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知能指数と地域偏差 IQ 頭の良さや悪さ

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現在においてはほぼタブーの話しであるが、知能指数には地域偏差がある。


知能指数 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%83%BD%E6%8C%87%E6%95%B0#.E7.94.9F.E6.B4.BB.E7.92.B0.E5.A2.83

生活環境

IQは、生活環境によって大きく変わるとされている。たとえば1923年の研究では、イギリスの運河船の上で生活している子供は、学校出席率は全日数の5%で、両親が非識字の場合が多い。先天的なもので文化や環境の影響をうけにくいと考えられていたレーヴン漸進的マトリクスによる流動性知能の検査でも、これらの76人の子供の知能を測ったところ、平均IQは69.6であった。なお、4–6歳では平均IQは90、12–22歳では平均IQは60であり、成長とともに知能の伸びが低くなっている。これは流動性知能と呼ばれるものも、教育の有無が大きく影響している事を示している[6]。

また、僻地の生活者も平均IQは低いとされる。1932年の研究では、アメリカのワシントンD.C.西部のブルーリッジ山脈に住む子供を対象に知能検査をしたところ、山のふもとの村の子供のIQは76–118だったが、山間部の子供のIQは60–84だった。また運河船の例と同じように、年齢が高いほどIQが低くなっている[6]。

また、離島の児童も平均IQは低いとされる。広島大学の武村一郎らによる1965年の研究では、瀬戸内海の人口7千人の島の小学生152人に対して田中ビネー知能検査を実施したところ、男子の平均IQは92、女子の平均IQは80であった。なお、IQ75以下は22%と著しく多かったが、本土の特殊学級の知的障害児との比較では、知能検査のうち学習経験に左右される検査問題では、離島のIQ75以下の児童は低年齢で正答率が低く、高年齢で正答率が高いという特徴があり、一般的な知的障害児とは違いがあった。この研究グループでは、この現象を「離島性仮性知的障害」と名づけている[6]。

なお、生活環境のみならず、検査時の環境や体調によっても大きく変化するが、これは他の検査でも同様であるため、「心理検査」で詳述している。


これは先天的素質と後天的学習による獲得での総合指数が知能指数と相関するならば、その環境が大きく影響するということである。

無論、私はこれが人間そのものを決定する要因だとは思っていない。
人間を人間足らしめる要素はその倫理観による判断力と実行力である。
エリート大卒だからと言って、違法な行動の訴求は免れない。等しく裁かれるべきである。
中卒だからと言って、正しいことをすればきちんと賞賛されて然るべきである。

ただ、この地域偏差と先天性的特質によるマイナスの減衰、あるいはその地域的偏差による先天性的特質をむしろ生かしたことを今後の教育に適用すべきではないだろうか。

地域偏差による後天的学習であるがこれらは、今後、インターネットでの大学講座であるムークスと、ネットでの情報がそれらを埋めるだろう。
問題は先天性的特質である。

日本人にしてからがそうである。日本人はある面では頭がかなりいいが、ある面では頭がかなり悪い。

例えば、日本は先進国とは称しながらも、世界に影響を与えた自ら自身による根源的発明というのが殆どない。鉄道、高層ビル、潜水艦、ロケット、飛行機、コンピュータ、船、火薬、紙、文字・・・それらは輸入された後に、あたかも日本刀を研ぐが如く、その素材からは創造もしない加工を施すのが得意とする民族であった訳だ。

が、これからは根源的発想をも発信して行かねばならない。欧米を勉強して飛躍するだけではなく、その根源的発明をもせねばならないだろう。新たなる発明・発見をせねばならない。それは日本としての野心という訳ではない。生き残る為である。今後経済発展戦争において、世界の人口ボーナスに応える形でBRICs、あるいネクストイレブンが台頭してくる。当然、人口が経済に直接影響を与えるので、少子化に悩む日本は不利でしかない。ここで人口に頼るか、あるいはその産出するクオリティに頼るかで答えが変わってくる。

それに必要なのは哲理的な根源への考察である。
アメリカのシャノンが情報理論を打ち立てた時に、その二値によるコンピュータの進化は開始された。そこからの発展は知られるとおりである。通信、データベース、情報処理、プログラム、解析、クラウド、仮想、ビッグデータ・・・企業で言うならば、apple、Google、oracle、adobe、sunmicrosystems、vmware・・・全てアメリカだ。

今までは欧米諸国の製品を真似ていた、という屈辱に耐えねばならなかったが、今後は欧米諸国の哲学、世界の根源的定理と成り立ちを学んで企業に生かさなければならないのではないか。

日本人にとって苦手なのは根源的な解を求めたり、抽象性のある思考をすることである。
私の体験した企業だけが特殊であったのかもしれないが、明示的な言語化は避けられる傾向があり、問題を分析する為の抽象化をしようとしても「お前、それ考えて何になるってんだよ」と言われる。
当初は私がそれらを理解できないくらい頭が悪いのが原因だと思ったが、他の企業のやり方を見てみると、やはり問題の分析や、あるいはリーダーはどう動くべきかのレクチャーがきちんとしていたり、あるいは組織をどう動かすかの基本方針がきちんと決められ、そして文書化されている。あの会社での仕事がうまくいってなかったというのは、決して私の頭が悪いだけではなかったと今では安心している次第である。

話しは逸れたが、どうにも人間(日本人だけかもしれないが)というのは、ツーカーでわかることしか言いたくなく、問題の分析や言語化、文書化、抽象化というのを避ける傾向にある。
この抽象化というのもかなり誤解を受けていて、物事の根源的本質的解を追っていく、という問題解決の為の重要なプロセスであるのに対し、何やら「わけを分からなくすること」として認識している人も多い。

例えば、有名なエレベータ問題で、エレベータの待ち時間が長すぎて苛立っている利用者から苦情が寄せられた。これにどう対処する? という問題が出た時、「エレベータを性能が良いものに交換する」という案は至極当然ではあるが、しかし費用がかかり過ぎる。ここでの適正解は、「エレベータの待ち合いスペースに等身大の鏡を置く」とされる。利用者は待っている間に自分自身の姿をチェックするので、苦情は少なくなった、というわけだ。
多くの人は「なーんだ」と考えてここで終わる。私は苛立つ。憤る。どうしてそこで終わるんだ? と。この話しを進めてみよう。

この問題は段階的な推察や思考が裏で働いている。「エレベータの待ち時間が長すぎて苛立っている利用者から苦情が寄せられた」という元々の解決すべき根源的解というのは「エレベータの性能が悪い」ということではない。「エレベータを待っている人が何らかの理由で不満に陥っているので、それを解消せねばならない」というのがこの件に関する根源的課題なのだ。

わかりやすく図解で書くとこの問題は次の構造に分析できる。

(A)利用者から不満が出ている
   ┗(B)エレベータの到着までの待ち時間が体感的に遅い。

この世の物語や社会構造、問題などは必ず階層化できる。
この件では僅か2階層に分割でき、1階層だけ上がっただけだが、必ず解決すべき要素に辿り着くはずである。
この問題で解決すべきは上述の(B)ではなかった。その根幹を為す(A)こそが解決すべき要素だったのである。

ものによっては5階層以上も遡ることもあろうが、こうした手順的思考が日本人には欠けている。そして逆に言えば、一旦その原因が突き止められたのであれば、日本人はそれを真面目に遂行する能力が備わっているのである。

さて、昔を思い出してしまったのでここに書いておこう。
その階層と抽象的思考ができなかった例である。

反省 – とめどもないことをつらつらと
http://blog.goo.ne.jp/booter/e/279af8e184e92186f60d5cb61ec09590


日本の場合はこれをなんとかせねばならない、そう思う。



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