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あまり知られていなくて面白い、かっこいい逸話がある戦国武将を教えてください。 上杉謙信、武田信…

戦国武将

あまり知られていなくて面白い、かっこいい逸話がある戦国武将を教えてください。
上杉謙信、武田信玄、織田信長、明智光秀…のような超有名人系ではなく、ちょっとマイナー系がいいです。
簡単にで結構です。戦国武将の名前だけでもいいです、自分で調べます。

私が面白いなと感じた例を挙げてみます。
・相良義陽: 家存続か友情か天秤にかけてわざと友人に殺された
・水野勝成: 大将なのに一番槍。めちゃくちゃ強くて破天荒なのにマイナー。家康のいとこ。現刈谷市のゆるキャラ。
・阿部正豊:勘違いで自分の大将殺しちゃった。その場で殺された。そのときの大将は徳川家康の祖父
・小田氏治:戦国最弱大名。ヒストリアで紹介された。
・真柄直隆: 信長公記では160cmの刀を振り回していたとされる。熱田神宮にあるのは222cmの刀。

こんな感じの武将をたくさん教えてください。
よろしくお願いします。
戦国ファンの方がここで楽しめあえたら嬉しいです。

  1. 匿名 より:

    ●「鮭延秀綱」

    最上義光の家臣。
    鮭延秀綱は元々は秋田横手城主の小野寺氏の家臣で出羽山形の真室城城主でした。
    やがて最上義光の侵攻を受け「小野寺義道」の救援が無い為に降伏。

    しかし最上義光に本領を安堵された鮭延秀綱は、この後に最上義光の家臣として大活躍する事となります。

    その後に「小野寺義道」は旧領回復に向けて「最上義光」領との最前線に当たる鮭延城の鮭延秀綱を幾度か攻めていますが、その度に鮭延秀綱に撃退させられてしまうのでした。

    そして関ヶ原の戦いの時、最上義光は直江兼続らの率いる総兵力2万5000人の上杉軍の侵攻を受けました。
    上杉軍は義光の本拠地の山形城からは南西約8kmという目と鼻の先にある長谷堂城を包囲します。『長谷堂城の戦い』

    直江兼続率いる上杉軍1万8000に対し、長谷堂城は最上家重臣「志村光安」以下1000名で絶体絶命でした。
    しかし志村光安は、夜襲で逆襲し上杉軍を大混乱させて直江兼続のいる本陣近くまで攻め寄せるなど大奮戦。
    またこの時、援軍として長谷堂城にいた「鮭延秀綱」の戦いぶりは、

    敵の直江兼続から
    「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」

    と称賛されました。

    しかしやがて最上家は江戸幕府時代に「最上騒動(お家騒動)にて改易され、鮭延秀綱も徳川家臣の土井利勝の預かりの身となりましたが、やがて許されて土井家家臣となります。

    ところがこの時に与えられた5千石の知行を山形以来の自分の家臣たちに全て与えてしまい、秀綱自身はその家臣たちの家に転々と居候して回るという生活ぶりだったそうです。

    海音寺潮五郎さんの短編小説 『乞食大名』の主人公です。

    ●「松田 康郷」

    北条家家臣。

    別称は康江、孫太郎、六郎左衛門。
    重臣の「松田憲秀」とは従兄弟の関係です。
    智勇に優れ、主家の北条家の勢力拡大に大きく貢献。

    永禄9年(1566年)の下総国の「臼井城の戦い」でも大活躍。

    「上杉謙信」軍15000の侵攻を受けた臼井城の守備兵は2000ほどで、たちまち落城の危機となりました。
    北条氏配下の松田康郷は包囲前に150騎程の援軍を率いて臼井城に入城していました。

    臼井城の城主の「原胤貞」は、たまたま滞在していた「白井浄三」に指揮権を委譲。
    そして白井浄三の指揮で臼井城軍は意表をついて上杉謙信軍に向けて
    「松田康郷」らが突撃して上杉謙信の本陣の直前まで切り込み、上杉謙信軍をその日は撤退させました。

    この戦いの際、
    「松田康郷」は、漆黒の巨馬にまたがり先頭を走り、向かい来る敵兵を長刀で斬り殺し、刀が役に立たなくなると樫(かし)の棒で馬上の敵を打ち倒し、素手で相手の首をねじ切るという大活躍だったそうです。

    この事から

    上杉謙信は
    「岩舟山に赤鬼の住むと沙汰しけるは、一定彼がことなるべし。」

    (岩舟山には赤鬼が住んでいるとは聞いていたが彼の事だったか!)

    と感嘆し『鬼孫太郎』、『松田の赤鬼』などの異名が知れ渡りました。

    ※岩舟山は栃木県栃木市にある日本三大霊山の1つで赤鬼が住むと伝承がありました。

    結局、上杉謙信軍は臼井城攻略に失敗。
    北条方の記録では上杉の死傷者は5千人以上と語られ、
    あまりの惨敗の為か『謙信公御年譜』(謙信の伝記)には記録が見当たりません。

    上杉謙信の生涯最大の敗戦と言われています。

    ただし、「白井浄三」は架空の人物ともされ、
    最近のは研究では北条氏と千葉氏の援軍の来着により上杉軍が敗北したとの説も唱えられています。

    その後、上杉謙信は4月に越後に帰国。
    しかしその後、関東で上杉謙信に味方していた勢力らが大挙して北条氏側へと寝返る事態となってしまいました。

    つまり、
    この「松田 康郷」が大活躍した「臼井城の戦い」は、関東における上杉謙信の威光を失墜させてしまった戦いと言えるのです。

    「松田 康郷」その後も各地で活躍しますが、北条家の滅亡後は結城秀康に仕え、70歳で死去しました。

    ●「大熊朝秀」

    「直江景綱」「本庄実乃」と共に側近として初期には謙信を支えた人物。

    しかし謙信の高野山への出家騒動を機に謙信に反乱するも破れて国外へ逃亡。
    後に武田信玄に迎え入れられて信玄の直臣として活躍。
    勝頼の代になってもその地位は揺るぎませんでした。
    武田家の最期となる天目山の戦いでは、逃亡者が続出する中で最後まで勝頼と共に行動して討死。
    武田家への恩に報いました。

    ●「土屋昌恒」

    武田勝頼に仕えて各地で奮戦。
    長篠の戦いにて兄の昌続・養父の貞綱がともに戦死した為に土屋家を継承しました。
    武田家の滅亡となる信長の甲州征伐において、裏切り・逃亡者が続出する武田軍の中で勝頼に最後まで付き従い、その最期となる「天目山の戦い」において大奮戦しました。

    足場が不安定な崖の1本道に踏み留まり、落下防止の為に片手は木の蔦を巻き付けて、もう一方の片手で刀を振るい続けて織田軍に大損害を与えて勝頼親子の自害の時間を稼ぎ、勝頼親子の自害を聞いた後、もしくは十分時間を稼いだと判断した後、壮絶な自害を遂げました。

    俗に「片手千人切り」などと言われています。

    ●「甲斐親直(宗運)」

    阿蘇家家臣。
    内政・外交・軍事とマルチに大活躍。
    生涯において60戦無敗と言われる弱小大名の阿蘇家の柱石。

    とにかく主家の阿蘇家を裏切った者は、例え親族であろうと徹底的に誅殺する過酷さを持った人物でした

    その名と戦巧者ぶりは近隣に知れ渡り、
    島津氏からも
    「宗運がいる限り、肥後への侵攻はできない!」

    と言わしめる評価を受けていました。

    また外交的には豊後の大友宗麟を後ろ盾として、隣国の相良氏らと共に島津軍の北上に抵抗を続けていました。

    ところが

    天正6年(1578年)
    大友氏が「耳川の戦い」で島津軍に大敗。

    後ろ盾を亡くした阿蘇氏に暗雲が漂い始めました。

    天正8年(1580年)

    3月
    阿蘇氏はピンチを迎えます
    島津氏と龍造寺氏に従属していた肥後国国人連合軍が阿蘇氏を攻撃。
    大友氏の支援は無いために孤立無援でした。

    しかし
    4月
    宗運は「白川旦過の瀬」の戦いにて連合軍に勝利。
    この時、戦い後に連合軍側の3騎が宗運に斬りかかり、宗運は長男の親英と共にこれを迎え撃ち、1騎を討ち取ったと言われます。

    しかし大友氏の凋落ぶりから阿蘇氏内の動揺は増すばかり。

    そんな中、
    なんと宗運の2男の親正、3男の宣成、4男の直武が島津氏に内通。
    宗運は2男の親正を誅殺。3男の宣成も追討し殺害。
    4男の直武はかろうじて逃亡。

    この処置に反発した長男の親英も龍造寺氏へ内通したために捕縛して殺害しようとしましたが、他の重臣たちの要請により起請文を書かせて助命。

    しかしついに宗運も大友氏の凋落ぶりから阿蘇氏を龍造寺氏へと従属させました。
    そしてその頃には彼の盟友でもある相良義陽もついに島津氏に屈服して従属。

    相良義陽は島津氏に命令(強要)されて阿蘇氏を攻撃。
    宗運は相良軍を迎え討ちました。

    そして濃霧の中、宗運軍は奇襲して相良軍の本陣へと攻め込みました。
    相良氏家臣たちは義陽に退却を促しますが、彼は床几に座したまま動こうとはせずに戦死してしまいました。

    そしてその届けられた盟友であった義陽の首を見て宗運は号泣。

    そしてその後、
    宗運は外交力を屈指して弱小大名の阿蘇家の存続に尽くしました。

    島津氏と龍造寺氏への間でのらりくらりと従属交渉を続け、
    島津氏との和睦交渉もわざと交渉を難航させました。

    天正11年(1583年)
    75歳にて病死。

    直前には

    「島津には決してこちらから戦いを仕掛けずに守勢に徹し、天下を統一する者が現れるまで持ちこたえるように」

    と言い残していたとの事です。

    しかし2年後、
    跡を継いだ長男の甲斐親英は島津氏を攻撃。
    これを口実に島津氏は阿蘇氏を攻撃し、阿蘇氏はあっさり降伏。
    大宮司阿蘇氏は滅亡。

    それは豊臣秀吉の九州征伐の1年前の事でした。

    なお、
    甲斐宗運の死には孫娘による毒殺説があります。

    ●「延沢満延」

    最上義光の家臣。
    延沢満延は元々は出羽地方の国人連合である「最上八楯」の1人で武勇に優れ、天童氏らと共に最上義光と長きに渡り争い、しばしば義光を破った人物でした。

    最上義光が「最上八楯」との戦いにて戦況を優勢に進めていても、「延沢満延」が参戦すると戦況がたちまち逆転されてしまうほどでした。

    しかし、最上義光は満延の息子の又五郎に義光の娘の松尾姫を娶わせる事で満延を最上側に引き抜く事に成功。
    しかし引き抜き条件には、将来における「最上八楯」の盟主の天童頼澄の助命も含まれていました。

    そして延沢満延を失った「最上八楯」はやがて崩壊し、天童頼澄は伊達家へと逃亡しましたが、この時、先の約束通り最上義光は追撃しませんでした。

    またある時、
    最上義光は延沢満延のその剛力を試そうとして、義光の家臣たちに待ち伏せさせて満延に飛びかからせたところ、満延はその7.8人の力自慢の男どもを即座に振り払ってしまいました。

    これにはそれをこっそりのぞいていた義光も驚きその場から逃げましたが、満延がどこまでも追いかけて来ます。
    そこで義光は近くの大きな桜の木にしがみつきました。
    そして追いついた満延が義光を桜の木から引きはがそうとしましたが、義光も怪力の持ち主として知られるほどなので桜の木を放しません。

    そしてその結果、2人がもみ合っているうちに大きな桜の木は根から引き抜かれて満延と義光ごと倒れてしまったというエピソードがあります。

    また満延が16か17歳頃、
    満延は数々の力自慢の者たちでも持ち上げられない山形両所宮にある大鐘を持ち上げられるかと友人達から煽られました。

    そしてそれならばと満延はそこへ行き、その大鐘を軽々と持ち上げただけでなく、ついでに10里離れた地元の寺まで持ち帰ると言って本当に持ち帰ったと言われます。
    その時の鐘だというものが2つの寺に現存しているそうです。

  2. 匿名 より:

    ●「吉岡定勝」

    天正9年(1581)6月~
    羽柴秀吉の鳥取城の包囲戦。

    吉岡定勝の防己尾城は鳥取城の西方にありました。

    秀吉は包囲軍に襲撃を繰り返す吉岡定勝を叩き潰そうと考え、秀吉自身も防己尾城へと進軍。

    秀吉は意表をついて彼の親衛隊である黄母衣衆に大きな池側から城を攻撃させましたが…。

    しかし裏をかいたつもりが逆に裏をかかれた黄母衣衆は、逆襲されて岸の水際へと追い詰められて壊滅。
    しかも秀吉が黄母衣衆に与えていた『千成瓢箪』の馬印の旗もが奪われてしまいました。

    その後、意地になった秀吉は再度攻撃しようとしましたが、軍師の黒田官兵衛に諫められ、城への包囲・兵糧攻めを指示して鳥取城包囲戦へと帰還。

    防己尾城は結局その後、半月ほどで落城。
    しかしその時には防己尾城はすでにもぬけの殻で 吉岡定勝らの脱出後でした。

    秀吉の軍歴の中でも輝かしい時期に因幡の小豪族でありながらも秀吉から大金星を挙げたのが

    「吉岡定勝」なのです。

  3. 匿名 より:

    皆さん丁寧に教えてくださってとても楽しめました!気持ち的には皆さんにお礼したいのですが、1番最初に丁寧に教えてくださったのでベストアンサーとさせていただきました。とても貴重な知恵袋になりました!ありがとうございます!

  4. 匿名 より:

    関が原で小早川秀秋の裏切りで討ち取られたという”大谷吉継”
    彼は石田三成の朋友としても有名ですが
    豊臣家きっての穏健で知性派だったそうです
    多くの豊臣家臣が東軍に寝返る中それでも彼が西軍に残ったのは三成との友情だったと言われています
    そしてその逸話を自分は気に入っています

    彼らが皆で大きな杯に酒を注ぎ回し飲みしていた時のことです
    吉継が一口飲んだ後その盃に彼の鼻水が垂れてしまったそうです・・・
    不始末を恥じて彼は盃を取り換えるように申し出ます
    けれどその後に控えていた三成は「おぬしの体から出たものなら構わん」
    そんなことを言って鼻水ごと飲み干してしまいます
    吉継はそれにいたく感激して「こいつの為なら命だって惜しくはない」
    と思ったという話です

    何を大げさな・・
    初めて聞いたときはそう思いました、けれどそれには諸説あって・・・

    有名な話ですが大谷吉継は晩年籟病を患っていました
    ハンセン病と言われるその病は現在も差別に苦しんでいる人がいるほどです
    そして鼻水だと言われていたのは吉継の顔から崩れ落ちた膿だったそうです
    そう置き換えると、「おぬしの体から出たものなら構わん」も凄いし
    死期が迫った身とはいえ「こいつの為なら命だって惜しくはない」というのも誇張ではないでしょう

    確かに逸話だとは思います
    けど命がけで時代を生きた二人の素敵な話だと思っています

  5. 匿名 より:

    白井 胤治

    上杉謙信が率いる1万五千の大軍を2千で打ち破った千葉の名軍師。

  6. 匿名 より:

    植村家政&植村主膳 推参!

    江戸時代の徒衆だけどお許しを。



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