鬼島津って戦国最強武将ですか? 天下分け目の関ヶ原の戦いで敵中突破したのは本当ですか? 鬼島津って 2022/8/19 本 🔊 AI音声で読み上げ 鬼島津って戦国最強武将ですか? 天下分け目の関ヶ原の戦いで敵中突破したのは本当ですか? 鬼島津って島津義弘のことですよね? 何で鬼島津と呼ばれてたんですか? 鬼島津はゲームで最強みたくめちゃくちゃに強いんですが、何で有名じゃないんですか?
島津氏の四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)は、元々ひいき目(高評価)に見られる向きがあります。
豊臣秀吉の九州征伐で島津氏は秀吉の軍門に下ります。この時の島津氏の当主は義久でしたが、ここで養子(義弘の子の忠恒)に当主を譲り、豊臣政権に対する折衝(窓口)は義弘が担当しました。義久には男子が無かったので、義弘が後見役となり、以後の島津家は義弘の系統(流れ)になりました。
合戦については、沖田畷の戦い(対龍造寺氏)や戸次川の戦い(対豊臣軍)で圧勝したのは四男である家久の功績で、大友氏を衰退へ導いた耳川の合戦も、義弘以外に義久・家久も活躍しての勝利です。
このように、合戦そのものは「軍略の家久」と称される四男の家久の方が上手であると私は考えていますが、義弘が猛将として評価されるのは、朝鮮出兵(慶長の役)の「泗川の戦い」で、三万~四万の明・朝鮮連合軍に対して七千の島津軍で完勝したこと、そして関ヶ原合戦の敵中突破の話が評価されてのことだと思われます。
「鬼〇〇」というのは「ものすごく強い」という意味の形容ですが、例えば
・鬼美濃(馬場信房)
・鬼武蔵(森長可)
・鬼義重(佐竹義重)
・鬼道雪(立花道雪)
など、同時代に複数の武将が呼ばれていました。
義弘の場合は、前述した「泗川の戦い」の際に、敵兵から「鬼石曼子」(ぐいしまんず:鬼島津)と呼ばれて恐れられたのが由来です。
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例えば、三國志の呂布や張飛のような個人的な武勇でいうなら、私は上杉謙信の重臣だった柿崎景家が戦国最強武将だと考えています。
あきれるほど強かったらしく、戦場で敵に当たる勢いは「鉄をも貫きかねない」と言われ、この手の猪武者にありがちな短慮さもあり、謙信からも「和泉守(景家のこと)に思慮分別が有ったなら、越後七郡で彼に敵う者は居ないだろう」と言われていました。
鬼がそんなにいたとは驚きです(*_*)
敵から本当に鬼みたく強いから鬼島津と呼ばれちゃった由来がスゴイですね。
戦国カードに豊臣秀吉と徳川家康が一番怖れた猛将らしい。,国語の先生はただの「鬼っ❗」と呼ばれていました★,最強として有名だけど、真田幸村や武田信玄よりは有名じゃない様な気がする。,鬼島津、ゲームではめちゃ強いですね。
「信長の野望創造」で、
織田信長:武勇87、統率99
島津義弘:武勇94、統率94
武勇では織田信長よりも鬼島津の方が強い‼★,でも織田信長、徳川家康、豊臣秀吉とかと比べると低いですよね?
ゲームセンターの「戦国大戦」の島津義弘(鬼島津)武将カードに天下分け目、関ヶ原の戦いで、徳川家康軍に突撃して家康本陣をブッチ斬って徳川四天王の井伊直正を銃殺して、中国20万大軍をたった一人でやっつけた鬼神と記載されっス‼
鬼や~♪
皆はんアザース‼★
回答にはなっていませんが、
鬼美濃って言うのは、
元々、同じく武田家の
原虎胤の呼ばれ方で、
原虎胤が死去した後に、
それを引き継いだのが馬場信房です。
なので、本家というか、本当の鬼美濃は原虎胤の異名かと。
あくまで個人の武将としても能力、実績で言えば戦国最強は山中幸盛だと思っています。山中鹿之助と言った方が有名でしょうか。
もし幸盛にその気があったらすぐにでも大名になれるほど武功も人望もあったそうですが、あくまで主家の尼子家に忠義を尽くした武将です。
すごーく有名ですよ。
信長の野望だと、戦闘系の能力では毎度ベスト10に入るくらいの能力設定ですね。
伊達、武田のように過剰評価とする意見は少ないので
多くの人の認識もそれくらいだと思います。
鬼島津と呼ばれたのは強いからです。
当時の武将を調べると、渾名が鬼○○は結構います。
いずれも猛将です。
関ヶ原の前退や、朝鮮での四川の戦いが有名ですが
九州の桶狭間と言われる木崎原の戦いなども凄いです。
300対3000の戦いで自ら先陣に立ち、257名を失いながら勝ったのですから
知名度の低さは、大河ドラマになったことがないこと(韓国に遠慮)
脇役で出てきても、せいぜい関ヶ原の戦いくらいで
信長、秀吉、家康との関わりが薄いからですね。
まあ、有名ですよ。
前回の大河でも、候補でしたし。朝鮮に配慮してやめにしたそうですが。