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六条合戦に登場する山県源内について詳しく教てください。具体的には下の名前とその事績、最悪名前さ…

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六条合戦に登場する山県源内について詳しく教てください。具体的には下の名前とその事績、最悪名前さえわかれば嬉しいです。
後ついでに宇野弥七も教えてください。
信長の野望で若狭の武田氏があまりにも弱いので底上げしてあげたい笑笑
知ってる方いらっしゃいましたらご協力お願いします。

  1. 匿名 より:

    山県源内という人名は信長公記にしか記述がありません
    源内を徹底的に詳しく追ってみます

    ・・・

    以下、六条合戦の場面

    『信長公記 巻二』
    六条合戦の事 永禄十二年(1569)

    「永禄12年正月4日、三好三人衆は畿内を流浪していた斎藤右兵衛太輔龍興・長井道利主従ら南方の諸浪人を糾合し、薬師寺九郎左衛門を先がけに公方様御座所の六条本圀寺に攻め寄せた。門前はまたたく間に焼き払われて寺は重囲のただ中に落ち、敵が寺内へ突入してくるのも間近と思われた。

    このとき寺内にあって公方様を警護していたのは、
    細川典厩藤賢・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・
    津田左馬丞・坂井与右衛門・明智十兵衛光秀・森弥五八・
    山県源内・宇野弥七らであった。

    このうち若狭衆の山県・宇野は隠れなき勇士と名高く、そろって敵将薬師寺の旗本勢へ突入し、並居る敵勢を切り崩して激闘した。しかし次々と押し寄せる敵兵の前にやがて力尽き、両名とも槍下にて討死した。

    他の御所勢も奮戦し、敵が突入してくればその都度これを押し返し、なかには敵勢三十騎を一度に射倒して敵が算を乱す場面も見られた。三好勢は攻めあぐねた」

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    「若狭衆山県源内・宇野弥七両人隠れなき勇士なり」

    突如初登場して、光秀以上に大活躍して、討死
    よほど太田牛一のお気に入りであったのだろうか
    ここまでの描写はなかなかない
    「六条表の花槍」の坂井直政は何も書かれて無い

    名高い勇士でありながら「永禄六年諸役人付」に名が無い
    将軍足軽衆には、上の野村越中守と明智の名がある
    源内は実在しないか渾名の場合も考えられる

    ・・・
    ここで大問題なのが、
    「山県源内」のところに注書があり、「下野守盛信」とある

    このせいで、信長公記の訳では、
    山県源内のところを山県盛信としているのが多くみられるのだ

    山県源内=山県盛信なのか?
    山県源内盛信ではなく山県下野守盛信なのか?

    ・・・

    「山県下野守」なる人物は、信長公記に後で出てくる

    『信長公記 巻二』
    山中の猿御憐愍の事 天正三年(1575)

    「7月1日信長公のもとへは摂家・清華家の面々が参礼に訪れた。また播州の別所小三郎長治・孫右衛門重宗や三好康長・武田孫犬元明・逸見駿河・粟屋越中・熊谷伝左衛門・山県下野守・内藤筑前・白井・松宮・畑田といった面々もそれぞれ在洛して信長公へ参礼」

    越前御進発、賀越両国仰付けらるるの事

    「8月15日殊の外の風雨を衝いて織田勢の先手が動きだした。海上からは粟屋越中・逸見駿河・粟屋弥四郎・内藤筑前・熊谷伝左衛門・山県下野守および白井・松宮・寺井・香川・畑田各氏の水軍が攻め寄せた。丹後から加わった一色満信殿・矢野・大島・桜井各氏の水軍も合わせて都合数百艘となった船団は、船旗をなびかせて津々浦々へ押し上がり、諸所へ火焔を立ちのぼらせた。これに対し越前衆からは円光寺党および若林長門父子が応戦に討って出たが、迎撃した明智光秀・羽柴秀吉勢により簡単に破られてしまった。明智羽柴両勢は潰走する敵勢を追い崩して二、三百人を討ち取り、敵方両将の城まで押し入って完全に焼き払った。討ち取った首は15日中に敦賀へ届けられ、信長公へ披露された」

    ※山県下野守が大活躍したようである

    ※このことから「山県源内」と「山県下野守」は別人だとわかる

    天正元年(1573年)丹羽長秀の与力・若狭衆
    逸見昌経、内藤越前守、香川右衛門大夫、熊谷直澄、山県下野守、
    白井光胤、粟屋勝久、松宮玄蕃、寺井源左衛門、武藤景久

    ※「山県下野守」は丹羽長秀の与力であり、信長の直臣である

    しかし山県下野守○○の名は何か?
    注書の「下野守盛信」とは何者か?

    ・・・
    一次史料より

    『東寺百合文書』

    文安二年(1445)
    「山県、東寺の荘園太良荘の半済権を武田信賢より与えられる」

    若狭国守護武田信賢奉行人連署奉書案・享徳元年(1452)11月3日
    山県下野守(信政)殿、粟屋長行

    武田持明書状案・享徳元年11月4日
    「東寺領太良庄反銭事、自上様免状之事、山縣下野守殿」

    天文十九年(1550)八月十七日「武田信豊書状・山県秀政副状」
    天文十九年(1550)八月廿六日「武田信豊書状・山県秀政副状」
    (本境寺文書)

    『言継卿記』元亀元年九月二十日条
    「朝倉方についていた武田信方は信長方に寝返った、
    そして山県秀政や大飯郡の武藤友益・粟屋右京亮らも寝返った」
    (尊経閣文庫所蔵文書)

    元亀元年(1570)12月
    「山県秀政、小浜長源寺の3か条を裁決し、
    出仕せず連判に名を連ねて寺を破ろうとする動きを禁止す」
    (長源寺文書)

    『若狭郡県志』
    「文明九年(1477)斯処之地頭寄供米料一石、
    又元亀二年(1571)山県下野守秀政或作政冬寄供米料一石」

    元亀二年
    若狭国阿奈志神社「山県秀政或寄進」

    ・・・
    上記のことから、若狭で山県家は1450年頃に小領主であり、
    当主は下野守を名乗っていた
    1452年頃には、下野守信政
    1550年頃には、下野守秀政という領主がいたことになる

    つまり上の信長公記の山県下野守は山県秀政となる
    若狭守護・武田元信か元光の子の山県秀政である

    系図、文書などから【山県秀政】を調べていこう
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    『甲斐信濃源氏綱要』(原文ママ)

    武田元信
    武田元光

    盛信
    母佐々伊代守高成女
    下野守従五下源内 為山縣石見守頼冬継嗣若
    劦太郎庄城主

    (盛信の子)
    元盛
    母佐々木氏高女 法名無二一夢 細川藤孝招
    丹州住栗田元盛妻者藤孝妻妹也於丹後国卒

    政信
    永禄十一戊辰八十五生於太郎庄城 号山縣
    源七郎改号吉田
    天正若州滅亡之時年十五缶定俊扶佐之

    女子
    粟屋越中守妻

    女子
    熊谷大善亮妻

    (元盛の子)
    政盛
    源二郎 母治田勘解由女

    直盛
    号熊谷備中守 大善亮養子

    (政盛の子)
    國勝
    母太田飛騨守女(太田一吉娘)
    源四郎廿四之時折豊後國生害
    ・・・・・

    ※武田盛信→山県下野守従五下源内となる!

    ※盛信が源内だった??

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    文書から山県秀政を

    山県秀政(15??~15??)(推定生年・1510~20年頃)
    源三郎・下野守・盛信
    系図に「盛信」とあるが、文書の記名は「秀政」である
    つまり「秀政」が公式名である

    若狭守護武田元信の四男として生まれる
    山県頼冬の養子となり、三方郡藤井城主として藤井村を領す
    (若狭国志・若狭守護代記)

    「高野山過去帳」には小浜の人とあり、
    おにゆう郡内での活躍が多く見られる

    本境寺の寺役免、妙楽寺への奇進、長源寺の淀書制定、
    長源寺・谷田寺への安堵、等
    天文19年より天正8年まで三十年間にわたる発給文書がある
    (本境寺文書・妙楽寺文書・長源寺文書・谷田寺文書)

    ・・・

    以上のことから、まとめると
    秀政=盛信=源内
    武田元光か元信の子の、武田源三郎盛信が
    山県家の養子となって山県下野守秀政と名乗った
    「山県下野守秀政」=「山県下野守盛信」=「下野守従五下源内」
    で間違いない

    源内は二人いたのだ!
    「山県下野守」ではない「山県源内」はだれなのか?
    では山県家に他に源内がいたのか?

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    徹底的に若狭の山県家をまとめてみると

    山県孫三郎(15??~157?)
    三方郡賀羅岳城主
    元亀元年(1570)10月「賀羅岳城の戦い」
    武田信方が山県孫三郎のガラガラ城を攻める
    ガラガラ城=賀羅岳城
    山県孫三郎信定?

    わかりやすい「ガラガラ城の戦い」
    https://www.youtube.com/watch?v=F5DKVweCeSM

    ※太郎庄城と賀羅岳城の関係は不明

    山県頼冬(15??~15??)
    三方郡藤井城主
    官途は石見守
    室は佐々木高成の娘

    山県元盛(1533~15??)
    山県盛信の嫡男
    官途は式部大夫
    室は沼田清延の娘
    後に細川藤孝に属した

    山県元之(15??~15??)
    山県盛信の次男
    通称源七郎
    別名山県政信

    山県政親(1555~15??)
    山県元盛の三男
    通称源三郎

    ・・・

    山県孫三郎とは何者か?
    1530年頃に盛信は山県を継いで秀政となったのか?
    山県頼冬のなんらかの親族が「源内」なのか?
    「源内」のなんらかの親族が「山県孫三郎」なのか?

    「源内」が討死した1569年時点で確実にいたのは
    【山県下野守秀政】
    【山県孫三郎】
    【山県源三郎政親】

    いたのかわからないのが
    【山県式部大夫元盛】
    【山県源七郎元之】

    いないのは
    【山県石見守頼冬】

    ・・・

    山県一族を分けてみると

    山県主家・太良荘城=太郎庄城=藤井城
    【石見守頼冬】【下野守秀政】【源七郎元之】

    山県分流・細川家臣
    【式部大夫元盛】【源三郎政親】

    山県分家・賀羅岳城=ガラガラ城
    【山県源内○○】【山県孫三郎】

    これで合うのではないか!

    山県源内○○の、○○はまったく不明だが

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    回答

    ・1569年に討死した山県源内は、
    源三郎盛信=下野守従五下源内=山県秀政とは、別人です

    ・1569年に討死した山県源内を山県盛信とするのは誤訳です

    ・1569年に討死した山県源内の名は不明です

    ・もう一人の源内である山県秀政は、
    「本能寺の変」後に明智光秀に味方したらしいのだが、
    その後どうなったのか一切不明です

    ・・・・・・・・・・・・補足1・・・・・・・・・・・・・

    『続群書類従 第八輯上』塙保己一編
    【山県源七郎元之伝】若狭の武将山県元之の詳細な伝記

    こういう書物が存在するようだが、これを確認できない
    内容次第では、源内の謎が解けるかもしれない!

    ・・・・・・・・・・・・補足2・・・・・・・・・・・・・

    宇野弥七はまったく素性が不明
    若狭に宇野家があったのか?
    播磨の宇野家の縁者なのか?
    太田牛一の書き間違いか?
    「宇野」は当て字で、宇埜・烏野・卯野・鵜野・海野も有りえる
    宇野弥七は、その存在を確かめる史料が存在しない



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