徳川政権(徳川幕府)が260年続いた事で素朴な質問です。 今年のGWは、新型コロナウイルスの&#82… | 質問の答えを募集中です! 徳川政権(徳川幕府)が260年続いた事で素朴な質問です。 今年のGWは、新型コロナウイルスの&#82… | 質問の答えを募集中です!

徳川政権(徳川幕府)が260年続いた事で素朴な質問です。 今年のGWは、新型コロナウイルスのR…

未分類

徳川政権(徳川幕府)が260年続いた事で素朴な質問です。

今年のGWは、新型コロナウイルスの影響で家でYouTubeを見て過ごしていました。
「三國志13 with パワーアップキット」の実況動画を見まして、
董卓と言う暴君が呂布に討たれてから、各勢力が頂点を狙って動き出すみたいな話なんですけど、

日本の場合、「信長の野望」では織田信長が天下統一を目指しますが、
歴史上では本能寺の変で死亡して、
豊臣秀吉が天下統一を引き継いで、
豊臣秀吉が死亡したら徳川家康が天下統一して、
明治維新の「大政奉還」するまで江戸時代が300年続くんですよね?

ここで素朴な質問です。

三国志では権力者の誰もがトップになろうと争い合うんですが、
なぜ、日本の場合、明治維新まで徳川政権(徳川幕府)を討ち取ろうとする武将は現れなかったのでしょうか?

江戸時代には、織田信長みたいな野心家はいなかったのでしょうか?

  1. 匿名 より:

    なぜ、江戸幕府は、250年間続いたのか?
    結論を先に言うと、五代将軍徳川綱吉が「生類憐れみの令」と言う世界初の総合福祉政策を強力に実施したからです。

    この「生類憐れみの令」の生類は人間も含めた動物をさします。

    1600年関ヶ原の戦いで東軍が勝ち、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きましたが、
    最初は、軍事君主政権でしたが、五代将軍徳川綱吉により、律令君主政権になった訳です。

    徳川家康、秀忠、家光 の三大で 徳川家の強さと、各藩を財政的に弱くする事で未だ戦国時代と同じく 強い者が天下を取る!状態でした。
    三代までの力で、一応は徳川家の強さ・偉大さを誇示出来ましたが、以後引き続いて誇示出来るか?不安な状況でした。
    現に、明暦の大火で江戸城天守を焼失しましたが、再建出来ない状況でしたから明らかに徳川家の力の衰え・・・を危惧する状況でした。

    4代徳川家綱に世継ぎが無く、弟の綱吉に将軍職が回って来ましたが、この綱吉は徳川家最強の頭脳の持ち主だったことが、徳川幕府存続のキーになりました。

    綱吉は、依然として 戦国時代と同じく力こそ統治の基本という状況では徳川幕府存続は難しい事を自覚。
    儒教と仏教に精通した綱吉は、「生類憐れみの令」により、それまでの 力=統治 から ルール=統治 へと大変革させたのです。

    現在の国家・国民と同じく 順法精神を「生類憐れみの令」で強引に造り上げた訳です。
    それまでの考えを大幅に変える為に、無理筋と思える「生類憐れみの令」を強行した事で、現在に続く日本人の様々な考えがこの時造り上げられた訳です。

    このほぼ25年間の強引な意識改革でしたが、綱吉がお亡くなりになった後、4日で「生類憐れみの令」は破棄されましたが、四半世紀もあれば武家・町民の意識は変わりました。
    以後、「生類憐れみの令」ほどではありませんが、大幅に血なまぐさい考えが無くなり、武士は戦闘員から公務員に意識改革されました。

    又、綱吉はそれまで複数の老中によるトロイカ体制で決めた政を将軍が追認するルールーの一部変更して、将軍が政を判断する為、お側用人制を制定しました。
    この改革により、これまで徳川家康の主要家臣が様々な政を決めるという制度から、将軍が自ら自前の政を行う事が可能になりました。
    それまで戦国時代の物の考え方を一新することになりました。

    後にこの制度改革で一番良い思いをしたのが、八代将軍徳川吉宗ですね。実際は無能でしたが

    公務員はコンサバが基本ですから、倒幕など考える者は旗本も各藩も殆ど無くなりました。
    その為、以後150年徳川幕府が続くことになりました。

    追加
    綱吉が将軍になる頃、未だ旗本の侍は、夜な夜な野犬相手に辻斬りを繰り返していました。
    又、町民は 捨て子や 病人を川に捨てたり・・・と非常に荒んだ状態でした。正に戦国時代と変わらない、生命感でした。

  2. 匿名 より:

    皆さん回答ありがとうございました。

    「生類憐れみの令」やさまざまな改正が重なって将軍に逆らう人が人が減ったから徳川政権は長く続いたんですね。

  3. 匿名 より:

    >江戸時代には、織田信長みたいな野心家はいなかったのでしょうか?

    家康公や秀忠公のころまでは、豊臣家を滅ぼしたとはいえ、島津、毛利、伊達など、戦国時代からの生き残り大名(初代藩主)が存命だったわけですから、幕府転覆の可能性はありました

    しかし、精力旺盛な初代が死に、2代、3代と代を重ねるに連れて、各藩主の権威はどんどん弱くなり、どこの藩でも家老が藩政を牛耳るようになった

    その上家臣団の分断(江戸詰と国元)による派閥抗争も各藩の行動を大きく制約したと思います

    幕末の統幕雄藩をみればわかるとおり、藩内の派閥抗争で殺し合いをしています

    要約しますと
    ①藩主権威の低下
    ②家臣間の派閥争い

    これが、家光以降弱体化していた幕府の延命に寄与したと思います

  4. 匿名 より:

    この頃には武士道が確立していました。

    子供の頃から武士道を教育し、主君のためなら死ぬことを叩きこまれてきました。

    軽々しくも将軍の首を狙う者は出ませんでした。

    また、安土桃山・江戸時代には刀狩令がでており劉備や諸葛孔明のような英雄も農民の域を出れなかったと思います。封建体制が確立されていたともいえます。

  5. 匿名 より:

    当初伊達政宗は天下を狙っていたと言われています。
    すでに太閤検地などで各藩の財政状態は幕府に把握されており幕府による貨幣鋳造、御用普請など徹底した経済管理で大大名でさえ武器など揃える余裕は無く、民衆から搾取したりすれば幕府から改易のさたが下ることもあった。
    妻と子は江戸に住み大名自身も半分は江戸に住む事で経済的にも精神的にも反旗を翻す事は難しいしちょっとでもそんな素振りが見えただけでも釈明に追われる状態だった。

  6. 匿名 より:

    家康はどんなバカがトップでも大丈夫という凄い体制を作りました。
    それはつまり、トップが積極的に傀儡になるということなので、権力を握りたい人はナンバー2を目指すことになります。

  7. 匿名 より:

    戦争は、経済力が物申します。
    つまり、江戸時代の間、「野心」有る大名は居ても、「先立つ物」が無かった。
    と思います。

    →安政の大地震で幕府は大打撃。
    一方
    ①薩摩は密輸で儲けて軍事も盛ん。
    ②長洲は関門海峡の通航料で儲けた。
    ③鍋島藩はアームストロング砲を2門所有。
    ④土佐は薩長を結び付けた。
    これで幕府以上の戦力に。

    余談ですが、尾張藩が東海道の各藩へ「倒幕軍へ抵抗しない様に」と呼び掛けた事で、無駄な争い無く速やかに江戸まで進軍出来たのも大きいかと。



 ⬇人気の記事!⬇

タイトルとURLをコピーしました