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「猛将」と言えば誰が思いつきますか?

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「猛将」と言えば誰が思いつきますか?

  1. 匿名 より:

    ①井伊直政
    ②上杉景勝
    ③上杉謙信
    ④前田慶次等です。

    ①井伊直政

    ・言わずと知れた「赤備え」の猛将だと思います。「赤備え」所謂朱具足は、当時の人々の認識的に朱=格式が高いと言う認識を持たれていたと思われることと、朱具足が一部の武将に限られ数が少ないのと赤色が目立つ色の為、視覚・認識的にも目立つと思うので、標的にされやすくなり激戦になる可能性があると思います。その軍団長には、相応の武勇が求められた思います。

    ②上杉景勝

    ・刀に相当な使用痕と実戦傷がある。

    ③上杉謙信

    ・刀に使用痕がかなりある。

    ④前田慶次

    二次史料での慶次の武勇伝&武勇に秀でたとする評価

    ・武勇の場数人の越えたる人なり(出典:桑華字苑)

    ・畑谷城の合戦で首級28を取る(出典:関ヶ原軍記大成)

    ・驍勇な武将として知られていた(出典:本藩歴譜)

    ・心逞しく猛将たりorあまつさえ戦を好む(出典:前田慶次殿伝 慶次の従者の慶次の評価です。)

    ・長谷堂の退却戦で「前田慶次利貞槍をとって敵を突き崩す」と上杉家の正史に記される。(出典:上杉家御年譜)

    ・武功度々申すに及ばず(出典:可観小説)等々です。

    二次史料(後世の史料)は、鵜呑みに出来ないが何かしらの事実が含まれているかも?と言うものです。しかし、二次史料での「教養に優れていた」と言う慶次の評価は、今福匡氏の著書:「前田慶次 武家文人の謎と生涯」と言う研究書で連歌会に出席し当時の一流の文化人たちと交流があった事を明らかにした事から二次史料での教養に優れていた事は、事実だったと思います。二次史料とは言え、慶次の評価には事実が含まれていた事になるので、武勇面での評価も否定は出来ないと思います。

    また、残された遺品もそれ相応の武勇の持ち主でなければ着用が認められないだろうと考えられる甲冑が現存しています。非公開の甲冑で皆朱塗である事から皆朱槍同様通常の武者の着用が出来ないと指摘されています。(参考:上杉謙信・景勝と家中の武装)あと、泉鏡花が旧蔵していた全体がほぼ朱塗の朱具足があり、これも相応の武勇の持ち主じゃないと着用が出来ないそうです。(赤備えと一緒ですね)

    因みに、余り猛将と言うイメージがない徳川秀忠は遺骨の調査で、のちの時代の将軍や大名と比べると意外と思われるほど筋肉質で十分に鍛錬されてたようです。余り武勇伝を聞かない秀忠も屈強だった事が分かっているので、質問者様が挙げられた武将たちもかなり屈強だったと思います。(個人的に、貧弱な武将の方が珍しい気もしますが・・)

    参考:上杉謙信・景勝と家中の武装(上杉家の甲冑武具の研究書)
    :骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと(秀忠の遺骨が紹介されています)

  2. 匿名 より:

    すいません。もう一つ

    この時代の老将も屈強だったりします。例えば

    人取り橋の合戦の鬼庭良直や大阪冬の陣における上杉家の水原親憲等は、70を超えての陣頭指揮をしています。伊達政宗の遺骨(68歳没間違いならすいません。)からは、手足が太く筋肉質だったりします。↑であげさせて頂いた。徳川秀忠(54歳没)は腕の毛・すね毛が黒々としていて老境を感じさせないそうです。(参考:骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと)

    彼らも猛将だったと思います。

  3. 匿名 より:

    越後長尾氏から柿崎景家。里見氏から正木時茂。山内上杉氏から長野業政。扇谷上杉氏(後北条氏~里見氏)から太田康資。北条氏から福島勝広。武田氏から原虎胤。伊達氏から伊達成実。尼子氏(毛利氏)から湯原春綱。島津氏から川上忠智。長曾我部氏から福留親政などなど。

  4. 匿名 より:

    パットン将軍だな。

  5. 匿名 より:

    立花宗茂の実父「高橋紹運」(たかはしじょううん)を思いつきます。
    高橋紹運は信義と義理を貫いた猛将として名を知られた武将でした。
    島津家武将の島津忠長と高橋紹運の筑前国岩屋城攻防戦の話は涙をさそいます。

  6. 匿名 より:

    フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト

  7. 匿名 より:

    島津義弘



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