basaraでは幸村と政宗が ライバル同士ですが実際の歴史ではどういった関係だったのか教えてく… 2022/8/19 歴史 🔊 AI音声で読み上げ basaraでは幸村と政宗が ライバル同士ですが実際の歴史ではどういった関係だったのか教えてくれませんか?
豊臣政権下では政宗は奥州58万石の大大名、
片や幸村は信州上田3万8千石の小大名の次男坊でした。
ライバルというには身分・立場が違いすぎますし、
実際に数百人にものぼる大名武将の中では
さすがに二人の間に接点はほとんどなかったと思われます。
その後時代は変わり徳川の世になると、
幸村は関ヶ原の敗戦により所領を失います。
関ヶ原の戦いでは幸村も政宗もそれぞれの地元で戦っており、
二人が戦場で出会う事はありませんでした。
両者が直接戦ったのは「大阪の陣」における「道明寺の戦い」だけです。
この戦いでは徳川方の伊達勢が大阪方の先発隊を打ち破り、
さらに遅れてきた後続の真田勢に攻め寄せる形で戦闘が展開されました。
結果は真田勢が有勢であったものの、別方面の部隊が敗北したとの知らせを受け、幸村は兵を後退させます。
この戦いで活躍したのは片倉小十郎景綱の息子の小十郎景長ですが、
その日の夜、景長は幸村の子供達を保護しています。
一説には昼間の戦闘で景長の戦いぶりを見込んだ幸村が自分の子供達を託したとも伝えられています。
翌日の「天王寺口の戦い」で、幸村は徳川勢の大軍に突撃し、討ち死にします。
景長が匿ったその子供の内の一人は、後に景長の妻となりました。
実際の戦国史において、幸村と政宗はライバル関係といえるような接点はほとんどありませんでしたが、
同じ時代で活躍した、個性的で魅力的な武将である事には間違いありません。