米長邦雄さんの言葉に
「挑戦も残留も関わらない対局でも全力で対局しなければならない」
「挑戦も残留も関わらない対局ほど全力で対局しなければならない。」
・
というものがあるそうですが、どちらが正解ですか?
その意味として下記のヤフコメは正解ですか?
↓
敗退行為は勝利の女神に嫌われるから。
その後なかなか勝てなくなる。
ほとんどオカルトだけど勝負の世界は理屈とオカルトの間に存在するものだ。
米長邦雄さんの言葉に
「挑戦も残留も関わらない対局でも全力で対局しなければならない」
「挑戦も残留も関わらない対局ほど全力で対局しなければならない。」
・
というものがあるそうですが、どちらが正解ですか?
その意味として下記のヤフコメは正解ですか?
↓
敗退行為は勝利の女神に嫌われるから。
その後なかなか勝てなくなる。
ほとんどオカルトだけど勝負の世界は理屈とオカルトの間に存在するものだ。
後者の「ほど」のほうが近いと思います。
原文は「こそ」で、
全文は「自分にとって重要ではないけれど、相手にとって重要な対局こそ全力で戦え」です。
その根拠となる物は、1970年の大野源一(当時八段当時58歳)と米長邦夫の順位戦B1の対局で、大野は勝てばA級昇級がかかった大事な対局で、米長にとっては勝っても負けてもB1のままでほとんどどうでもいい対局だった。
そこで米長は勝ってしまい、なぜわざと負けなかったのかという話がでたのです。
相手は昇級がかかっていてこちらはどうでもいい対局なのに勝つなんて意地悪ではないかという話も出た。
で、本人が言ったかどうかは別として、米長の考え(米長哲学)として「自分にとって重要ではないけれど、相手にとって重要な対局こそ全力で戦え」という文章が広まった。
米長本人が広めたことなのか周りの人が勝手に言っているのかはよく分からんが。
>その意味として下記のヤフコメは正解ですか?
どれも違うと思います。
周りの人がいろんな意味で使っています。
例えば、
・相手の大事な対局でわざと負けずに勝ってしまう人は意地悪だ。
・将棋に八百長はいかん。わざと負けるな。常に全力で戦え。
どの意味で使うかはあなた次第です。
将棋界には大きく分けてふたつの哲学があって、ひとつは「米長哲学」、もうひとつは「わざと負けます哲学」です。
「わざと負けます哲学」はかつて知恵袋にいた将棋ウォーズユーザーの考えを元にしていると思います。
将棋界には大きく分けてふたつの哲学があって、ひとつは「米長哲学」、もうひとつは「わざと負けます哲学」です。
↑
現在は、双方の考え方のパーセンテージ比率はどのくらいでしょうか?
『かつて知恵袋にいた将棋ウォーズユーザー』
↑
私は知りませんでしたが、どういう人だったんですか?,下の質問はいかがでしょうか?
↓
敗退行為は勝利の女神に嫌われるから。
その後なかなか勝てなくなる。
ほとんどオカルトだけど勝負の世界は理屈とオカルトの間に存在するものだ。
ありがとうございました!!
前者が正解だと思います。後者だと対局によっての手抜きに繋がり、やがて本気の勝負とそうでないものの区別をするようになります。
ヤフコメに関しては、大きな意味も学ぶべきこともないと思います。
後者です
原文は
「自分には関係ないが、相手には人生のかかった大勝負。こういうときこそ、真剣に戦って勝たなければならない」
ですので
上の部分は両方少し間違いです。
米長理論・米長哲学では
「自分にとって消化試合でも、相手にとって重要な対局なら、全力で勝たねばならない」
で、これは『人間における勝負の研究』という本に記載されています。
それによれば
「人生にはこの運の大きな波が何回かあり、小さな波は小刻みにたくさんくる。大きな波にうまく乗れるか、あるいは呑(の)み込まれてしまうか、それが人生の岐路となるのではないでしょうか。
これは当然のことであり、ごく普通の見解でしょう。問題はその先で、「では、いったいどうすればその運をつかまえられるのか」なわけです。そして、それを一言で言ってしまうと、自分の利害には大した影響のない勝負で、必死に頑張ることです」
ですので意味としては正解です。
例えるなら宝くじは買わなきゃ当たらないのと同じで、大きな勝ち運をつかむためには小さな勝ちもつかまなきゃならないということですね。
多分どちらも違います。自分にとって消化試合であっても、相手にとって大事な対局ならば全力を尽くせ、という趣旨です。運気を手に入れる、あるいは逃さないため、という理由です。