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神道と仏教の対立が元になって戦乱や大きな争いが起こったことはありますか

仏教

神道と仏教の対立が元になって戦乱や大きな争いが起こったことはありますか

  1. 匿名 より:

    日本書紀では、552年(欽明天皇13年)10月百済の聖明王が西部姫氏達率怒喇斯致契等を遣わし、釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を贈って仏教を
    http://urano.org/kankou/kitayama/minaya07.html#uma
    伝えたとされていますが、それから、30年ばかり経って、584年(敏達13年)蘇我馬子が仏殿を造って、鹿深臣(かぶかノおみ)と佐伯連(むらじ)らが百済から持ち帰った弥勒の石像と仏像一体を石川精舎に安置し、二人の尼に奉仕させたのが、
    http://urano.org/kankou/asuka/asuka7.html#honmyo
    我が国における仏教の始まりで、翌年(敏達14年)蘇我大臣稲目宿弥が大野丘の北に豊浦寺を建立したけど、これを6月物部守屋らが焼き、ここに仏教庇護の蘇我と、排除の物部が立って、587年(用明2年)4月天皇が群臣に詔して「朕(われ)、
    http://urano.org/kankou/asuka/asuka6.html#kaugenji
    三宝に帰(よ)らむと思う、卿等議(いましらはか)れ」と云われたけど、物部守屋大連と中臣勝海連らが「何ぜ国神に背き、他神を敬うや」と云い、蘇我馬子宿弥大臣が「詔に随ひて助け奉(まつ)るべし」と云って、いよいよ対立が激化し、ついに、同

    年7月崇仏派の聖徳太子14歳を始め、泊瀬部皇子、竹田皇子、難波皇子、春日皇子、紀(き)男麻呂、巨勢(こせ)比良夫、膳賀托夫、葛城鳥那羅、坂本、平群(へぐり)、阿倍、春日、大伴咋(くい)らと共に蘇我馬子が排仏派の仏敵・物部守屋の

    討伐を決意し、共に河内国(大阪府八尾市)稲村城へ攻め込んだが、朝廷の軍事を預かっていた物部の軍兵は強く、三遍も退却し、そこで聖徳太子が白膠木(ぬりで)の木を切り取り、素早く四天王像を刻み、頭髪の上に置き、「今もし我を敵に勝
    http://urano.org/kankou/topics/taishi/index.html#sitennouji
    たしめ給うなら、必ず護世四王のために寺塔を建てん」と誓い(戦勝後、大阪の四天王寺を建立)、また、信貴山の毘沙門天から戦勝の必法と六目の鏑矢(かぶらや)を授かり、その結果、何とか守屋の首級を上げ、やっと勝利を得ました。 なお、
    http://urano.org/kankou/ikoma/ikoma17.html#tyougoson
    物部と蘇我の仏教争いを逃れて、太子の母・間人皇后は、その間、丹後半島大浜の里へ退座(たいざ)し、争いが済んでから、斑鳩に遷座されたが、京都府丹後町間人(たいざ)とは、冬場に幻の間人(たいざ)ガ二(松葉ガニ)の獲れる所です。

  2. 匿名 より:

    聖徳太子は闘いに勝ったらお寺を立てると
    誓いを立て
    その通りに
    四天王寺を建てました

    4詳しいいきさつは、きっと、他の方が書いてくれることでしょう。

  3. 匿名 より:

    5世紀末だったかな。
    蘇我氏と物部氏が、仏教の導入の是非を巡って戦乱になりました。
    結果、蘇我氏が勝って、聖徳太子は、国の基本に仏教を置くことになりました。

    詳しいいきさつは、きっと、他の方が書いてくれることでしょう。



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