寺田ヒロオさんことテラさんは、トキワ荘に住んだ二人目の漫画家です。
一人目は漫画界の歴史に燦然と輝く、神様・手塚治虫さんです。
手塚治虫さんは「漫画少年」という雑誌を発行していた学童社の編集者・加藤宏泰さんにトキワ荘を紹介してもらい、住み始めました。
テラさんも新潟から学童社を頼って上京し、加藤さんに紹介されて住んだのです。
その後トキワ荘では、藤子不二雄の二人や石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さんといった、漫画界のレジェンドたちが一緒に暮らして切磋琢磨していきました。
手塚治虫さんは、三番目に入居した藤子不二雄の二人が入る前に退去していました。
若い漫画家の中でテラさんは兄貴分として慕われ、漫画家としての人気も頭一つ抜けていました。
そんなテラさんですが、若くして断筆してしまったこともあり、代表作もあまりしられていません。
断筆した理由と劇画との関係についても書いていきます。
寺田ヒロオの代表作
テラさんの漫画はすべて、少年漫画でした。
学童社の少年漫画雑誌「漫画少年」の理念に基づいて漫画を描いています。
「漫画は子供の心を明るくする 漫画は子供の心を楽しくする だから子供は何より漫画が好きだ」
という、「漫画少年」の創刊号に、学童社の実質的な社長である加藤謙一が書いた言葉です。
テラさんは野球をやっていたこともあり、野球漫画が多いです。
寺田ヒロオの代表作「スポーツマン金太郎」
「スポーツマン金太郎」は「週刊少年サンデー」(小学館)の創刊号から連載を始めています。
同作のサンデーでの連載は1959年から足掛け4年間ですが、小学館の学年誌(「小学一年生」とか)でも連載をしました。
最後は「小学二年生」の1970年3月号ですので、10年以上続くヒット作となったのです。
ちなみに、サンデーとマガジンは日本初の週刊漫画雑誌として、同日に発売されました。
小学館と講談社の熾烈な争いがあったのです。
当時の漫画雑誌は誌面のすべてが漫画ではなく、読み物も多くありました。
サンデーとマガジンの両誌とも、漫画の連載は5本です。
その5本、両誌合わせて10本に選ばれたということは、日本のトップの漫画家ということになります。
以下、創刊号の連載タイトルと作家名になります。
「週刊少年サンデー」小学館、表紙・長嶋茂雄(プロ野球、巨人軍)
・「スリル博士」———–手塚治虫
・「スポーツマン金太郎」—寺田ヒロオ
・「南蛮小天狗」———–益子かつみ
・「海の王子」————-藤子不二雄
・「宇宙少年トンダー」—–横山隆一
「週刊少年マガジン」講談社、表紙・大鵬(相撲、横綱)
・「左近右近」————-忍一兵
・「13号発進せよ」———高野よしてる
・「疾風十字星」———–山田えいじ
・「もん吉くん」———–伊東章夫
・「冒険船長」————-遠藤政治
「スポーツマン金太郎」の単行本の発行部数などは資料がなくわかりませんが、第1回講談社児童まんが賞を受賞したほど、評価もされていたのです。
寺田ヒロオの代表作「背番号0」
もう一つの代表作「背番号0」も野球漫画です。
「野球少年」(芳文社)に1956年1月号から1960年4月号まで連載しました。
「野球少年」での連載終了後は、小学館の学年誌にも連載をつづけたほど、愛された作品なのです。
テラさんが野球漫画を描くのには理由があります。
当時、サンデーの創刊号の表紙に長嶋茂雄が起用されたほど、プロ野球人気が高かったことがひとつです。
もう一つは、テラさん自身が野球の選手だったのです。
新潟県立新発田高等学校では球部に所属していました。
さらに、卒業後は警察の事務職に就職しますが、電電公社(現NTT)の電報電話局に転職し、社会人野球の投手として都市対抗野球に出場したほどの腕前なのです。
昔の言い方ですと、セミプロです。
藤子不二雄Aさんが以前にラジオで言っていましたが、テラさんが試合で投げる姿をプロ野球のスカウトが見に来ていたほどだったようです。
寺田ヒロオの代表作「暗闇五段」
代表作は他に「暗闇五段」という柔道漫画もあります。
サンデーで1963年から約一年間連載された後に、千葉真一さん主演でテレビ朝日系でドラマ化されたほど人気でした。
東映の有名なプロデューサーの山田正久さんは、スポーツアクション三部作のうちのひとつに、「暗闇五段」をあげています。(ほかの二作は「空手三四郎」「アタック拳」)
寺田ヒロオが断筆した理由と、劇画との関係
テラさんの性格は精錬潔癖で、まっすぐです。
それは、漫画の道を選んだことからもわかります。
高校卒業後は地元の警察に就職し、その後、転職して電電公社(現NTT)という安定企業での生活基盤があったのです。
その道を捨てて漫画を選んだということからも、漫画に対する並々ならぬ思いがあります。
そしてテラさんの漫画に対する思いは、「漫画少年」の加藤謙一さんが書いた一文です。
「漫画は子供の心を明るくする 漫画は子供の心を楽しくする だから子供は何より漫画が好きだ」
漫画は当初、子どものためのものであり、加藤さんの一文を体現していました。
テラさんの作品がこれにあてはまります。
ただ漫画が世の中に認められその技法や内容も発展していく中で、残酷なシーンなども多くなっていきます。
清廉潔白な内容だけでは、子どもの心をつかめなくなってきたのです。
そして大人向けの漫画も多くなってきました。
それが劇画の登場です。
劇画は、漫画表現の手法です。
青年向け漫画を、子供向けの漫画と区別するために作られたひとつのジャンルです。
当時の劇画の代表的な漫画家は、劇画工房という漫画家の集まりを主催した辰巳ヨシヒロさんです。
そして劇画工房のメンバーには「ゴルゴ13」の作家であるさいとう・たかをさんもいました。
劇画は殺人のシーンや、子どもが見るに堪えない場面が多く出てくるのです。
テラさんは、この時代の流れが許せなかったのです。
当然、テラさんが連載している漫画雑誌にも劇画が掲載されます。
そこでテラさんがとった行動は、編集者を呼び出し、劇画の連載をやめさせようとしたのです。
編集者、そして出版社としては人気のある劇画作品の連載を終わりにすることはできません。
この判断を聞いたテラさんは、なんと自ら、連載をやめてしまうのです。
このことを知った手塚治虫さんやトキワ荘の仲間たちは、テラさんをたしなめようとします。
しかし、テラさんの気持ちはゆるがず、漫画界から身を引いたのです。
ではテラさんの漫画への情熱が無くなってしまったのかというと、そうではありません。
テラさんが愛した「漫画少年」は出版元の学童社の倒産によって1955年に廃刊となってしまいましたが、その復刊を画策したのです。
ただ雑誌を作るのはお金も人も必要です。
それを個人で用意することはできません。
当時、「漫画少年」は廃刊から20年以上経ち、雑誌そのもののバックナンバーがすでに残っていない号もありました。
テラさんはそれを危機ととらえ、『漫画少年』史』という本を作り、漫画少年の各号の表紙や掲載内容、そして一部の漫画をこの本に掲載したのです。
「漫画少年」の火を絶やさないように動いたのです。
この仕事を最後にテラさんは出版界から一切、身を引いたのです。
健康問題から手塚治虫さんの葬式にも参列できず、トキワ荘の仲間の漫画家との交流もなくなっていきました。
テラさんは亡くなる2年前の1990年、自宅にトキワ荘の仲間を呼び、酒を酌み交わしました。
藤子不二雄Aさん、藤子・F・不二雄さん、赤塚不二夫さん、石ノ森章太郎さん、ラーメン大好き小池さんのモデルとなった鈴木伸一さん、つのだじろうさんです。
この再開を最後に、トキワ荘の仲間とも一切連絡を取ることをやめ、1992年9月24日に62歳の若さで亡くなられました。
家族とも顔を合わせず、ひとり自宅の離れに住み亡くなっていったことについて、藤子不二雄Aさんは「緩慢な自殺」と言っています。
テラさんがずっと漫画を描いていたら、どれだけの傑作を生みだしていったのかと思うと、残念でなりません。
まとめ
・テラさんの代表作は「スポーツマン金太郎」「背番号0」「暗闇五段」
・断筆の理由は漫画が子どものためのものでなくなり、劇画の興隆が許せなかった
・「漫画少年」の火を絶やさないために自ら『「漫画少年」史』を発行した