basara石田三成と実際の三成の違いを詳しく教えて下さい。
石田三成については BASARAと歴史があまりに違いすぎて、かえって単純に [能力][人格][立場]の三つの相違点に区分けできます。
その前にひとつ、「BASARA3」自体の重要な嘘ポイントとして
●実際の歴史では秀吉は家康に殺されたという事実は無い ●従って、三成が家康を恨み、敵視する理由がないから「関ヶ原の戦い」は決して起こらない
という基本中の基本があります。 「秀吉が殺された」というウソをつかないとストーリーが成り立たないのですから、 こんなのは歴史でもなんでもありません。 歴史的には「関ヶ原の戦い」という出来事は、日本を支配する「豊臣政府」の中で、 秀吉亡き後にその発言力を拡大してきた徳川家に対して三成が仕掛けた「政争」の結果として存在するのです。
さて、三成自身の話に戻りますと [能力]の面では
●デスクワークが得意な文治型の家臣で、戦いは得意ではない
居合い切りの達人のようなBASARAでの戦闘能力はゲームだけのものです。 三成は戦場での軍功はあまりなく、 主に政務官、あるいは軍政官としての働きでその高い地位を得ました。 その為に実際に戦場で戦いぬいた多くの「武将」たちから妬まれ、 その人望の無さが「関ヶ原」での敗北の一因となりますが、BASARAでは特に反映されていません。
次に[人格]の面において 三成に対しては現在、歴史好きの間でも人物評価が大きく分かれますが 「豊臣に尽くした忠臣」と思う人も、 「豊臣政権を牛耳ろうとした悪党」と思う人も、一貫して共通する点は
●怨恨を理由に行動をおこすような人間ではない
という事です。 「関ヶ原」の頃の三成の行動指針は 「豊臣政権を維持する為に、いかにして家康を排除するか」でした。 確かに三成のその高慢で人を見下した性格は多くの武将の反感を買っていましたが、 ガチガチのクソ真面目な官僚である彼は 自らの理想と理屈を通すために戦ったのであり、 その信念には「恨み」とか「復讐」といった、 いわば「下衆な感情」の入り込む余地はなかったのです。 その一点においては三成に好意的な人も、三成に否定的な人も歴史好きならば誰もが認めているハズです。
そして[立場]の面ですが、
●BASARA3の同盟相手・毛利や小早川とは対等な関係ではない
歴史上の関ヶ原戦役において毛利家は西軍の総大将であり、 三成はそれを補佐する、いわば参謀兼指揮官の立場でした。
実際の歴史での関ヶ原の戦いは、 「どれだけ仲間を増やせるか」が勝敗のカギとなっていましたが、 BASARAのような「ステージを攻略すれば仲間が増える」とか そんな簡単なものではありません。 両軍ともに全国の武将を味方につけようと努力しましたが、 当時の日本においては秀吉に統一された「豊臣政府」の下で 秀吉に服従した各大名や豊臣家臣達の「地位」が既に固まっていました。 その全国の大名たちの中でも最大の領地と名声を持つ徳川家康に比べたら、 「たかが奉行ふぜい」の三成は非常に見劣りするものでした。 家康との対決の際、三成が総大将では他の大名達が従わないので、 あえて頭を下げて西の大国毛利に総大将になってもらったという経緯があります。
またそれは小早川秀秋についても同様です。 秀吉の甥であり筑前36万石の大名である秀秋に 三成のような19万石の奉行ごときが BASARAの描写のような高圧的な「いじめ」をする事などできません。 歴史上では三成は寝返りが懸念される秀秋に対して、 「関白職=秀吉の跡継ぎとしての地位」と 「大阪近辺で2カ国の領地」という超ビッグな恩賞を約束して、必死に慰留しています。
このように三成は豊臣政権を背負って戦うという行動と、 自らの地位・立場とのギャップに非常に苦しめられました。 こうした彼の苦悩はドラマやマンガなど 「関ヶ原」を描いた娯楽作品なら大抵は取り上げられているのですが、 :ゲーム「BASARA3」では全く描写されていません。
ものすごく違うから、ここで聞くよりウィキペディアなんかを質問者さん自身がご覧になった方が早いです。 basaraの石田三成はご存知ですよね? でしたら、史実の石田三成についてのページは沢山ありますから、ちょこちょこっと見られます。
石田三成については
BASARAと歴史があまりに違いすぎて、かえって単純に
[能力][人格][立場]の三つの相違点に区分けできます。
その前にひとつ、「BASARA3」自体の重要な嘘ポイントとして
●実際の歴史では秀吉は家康に殺されたという事実は無い
●従って、三成が家康を恨み、敵視する理由がないから「関ヶ原の戦い」は決して起こらない
という基本中の基本があります。
「秀吉が殺された」というウソをつかないとストーリーが成り立たないのですから、
こんなのは歴史でもなんでもありません。
歴史的には「関ヶ原の戦い」という出来事は、日本を支配する「豊臣政府」の中で、
秀吉亡き後にその発言力を拡大してきた徳川家に対して三成が仕掛けた「政争」の結果として存在するのです。
さて、三成自身の話に戻りますと
[能力]の面では
●デスクワークが得意な文治型の家臣で、戦いは得意ではない
居合い切りの達人のようなBASARAでの戦闘能力はゲームだけのものです。
三成は戦場での軍功はあまりなく、
主に政務官、あるいは軍政官としての働きでその高い地位を得ました。
その為に実際に戦場で戦いぬいた多くの「武将」たちから妬まれ、
その人望の無さが「関ヶ原」での敗北の一因となりますが、BASARAでは特に反映されていません。
次に[人格]の面において
三成に対しては現在、歴史好きの間でも人物評価が大きく分かれますが
「豊臣に尽くした忠臣」と思う人も、
「豊臣政権を牛耳ろうとした悪党」と思う人も、一貫して共通する点は
●怨恨を理由に行動をおこすような人間ではない
という事です。
「関ヶ原」の頃の三成の行動指針は
「豊臣政権を維持する為に、いかにして家康を排除するか」でした。
確かに三成のその高慢で人を見下した性格は多くの武将の反感を買っていましたが、
ガチガチのクソ真面目な官僚である彼は
自らの理想と理屈を通すために戦ったのであり、
その信念には「恨み」とか「復讐」といった、
いわば「下衆な感情」の入り込む余地はなかったのです。
その一点においては三成に好意的な人も、三成に否定的な人も歴史好きならば誰もが認めているハズです。
そして[立場]の面ですが、
●BASARA3の同盟相手・毛利や小早川とは対等な関係ではない
歴史上の関ヶ原戦役において毛利家は西軍の総大将であり、
三成はそれを補佐する、いわば参謀兼指揮官の立場でした。
実際の歴史での関ヶ原の戦いは、
「どれだけ仲間を増やせるか」が勝敗のカギとなっていましたが、
BASARAのような「ステージを攻略すれば仲間が増える」とか
そんな簡単なものではありません。
両軍ともに全国の武将を味方につけようと努力しましたが、
当時の日本においては秀吉に統一された「豊臣政府」の下で
秀吉に服従した各大名や豊臣家臣達の「地位」が既に固まっていました。
その全国の大名たちの中でも最大の領地と名声を持つ徳川家康に比べたら、
「たかが奉行ふぜい」の三成は非常に見劣りするものでした。
家康との対決の際、三成が総大将では他の大名達が従わないので、
あえて頭を下げて西の大国毛利に総大将になってもらったという経緯があります。
またそれは小早川秀秋についても同様です。
秀吉の甥であり筑前36万石の大名である秀秋に
三成のような19万石の奉行ごときが
BASARAの描写のような高圧的な「いじめ」をする事などできません。
歴史上では三成は寝返りが懸念される秀秋に対して、
「関白職=秀吉の跡継ぎとしての地位」と
「大阪近辺で2カ国の領地」という超ビッグな恩賞を約束して、必死に慰留しています。
このように三成は豊臣政権を背負って戦うという行動と、
自らの地位・立場とのギャップに非常に苦しめられました。
こうした彼の苦悩はドラマやマンガなど
「関ヶ原」を描いた娯楽作品なら大抵は取り上げられているのですが、
:ゲーム「BASARA3」では全く描写されていません。
ものすごく違うから、ここで聞くよりウィキペディアなんかを質問者さん自身がご覧になった方が早いです。
basaraの石田三成はご存知ですよね?
でしたら、史実の石田三成についてのページは沢山ありますから、ちょこちょこっと見られます。