫山の北側を流れていたので、この方の言ってる戦っている場所と、当時の川の位置が違いますし、上杉勢は福島城なんて小城に籠るよりも信夫山に陣を引けば伊達勢をくぎ付けにできるのでこんなバカなファンタジーを信じる人は少し信用できませんね。また、史実では家康の大軍勢が小山から西国に向けて反転したので、政宗は景勝と白石城を返上する条件で和睦をしようとします。政宗としては、最悪、景勝・相馬一族・佐竹一族・また和睦をしないと最上義光(上杉景勝に降る可能性があったから)から攻撃を受ける可能性がありました。史実では、石田三成が負けたので、政宗は方針を変えて、伊達郡に入り上杉勢を北に引き付けて置きながら、最上領に留守政景の5000の別動隊を送ります。

    戦に関しては、攻められた時点で、自領にダメージがあり、負けて専有されれば完全敗北ですし、追い払って撃退しても領地が荒れます。この戦に関しては上杉勢は最上領に侵入しましたが伊達領には侵入できず、伊達勢は、上杉領の刈田郡を専有して、信夫郡を荒らします。この方はそういう軍事的な考え方を理解されていないので少し残念な方だと思います。

  3. 匿名 より:

    そうですね、東北の雄ではあるけど東北全土を牛耳った訳でもなく信長や秀吉など中央と戦った訳でも無い。
    秀吉傘下に入った後は家康の与力大名的な立ち位置。
    目立ってはいても中央政権と覇を争った面々とは一段下がる感じは否めない。
    豊臣恩顧の武将達よりは家臣団や謀略面でとか野望とかが高いとかの感じですかね。

  4. 匿名 より:

    元々伊達家は政宗の曽祖父稙宗の時代には南奥羽の雄として最大勢力を形成しました。ただ子の晴宗との争い天文の乱で大きく衰退しましたが。
    それでも祖父晴宗、父輝宗の時代でも領土を着実に増やしていたので政宗としては元々大きなアドバンテージを持った状態で家督を継ぎました。
    政宗の凄さは従来の慣習を見事に壊したことでしょう。当時の南奥羽は各勢力が縁戚関係を結び、それぞれが干渉できないようにする合従状態でした。
    よく言えば平和的、悪く言えばなあなあ状態なのが南奥羽でした。
    その状態を破壊し、伊達家を最大勢力にまで増やした政宗の功績は伊達家の中では大きいかなと。
    そして何よりの功績はこれだけの実力と野心を持つのに江戸時代を通じて仙台藩として存続させて処世術でしょう。
    隣国であり縁戚でもある最上家が改易されたので伊達家も標的のはずでしたが何とか切り抜けました。これは政宗を超警戒していた家康秀忠を交わし、更に政宗を信奉する家光の時代まで生き延びたことで伊達家存続が確定したともいえるでしょう。

  5. 匿名 より:

    東北の雄であることは間違いないでしょうが、全国区だとイマイチというレベルですね。高校野球と同じですよ。宮城県代表は東北大会は難なく勝ち上がっても甲子園だと準決勝までがやっと、という感じですからね。
    同じような各地区代表といえる島津や毛利、上杉、武田はまがりなりにも一度は信長あるいは秀吉と干戈を交えてる。伊達にはそれがありません。特に関ケ原の直後に上杉領の福島城を攻め逆に追い返されたのはいただけませんね。上杉の城代クラスに勝てなかったのは大きなマイナスです。
    戦が騎馬と弓・槍中心の時代には東国の軍が圧倒的に強かった。頼朝がまさしくそうだし、鎌倉幕府を倒した足利や新田、そして南朝方の北畠顕家などもそうです。
    戦国時代になっても初期の北条や武田をみればよくわかります。でも鉄砲が普及し出すと火薬を入手しにくい東国勢は近畿以西の軍にかなわなくなります。政宗はそんなころに登場した。だから秀吉にも家康にも全く抵抗できなかった。
    ただ、荒れた宮城中北部に押しこめられてもめげずに領地経営に専念し、仙台を日本有数の大都会にまで発展させた功績は大きいですね。武将というより民政家、文化人としては大いに評価すべき人物です。

  6. 匿名 より:

    個人的には最強に近い武将ではあったと思いますよ。



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