マイナーな戦国武将・人を教えて下さい 今、DSの「信長の野望DS2」をプレイ中なんですが、&#823… | 質問の答えを募集中です! マイナーな戦国武将・人を教えて下さい 今、DSの「信長の野望DS2」をプレイ中なんですが、&#823… | 質問の答えを募集中です!

マイナーな戦国武将・人を教えて下さい 今、DSの「信長の野望DS2」をプレイ中なんですが、̷…

信長の野望 戦国武将

マイナーな戦国武将・人を教えて下さい

今、DSの「信長の野望DS2」をプレイ中なんですが、オリジナルの武将を作ろうと思っても、なかなかアイディアが出てきません。
そこで皆さんのお知恵を拝借したいのです。

「この人は目立たなかったけど思い入れがある!」とか「この武将は歴史の表舞台にはあまり出てこないけど、生き方が惚れる」など、あなたが好きな戦国武将や人を教えて下さい。

  1. 匿名 より:

    塚原卜伝などいかがでしょうか?
    足利義輝の剣術の師です。
    シナリオ的にはかなり高齢になってしまいますが、強いですよ♪

  2. 匿名 より:

    あ、剣術が強い人ですね!それでは足軽適正Aにします!いただきます!,ありがとうございます!立花道雪はすでに武将ファイルに入っていましたが、バックストーリーを知ることが出来て勉強になりました。,ありがとうございます!改易を免れたとのことで、知将の適性をつけたいと思います。,たくさんの武将をご紹介いただき、ありがとうございます!それぞれの背景なども書いていただき感謝です!参考にしながら武将を作成していきます。,ありがとうございます!功を人に譲るというあたりが奥ゆかしくて気に入りました。こういう人、最高です。野望は「低」にし、義理は「高」にします。,ありがとうございます!忍者は欲しかったのでよかったです!水軍の人も火薬を使うとのことで、鉄甲船に乗せてガンガン攻めたいと思います。

  3. 匿名 より:

    立花道雪

    大友宗麟の家臣、下半身が不自由でありながら常に陣頭指揮を採り常勝無敗

    裏切りがつきものの戦国にあって最後まで大友家一途に仕えた、その名は全国に知れわたり、武田信玄からファンレターが届いたほどだった

  4. 匿名 より:

    秋月種実
    筑前の豪族。古処山城主。文種の次男。毛利家の援助を受け、居城を大友家から奪回した。豊臣秀吉の九州征伐軍に敗れ「楢柴茶入」を献上して改易を免れた。

  5. 匿名 より:

    こんばんは

    もしかしたらもうあるかも知れませんが、

    ●松田 康郷

    別称は康江、孫太郎、六郎左衛門。松田憲秀とは従兄弟の関係。
    智勇に優れ、主家の北条家の勢力拡大に大きく貢献。

    永禄9年(1566年)の下総国の「臼井城の戦い」でも大活躍。

    上杉謙信軍15000の侵攻を受けた臼井城の守備兵は2000ほどで、たちまち落城の危機となりました。
    北条氏配下の松田康郷は包囲前に150騎程の援軍を率いて臼井城に入城していました。
    臼井城の城主の原胤貞は、たまたま滞在していた白井入道浄三に指揮権を委譲。
    そして白井浄三の指揮で臼井城軍は意表をついて上杉謙信軍に向けて突撃。
    第1、2陣が開いた血路に第3陣の松田康郷らが突撃して上杉謙信の本陣の直前まで切り込み、上杉謙信軍をその日は撤退させました。

    この戦の際に朱色の甲冑、具足という赤備えの装備で現れた康郷の働きを見て、上杉謙信が、
    「岩舟山に赤鬼の住むと沙汰しけるは、一定彼がことなるべし。」
    と感嘆し、「鬼孫太郎」、「松田の赤鬼」などの異名が知れ渡りました。

    (岩舟山は栃木県栃木市にある日本三大霊山の1つで赤鬼が住むと伝承がありました。)

    漆黒の巨馬にまたがり先頭を走り、向かい来る敵兵を長刀で斬り殺し、刀が役に立たなくなると樫(かし)の棒で馬上の敵を打ち倒し、素手で首をねじ切りという大活躍だったそうです。

    結局、翌日も白井浄三の策略にはまり上杉謙信軍は大敗して臼井城攻略をあきらめて撤退させられました。上杉謙信の生涯最大の敗戦といわれます。

    その後も各地で活躍しますが、北条家の滅亡後は結城秀康に仕え70歳で死去しました。

    ●土屋昌恒

    武田勝頼に仕えて各地で奮戦。
    長篠の戦いでは兄の昌続・養父の貞綱がともに戦死した為に土屋家を継承しました。
    信長の甲州征伐において、裏切り・逃亡者が続出する中で勝頼に最後まで付き従い大奮戦しました。

    足場が不安定な崖の1本道に踏み留まり、落下防止の為に片手は木の蔦を巻き付けて、もう一方の片手で刀を振るい続けて織田軍に大損害を与えて勝頼親子の自害の時間を稼ぎ、勝頼親子の自害を聞いた後、もしくは十分時間を稼いだと判断した後、壮絶な自害を遂げたと言われています。

    俗に「片手千人切り」などと言われています。

    ○また、豊臣秀吉の九州征伐前に島津氏は九州統一寸前だったといわれますが、結構、島津氏は各地で分遣・別働隊が敗北や壊滅をしてしまっています。
    地味ですが、そんな奮戦した大友家家臣たちから幾名かを。

    ●帆足 鑑直

    豊後・日出生城城主。
    島津義弘軍から分遣された新納忠元の軍は、豊後の玖珠郡に侵攻。
    角牟礼城の森五郎左衛門を攻めるも、角牟礼城は天然の要害であり苦戦。
    ならばと豊前国との国境に近い日出生城の攻略に向かう。

    ところが帆足鑑直は、城を空にして妻の鬼御前と共に自ら三百騎を率いて出陣、また二百騎馬を山中に伏せ新納忠元の陣する松尾野山麓を急襲し狼狽する新納軍を追い落とした。この戦は大将の新納忠元もが重傷を負う島津軍の敗戦となった。

    ●阿南 惟秀

    島津義弘軍は豊後国直入郡の岡城の志賀親次を責めるも苦戦。
    一部を包囲軍として残して北上を続け、更に西方の支城の笹原目城、駄原城など分遣隊に攻撃させた。

    ところが、駄原城では『朝倉一玄』の「留守の火縄」という奇策に敗れて、大将の逆瀬豊前守が戦死する大敗を喫した。
    (朝倉一玄は、信長の野望・創造にてDL無料追加された模様)

    一方、笹原目城の城代の阿南惟秀は島津軍の白坂石見守に即座に降伏。
    100ほどの少勢では当然。阿南惟秀は涙ながらに島津軍に忠誠を誓った。
    白坂石見守は阿南惟秀を城の搦め手の守将に任命するほど信用した。

    ところが岡城で包囲されていた志賀親次が包囲網をかいくぐって派遣した中尾伊豆守率いる300が笹原目城へ攻め寄せて来た。
    白坂石見守は「敵は少勢」と侮り迎撃に出陣。
    ところが中尾勢は1400の伏兵を含めた総勢1700であった。
    白坂石見守は中尾勢の追撃を振り切りながら笹原目城に逃げ込もうとしたが、突然城門が閉じられた。
    そして城の櫓の上に姿を見せた阿南惟秀は言い放った。

    「島津の阿呆ども!この地を最後とするがよい!」

    島津軍は完全に阿南惟秀にはめられたのである。
    総崩れとなった島津軍は退却途中に大将の白坂石見守も戦死してしまいました。

    ●狭間 鎮秀

    正に「悲運の武将」とも言うべき人物です。

    若武者として大友氏の南方の日向国の土持氏の城の攻略への功績から、大友宗麟より感謝状を受けるなど活躍します。

    耳川の戦いの大敗時にも

    「大丈夫だ。敵はおれが引き受けた。おまえは避難しろ」

    と重傷の同僚をかばって奮戦し、手勢を多く討たれるも同僚と共に帰還しました。

    そして、その後、島津軍の九州統一の北上軍が迫る中、豊後大友館で当主の大友義統を守っていましたが、大友義統は家臣の反対を振り切り豊前の国境に近い高崎山へ撤退。
    各地ではまだ大友家臣が孤軍奮闘しているのに…。
    高崎山に着いた大友義統は、

    「もう大丈夫。わしのなじみの女を連れて来い!」

    これを聞いた多くの大友家臣が大友家を見限ったとか。

    狭間鎮秀も地元の堅城の権現岳城に帰りますが、そこで島津家久旗下の新納久時軍4000をわずか400で迎え撃ちます。
    狭間鎮秀は矢の雨を降らせ、大木、岩石を落とすなど大奮戦。
    手を焼いた島津軍は1ヶ月後に何とか講和。

    ところが他の大友家臣らが「講和は裏切り」と義統に讒訴。
    狭間鎮秀は奇襲して討ち取った島津軍の首九つを持参して義統に面会して許されました。

    しかしその後、しばらくして他の大友家臣らに再び讒訴されて義統より追討され、逃走中に討死を遂げました。

    幾多の手柄を立て、領民にも人気のある武将の無念の最後でした。

    ・最後に、応仁の乱時に活躍した人物を。

    ●朝倉孝景

    朝倉氏の7代目当主。(朝倉義景は11代目当主です。)
    朝倉氏は三管領家の1つの斯波氏の重臣の家系でした。

    当時の斯波氏は、斯波義敏と斯波義廉が対立してコロコロ当主の座が変わったりしていますが、応仁の乱の勃発時には斯波義廉が山名宗全の西軍に参加しましたから朝倉孝景も西軍に参加しました。
    そして、応仁の乱の勃発時の御霊合戦を始めとして、上京の戦い、相国寺の戦いなど主要合戦に参戦して大活躍をしました。

    また、資料が少なく詳細が不明ですが、東軍陣営においてゲリラ戦を仕掛けて西軍に手を焼かせた足軽大将の「骨皮道賢」を討ち取ったのも彼でした。

    当時の8代将軍足利義政が西軍に対して追討令を発布すると西軍陣営に動揺が起こり、一時は西軍諸大名の多くは賊軍になるのを恐れて降伏を申し出る者も多かったが、斯波義廉に対する降伏の条件は「朝倉孝景の首級」を持参する事でした。
    いかに朝倉孝景軍が東軍陣営から危険視されていたかがわかりますよね。

    ところが応仁の乱は混沌としていたことからもわかる通り、応仁の乱の勃発から4年ほどして、朝倉孝景は将軍・義政及び管領・細川勝元から越前国の守護権限行使の密約をもらって東軍に寝返りました。

    朝倉孝景は斯波氏の家臣にしか過ぎませんから、越前国守護権限を認められるのは異例中の異例です。
    それだけ朝倉孝景の実力が買われたという事でしょうね。

    越前国へ帰国した朝倉孝景は、当初は苦戦するも、やがて連勝を重ねて実力で越前一国をほぼ手中に収め斯波氏に代わり正式に越前守護に任じられました。

    その後は斯波氏側の反撃もあって苦境に立たされる中、54歳で死去しました。

    そして嫡男の氏景がその跡を継ぎ、3人の叔父経景・景冬・光玖の助力を得て越前を統一を果たし、織田信長時代の戦国大名の朝倉氏へと発展していく事になりました。

    この様に、朝倉孝景は軍略に優れ、智・仁徳を備えた大将であったと後世に評価されている人物です。
    連歌・和歌などにも親しみ、当時の武将としては珍しいくらい合理的な考えを持っており、「孝景条々17か条」を残しています。

    『朝倉始末記』によると、孝景は豆を食べる時は兵卒と共に掴んで食べ、酒は家臣と酌み交わし、朝は早く起きて夜は兵卒を励まし、傷ついた者を治療しその死を悼んだ。
    その為に朝倉軍の兵卒は孝景と水魚の交わりの如く忠義を尽くしたと記述されているそうです。

    朝倉氏を戦国大名へと導いた朝倉孝景は非常に魅力ある人物だと思いいますよ。

    以上、参考になれば幸いです。 m(_ _ “)m

  6. 匿名 より:

    不破矢足。(ふわやそく)
    稲葉山城乗っ取りの竹中半兵衛の選んだ16人のひとりの精鋭です。
    このとき荒法師と戦って手首を損じている隻腕の勇者です。

    なにしろこの人、功を人に譲ったり、語らなかったりで、およそ世に出ません。
    黒田松寿丸を実質預かったりしたのですが、ドラマなどには、およそ出てきません。

    浅井の手練れ遠藤直経が、親友の首を手に織田の陣地深く入り込み、あと一歩で信長の首に手がかかるところでしたが、たまたま浅井家に寄宿したことのある半兵衛の弟が見破り討ち取ってあげたのですが、功を全て譲っています。

    片頬に瘤のあるスイーツ男子だそうです。

  7. 匿名 より:

    ・大川平次渦正 (おおかわへいじうずまさ)
    生年:1500年前後

    若い頃より天才忍者としての頭角を顕し、1550年頃忍術学園を設立。
    教師・生徒含め多くの優秀な忍者軍団を従える。

    ・兵庫 第三協栄丸 (ひょうご だいさんきょうえいまる)
    生年:1532年
    兵庫水軍の総大将。
    船酔いするため海上での戦闘力は低いが、陸地では火薬などを使った大規模戦闘が得意。
    指揮能力が高く、部下からの信頼も非常に厚い。



 ⬇人気の記事!⬇

タイトルとURLをコピーしました