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漫画の王様と謳われた赤塚不二夫ってどんな人???

マンガ

赤塚不二夫。世間で彼の名を知らない人はいないと言ってもいいほど超人気漫画家である。今回はそんな赤塚不二夫という男の一生を追う。

「利口になるより、バカになるほうが大変なんだ」と語りギャグを求めて、誰よりも『面白いこと』に命を捧げていました。歴代のアシスタントや多くのアイデアマンに支えられながら作品を完成させていきますが、才能の持ち主たちから「この人のためにしてあげたい!」と思わせる魅力あふれる人物像が伺えます。そして優秀なアシスタントであればあるほど、手元に置きたくなってしまいますが次々と自分のアシスタントたちを一本立ちさせていきます。アシスタントを独り立ちさせるたびに、赤塚不二夫としての創作の源は絶たれていくにもかかわらず・・潔い姿もまた魅力のひとつともいえるでしょう。

「心の中にある絶対にぶれないもの」これが赤塚の原動力であり、大人気漫画が生まれた最大の理由なのかもしれない。優秀なアシスタントを独り立ちさせていく姿からも、赤塚の、漫画を次世代へと受け継いでいかなくてはならないという使命感のようなものを感じる。

・「自分が最低だと思っていればいいのよ。一番劣ると思っていればいいの。そしたらね、みんなの言っていることがちゃんと頭に入ってくる。自分が偉いと思っていると、他人は何も言ってくれない。そしたらダメなんだよ。てめぇが一番バカになればいいの。」

「バカ」が実は一番賢かったりして。自分の凄さを鼻にかけた人を、どうしても好きになれないのはたしかです。様々な人々との交流を持っていた赤塚不二夫先生。
彼のこのような態度が人々を惹きつけたのでは。

・「バカっていうのは自分がハダカになることだ。世の中の常識を無視して、純粋な自分だけのものの見方や生き方を押し通すことなんだよ。バカだからこそ語れる真実っていっぱいあるんだ。」

「自分として生きる」ことって、少しバカなのかもしれません。何もかもをさらけ出すなんて、滑稽に見えるのかもしれません。
しかし、その滑稽さが語るものこそが、人間にとって大事なのではないでしょうか。

赤塚の名言「自分が一番バカでいい」は、私が今回赤塚の人生を追う中で一番印象に残った名言であるが、この本質を貫き続けることがはたして正しいことなのか思うときがある。等身大の自分でいること、何も飾らず「そのままであり続けること」はその分、自分に向ける他者の本心を目の当たりにし続けることでもあるからだ。 しかしそれでも私は、赤塚のこの名言を信じて生きたいと思う。

~多くの漫画家たちが共に生活したトキワ荘って何?~

トキワ荘とは、当時の売れっ子漫画家・手塚治虫が「漫画少年」編集部の誘いで住み始めたことから、漫画家を志す若者たちが全国から集まり、寝食を共にした2階建ての木造アパートである。

ただし、手塚治虫が入居していたのは、昭和28年から29年の約一年間で、実質的なまとめ役は、寺田ヒロオだった。寺田を中心に「新漫画党」という新人漫画家のグループが結成された。

彼らが入居した当時は、戦後まもない日本で漫画を書くことが「不良行為」と見なされる時代だったので、彼らにとってここは、同じ志をもつ仲間と思う存分、漫画に打ち込める素晴らしい環境であった。こうして、トキワ荘は実力ある若手漫画家が集まり、のちに「漫画家の梁山泊」と呼ばれるまでになった。トキワ荘の当時の家賃は、1ヶ月3千円(敷金3万円、礼金3千円)。

・トキワ荘の主な入居者:

手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄(安孫子素雄、藤本弘)、鈴木伸一、石森章太郎、赤塚不二夫、森安なおや、水野英子、よこたとくお。

戦後まもない日本で漫画を書くことが「不良行為」と見なされていたなか、このような名だたる漫画家たちがと共に生活し、漫画を描いていたということを想像するとわくわくする。お互いに刺激しあい、切磋琢磨したこのトキワ荘での経験は彼らを人気漫画家とした一つの大きな要因であろう。

赤塚不二夫は「人生はギャグだ」を生きるモットーにしていました。デフォルメされたキャラクターによるナンセンスなストーリーで人々を爆笑の渦に巻き込みました。革新的なセリフや動作も大流行になり、彼は「ギャグマンガの王様」と呼ばれました。

この赤塚のモットーには考えさせられるものがある。
現代において、人々は何かに常に追われているような感覚をおぼえている人が多い。高い目標をもつことはとても素晴らしいことではあるが、心身を無理にけずってまでする必要はあるのだろうか。
人生を悲観視するのではなく、ある意味楽観視することが大切であることをこのモットーから教わったような気がした。

1.無職・童貞という「最底辺」だからこそ共感できる

一見若い女性がそっぽを向くような状況ですが、本作ではこれが女性にウケてヒットの要素となりました。

その背景として、雇用が不安定になり経済格差が拡大する現代の社会状況があるでしょう。企業をはじめとした所属集団は従来のように私たちを守ってくれなくなりました。「無職で童貞」はマイナスではなく、むしろ「受け入れやすさ」や「親しみやすさ」というプラスの効果をもたらしているのです。

2.閉塞した社会を起点にした成長の物語

その上で本作が提供するのは、成長物語であり、若者の未来像です。

本作では「ドラえもん」や「サザエさん」のように前回までの全ての顛末がリセットされるわけではありません。作中で描かれた挑戦や失敗は、翌週のネタや設定として部分的に引き継がれ、物語がつむがれています。そしてそこからは、手酷い失敗をしてもなお包摂されているという人間関係への安心感や、諦めずに挑戦し続けるなかで少しずつ変化するキャラクター像を読み込むことができます。

赤塚のギャグ漫画家としての確固たる人気を確立した作品のひとつである「おそ松さん」
漫画自体は50年前に書かれたものなのに、最近また人気となったわけとは。。。
漫画の世界において、作品が世の中に認められ人気となるのは偶然のできごとではないと思う。社会情勢や、人々の趣味嗜好をうまくつかんだものだけが人気となるのだ。
「おそ松さん」は上記の理由から、現代に生きる人々の心をうまくつかみ、人気となったのだ。

~タモリとの関係~

福岡で生活しつつ、カンパの資金により月1で上京して「素人芸人」として即興芸を披露するという一種の二重生活を送っていたが、同年夏、面白いことをやっている人間がいるという噂を聞きつけた赤塚不二夫が訪れる。即興芸に心酔した赤塚は、8月末に生放送が決定していた自らの特別番組へ出演させることを決意。タモリは放送までまだかなり日数があったため、福岡に帰ることを望むが、「タモリの芸をもっと見たい、福岡に帰したくない」と考えた赤塚は、常人ではありえない発想で引き止める。それは、当時(1975年)、赤塚が住んでいた4LDKのマンションや、保有するベンツのスポーツタイプなど、それら全てを自由に使っていいから東京に残ってくれとの懇願であった。タモリはこれを了承。結果、赤塚宅での居候生活が始まった(タモリや赤塚らは「居候」と言っているが、実質的には「生活スペースの交換」(赤塚は福岡に住んだわけではないのでこの言葉も当てはまらない)。タモリが考える居候の秘訣は、「卑屈になるな」。

赤塚を師匠と慕うタモリ。赤塚の告別式で弔辞読んだのもタモリである。そしてその弔辞は白紙だったという。
何も見ないで自分の思いをありのままに伝えるタモリの姿に、感動する人も多かったのではないだろうか。
赤塚とタモリ、この二人には想像を超える深い絆や関係があったのだろう。



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