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[三国志] 蜀を少し詳しく 編 [三国志]

三国志

三国無双でお馴染みのキャラクターを少し詳しくまとめてみました。

三国無双でお馴染みのキャラクターを少し詳しくまとめてみました。

草履売りから将軍へ 人望のかたまり

劉備 玄徳(りゅうび げんとく) 生没年161年~223年

[黄巾の乱]で世に出る事になった劉備は馬の群れを盗賊から守る護送団のリーダーとして参加。
この時には、関羽・張飛もすでに一緒に居た。

しかし、史実の劉備は[三国志演義]や[三国無双]の様なやさしい人物ではなくかなりワイルドなんです。
自分を見下した督郵(検察官)を杖で200回も打って捨てて逃げる等なかなか凄い事を平気でやっちゃいます。

しかし、人望と人を見る目だけは確かなので、20歳も年の離れた諸葛亮の元へ3度も自分から会いに行く等、先見の明は優れていたみたいです。

黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の、魏・呉・蜀漢による三国鼎立の時代を生じさせた。

陳寿が著した史書『三国志』の蜀書先主伝には、劉備は情に厚く人望がある人物で漢の高祖劉邦を思わせるものがあり、「英雄之器」を持った人物であったと書かれている。

国中を震撼させた神話的「美髭公」

関羽 雲長(かんう うんちょう) 生没年162~219

蜀の五虎将の一人。
魏の曹操からも愛され、一時曹操の元に捕虜としていたのは有名だが、全く捕虜というのには適してない扱いだった。
褒美や爵位を曹操から与えられたばかりか、堂々と曹操の元から劉備の元へ去る等、曹操でも関羽の劉備への義理には勝てなかった。

かなりプライドが高かった様で、当時最強を誇っていた馬超が蜀へ入る時に諸葛亮に「馬超と俺はどっちが上だ!?」と聞き諸葛亮が「馬超は張飛と互角、髭殿には及びません」と持ち上げた話もある。

蜀漢の創始者である劉備に仕え、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。後漢から贈られた封号は漢寿亭侯。諡が壮繆侯(または壮穆侯)だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた(爵諡を参照)。
悲劇的な死を遂げたが、後世の人間に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となり、47人目の神とされた。

劉備が曹操に反乱を起こして袁紹の元に逃げると、曹操の捕虜になった。ちょうど袁紹と曹操が戦っている最中であったが、曹操は、関羽の義に惚れ込んでおり、どうしても関羽を手元に残したいと思ったが、功を立てると必ずや劉備のもとに戻ると思い、様々な贈り物をしたが関羽はこれらを封印して受け取らなかった。白馬の戦いで顔良を手ずから討ち取った功績を土産にして、5つの関所を突破し、袁紹の下にいる劉備の下へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して彼を追っては成らないと言い聞かせた。

乱暴でおっちょこちょい、愛すべき武将

張飛 益徳(ちょうひ えきとく) 生没年168~221

五虎将の一人。

その武勇は「一人で一万に匹敵する」と言われていたが実は計略や用兵も巧みだった。
張飛一番の見せ場はやはり[長阪橋の大喝一声]でしょう。
大敗を喫して逃げる劉備軍の殿をつとめ迫る曹操軍に向かって「張益徳とは俺の事だ!命が惜しくない者からかかってこい!」と叫んだという。

後漢末の群雄の1人である劉備の挙兵に当初から付き従った人物で、その人並み外れた勇猛さは下述の通り中原に轟いた。その武勇は後世にも称えられ、小説『三国志演義』を始めとした創作作品でも多くの脚色を加えて取り上げられており、現在でも中国や日本を中心にその人柄を大いに親しまれている。

劉備が旗揚げして以来、関羽と共に付き従い、劉備を助けた。蜀漢の役職は車騎将軍。劉備・関羽とは兄弟の様なつきあいをしていたと言う。関羽の方が数年年長の為、関羽に兄事していた。
演義では、『蛇矛』という一丈八尺の鋼矛を愛用している。子供については、男子は張苞・張紹、女子は敬哀皇后・張皇后がいる。

蜀軍のパーフェクト司令官

趙雲 子龍(ちょううん しりゅう) 生没年?~229

五虎将の一人。

謹厳実直の言葉が最も会っている。
そして、劉備・諸葛亮に面と向かって諌める事の出来る将軍。
益州を手に入れた劉備が、城中の田畑や屋敷を諸将に分け与えようとした時趙雲は「民衆に還すべき」と主張した。
関羽の弔い合戦を強行しようとする劉備に「敵は魏であり呉ではない」と諌めたり、[街亭の戦い]で囮役が見事だった趙雲に諸葛亮が褒美に絹を与えようとすると「負け戦なのに何故褒美ですか?蔵にしまって冬の支度品として皆に与えて下さい」と辞退した。

堅物の様に思えるが、筋の通ってる将軍なのです。

劉備の入蜀時には荊州に留まった。建安18年(213年)、諸葛亮に率いられ張飛とともに長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州(重慶)から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた。上記『趙雲別伝』によれば、益州支配後に劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした際、反対したとの記載がある。

正史の注釈にある『趙雲別伝』(現在は散逸)によると、趙雲は身長八尺、姿や顔つきが際立って立派だった。故郷の常山郡から推挙され、袁紹と戦っている田楷の援軍として劉備を派遣した際に随行し、劉備の主騎(騎兵隊長)となった。

◇ 馬超

関羽・張飛と並ぶ武力の「錦馬超」

馬超 孟起(ばちょう もうき) 生没年176~222

五虎将の一人。

蜀軍に馬超が加わる前から馬超は全国に知られていた。
曹操をとことんまで追い詰め、「あの小僧が生きている限り、私は埋葬される土地もない」と、曹操にも恐れられていた。
しかし212年、曹操は馬超の父・馬騰と一族200人を皆殺しにした。
この後、馬超は蜀に加わると知名度や実力から前将軍・関羽、後将軍・黄忠に次いで右将軍の張飛と同格の左将軍に任命された。

中国全土が揺れた一件でした。

父が羌族との混血であったため(『典略』)、この血を引いている馬超も漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚かった。関中の独立軍閥の長の座を父から引き継ぎ、曹操に服属していたが、後に韓遂と共に曹操に反乱を起こして敗れた。一族も勢力も失い流浪した末、益州の劉備の下に身を寄せ、厚遇を受けた。

211年、馬超は韓遂、楊秋、成宜らと共に兵を挙げ、時の朝廷の権力者である曹操と対立したが、曹操の臣の離間策に合うなどして潼関の戦いで敗北し、西方の羌族の地に逃れた。この際、馬超の挙兵の責任を問われ、父の馬騰と一族二百人あまりが皆殺しにあっている。

忠誠心のかたまりの天才

諸葛亮 孔明(しょかつりょう こうめい) 生没年181~234

古今東西の学問に精通した博学が働かずに悠々自適な生活をしていた所に大企業の社長が3度も直接会いに来るってとつもない事ですね。

実は諸葛亮は劉備が亡くなるまで軍事に関わった記録がないのです。
何をしていたかと言うと、主に経済と軍需を担当していました。

しかし、諸葛亮が軍事に携わる様になってからは蜀はやることなす事上手くいき、漢王中の再興に向けひたはしっていたが、志半ばで諸葛亮は病に倒れてしまう。

諸葛亮が後20年早く生まれ、軍事に携わっていたら間違いなく三国志の歴史は変わっていましたね!

司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。

出典諸葛亮 – Wikipedia

諸葛亮は181年に琅琊陽都県の官吏の家で生まれ、8歳の時に父を失いました。16歳になり、彼の才能が抜群でも当時、彼を認める人は一人もいませんでした。しかし友人である徐庶、崔州平などは彼の才能を評価していました。当時、彼は「臥竜」とも呼ばれ、襄陽の名士司馬徽、龐徳公、黄承彦などとも交流がありました。

◇ 姜維

蜀最後の名将は波乱の最後

姜維 伯約(きょうい はくやく) 生没年202~264

関羽・張飛・趙雲と蜀を支えた将軍達が次々と亡くなった後、諸葛亮が最も期待した男。
仕事も忠実・軍事にも長け・兵士の気持ちが分かり強さなら趙雲に匹敵すると言われていた。

しかし、蜀の重役になったが姜維の出身が辺境であった為、他の官僚や上司に気に入られず孤立してしまった。
その人達を諌める諸葛亮も、もう居ない・・・そんな中姜維は蜀の為に頑張りました。

蜀は魏に攻略されてしまい、姜維は蜀を再び独立させる為に鍾会という占領軍の将軍をそそのかしたが、鍾会共々処刑される。

姜氏は代々「天水の四姓」と呼ばれる豪族だった。幼少時に、郡の功曹だった父が異民族の反乱鎮圧に従軍し戦死したため、母の手で育てられた。郡に出仕して上計掾となった後、召されて雍州刺史の従事となった。その後、かつての父の功績が取り上げられて、中郎の官を贈られ、天水郡の軍事に参与することになった。

元気な老兵は蜀軍きっての猛将

黄忠 漢升(こうちゅう かんしょう) 生没年?~220

五虎将の一人。

老雄・黄忠は劉備軍きっての猛将で、正史にも[常に真っ先に駆けて敵地を陥としその勇敢さは劉備軍の筆頭であった]とある。

219年の定軍山の戦いでは黄忠自ら、敵の総大将の夏侯淵を討ち取るという大勝利をおさめた。

因みに、三国志演義によるとこの時の黄忠は70歳を超えていたというが、正式には何歳か分からないのです。

黄 忠(こう ちゅう、 拼音: Huáng Zhōng ? – 220年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。字は漢升。荊州南陽郡(現在の河南省南陽市)の人。子は黄叙。劉備に仕え、益州や漢中の攻略等で活躍した。

赤壁の戦いののち、劉備が荊州南4郡を平定した時、黄忠は劉備に仕え、それに従って益州に入った。劉備軍の一将として劉璋を攻撃し、いくつかの陣地を攻めおとすなどその勇猛さは軍の中でも鳴り響いていた。益州平定後、討虜将軍に任命された。



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