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「徳川四天王」功績まとめ 酒井 忠次 本多忠勝 榊原康政 井伊直政 …

歴史

徳川家康の創業を助けた徳川「四天王」の功績をまとめました。

徳川四天王(とくがわしてんのう)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称。

酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての徳川氏の家臣。

徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。

織田軍の猛将「柴田勝家」を敗走させる

弘治年間の初期頃より福谷城に住んでいる。弘治2年(1556年)、柴田勝家に2,000騎で福谷城を攻められた忠次は城外に出て戦い、激しい攻防の末、勝家を敗走させている。

吉田城を無血開城させる

永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、酒井忠尚を始め酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、忠次は家康に従った。

永禄7年(1564年)には吉田城攻めで先鋒を務め、守将の小原鎮実を撤退させ、無血開城によって城を落とす戦功を立て、戦後、吉田城主となっている。

姉川の戦いでは朝倉軍に突撃する

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは姉川沿いに陣取り、小笠原信興の部隊と共に朝倉軍に突入して火蓋を切った。

武田軍の小山田信茂隊を打ち破る

元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは右翼を担い、敵軍の小山田信茂隊と激突し、打ち破っている。

勝頼の叔父・河窪信実等を討ち取る

天正3年(1575年)の長篠の戦いでは分遣隊を率いて武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦からの強襲を敢行、

鳶巣山砦を陥落させて長篠城を救出した上に勝頼の叔父・河窪信実等を討ち取り、有海村の武田支軍をも討つ大功を挙げている。

戦後に信長から「背に目を持つごとし」と賞賛された。

信濃国衆を懐柔する

家康は信長横死後に空白地帯となった武田遺領の甲斐・信濃の掌握をはかり(天正壬午の乱)、

同年6月27日には忠次を信濃へ派遣して信濃国衆の懐柔を図る(『家忠日記』)。

豊臣軍の猛将「森長可」を敗走させる

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは羽黒の戦いで森長可を敗走させる

本多 忠勝(ほんだただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。

上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。

通称は平八郎(へいはちろう)。

徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。

13歳で初陣をする

永禄3年(1560年)13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した。

14歳で初首を挙げる

鳥屋根城攻めで忠真の部隊に属し、この時忠真が槍で敵兵を刺しながら忠勝を招き、「この首を取って戦功にしろ」と言ったが、

忠勝は「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」と言って自ら敵陣に駆け入り敵の首を挙げた

改宗して武功を上げる

永禄6年(1563年)9月の三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げた。

朝倉軍の豪傑「真柄十郎左衛門」との一騎討ち

元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。

この時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩した。

この戦いにおいて忠勝は朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せた。

武田軍との殿戦を成功させる

元亀3年(1572年)の二俣城の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いでは偵察隊として先行し、武田本軍と遭遇。

報告するために撤退するが、武田軍に追撃され、大久保忠佐と共に殿軍を努める

坂下という不利な地形に陣取り、馬場信春の部隊を相手に奮戦し、家康率いる本隊を逃がし撤退戦を無事に完了させた。

武田軍の重臣「山県昌景」を撃退

三方ヶ原の戦いでは左翼を担い、山県昌景隊と戦い、撃退している。

また犀ヶ崖に陣取った武田軍に夜襲をかけ、武田軍を大混乱に陥らせて、多数の死傷者を出させる武功を挙げる。

長篠城を落とす

天正元年(1573年)の長篠城攻めでは9月に堀越で榊原康政等と共に武田軍を破り、獲得した長篠城に入り、城を守っている。

500の兵で16万の豊臣軍に立ちはだかる

天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いでは、当初忠勝は留守を任されたのだが、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き

忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、5町(約500m)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、

さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたが、この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去った。

豪胆な振舞いや活躍などにより、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛された

榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。

上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。

徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。

13歳で初陣をする

三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。

旗本先手役に抜擢される

19歳で元服。同年齢の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。以後も家康の側近にあって、旗本部隊の将として活躍

姉川の戦いで武功を挙げる

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てている。

武田軍を壊乱させる

元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは家康撤退時に康政は浜松城に入らず、昼間のうちに浜松城に入れなかった味方兵を呼び集めて夜を待ち、一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ、動揺し逃げ惑う武田軍を瓦解させてから浜松城に入ったという

長篠の戦いで家康を守る

。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは決死の覚悟で徳川本陣に突撃してくる内藤昌豊を本多忠勝と共に戦って家康を守ったという。

豊臣軍を壊滅に追い込む

天正12年(1584年)、家康が信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立し、小牧・長久手の戦いに至る。

この合戦で秀吉の甥・秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、森長可、池田恒興を討ち死にさせた。

『武備神木抄』では、康政は武勇では本多忠勝に劣るが、部隊の指揮官としての能力は忠勝に勝り井伊直政に匹敵するとされている。

井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。

上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。

徳川氏の家臣。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、

現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。

高天神城の戦いで武功を立てる

高天神城の戦いの攻略を初めとする武田氏との戦いで戦功(家康の寝所に忍び込んで来た武田軍の忍者の討ち取りなど)を立てた。

北条氏との講和交渉を担当

天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し、家康が武田氏の旧領である信濃国・甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数に付属されて一部隊を編成することとなり、士大将になった。

「赤備え」を継承

その部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、その代表が山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を継承した井伊の赤備えという軍装であった。

小牧長久手の戦いで武功を挙げる

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになる。

小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えを纏って兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた。

小田原城内に攻め込む

天正18年(1590年)の小田原征伐では数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ武将としてその名を知られる

東北遠征でも武功を挙げる

奥州仕置の九戸政実の乱でも仕置軍の先鋒を務めた。

関ケ原では軍艦に任命される

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。

同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、直政の誘いや働きかけにより、京極高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込んだ。

井伊直政の政治力

関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和交渉役を務め、輝元からは直政の取り成し、特に周防・長門の2か国が安堵された事に感謝され、今後の「御指南」役を請う起請文を送られている。

小牧・長久手の戦いでは直政が同盟交渉にあたる

長宗我部元親とは入魂の仲であったとされ、その息子で同じく親しい間柄にあり、意に反して西軍に与する事となった盛親の謝罪の取次を仲立ちをした。

徳川氏と島津氏の和平交渉を仲立ちし、外交手腕を発揮している。

真田昌幸と次男・信繁(幸村)の助命にも尽力した。これは、東軍に味方した昌幸の長男・真田信之の懇請を受け入れたもので、信之は将来まで徳川家に尽くすだろうと考えての行動だったという。

家康が上洛し、豊臣秀吉に臣従すると、直政の武勇・政治的手腕を秀吉は高く評価し、11月23日に従五位下に叙位させ、豊臣姓を下賜したという。

聚楽第行幸の際には、徳川家中で当時筆頭家老であった酒井忠次を始め、古参の重臣達が諸大夫に留まる中、直政のみが昇殿を許される一段身分が上の公家成に該当する侍従に任官され、徳川家中で最も高い格式の重臣となった。

評価

毛利家の重臣である小早川隆景は直政の武勇・政治的手腕に関して「直政は小身なれど、天下の政道相成るべき器量あり」と評価したことがある。これは直政がその気になれば、天下を取ることもできるということを意味している。

関ヶ原の戦いが終結し、鍋島勝茂から直政の作法や容儀や勢いが言葉にも述べられないほど見事であったと賛辞を呈され「天下無双、英雄勇士、百世の鑑とすべき武夫なり」と評された

「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」との記録があるように、美男子として知られ、家康が豊臣秀吉に従属する前に、家康に懐柔策のため人質として送られてきた秀吉の母・大政所やその侍女達が、直政に惚れ込んだという。

『武備神木抄』では、康政は武勇では本多忠勝に劣るが、部隊の指揮官としての能力は忠勝に勝り井伊直政に匹敵するとされている。

井伊直政

井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。

上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。

徳川氏の家臣。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、

現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。

高天神城の戦いで武功を立てる

高天神城の戦いの攻略を初めとする武田氏との戦いで戦功(家康の寝所に忍び込んで来た武田軍の忍者の討ち取りなど)を立てた。

北条氏との講和交渉を担当

天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し、家康が武田氏の旧領である信濃国・甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数に付属されて一部隊を編成することとなり、士大将になった。

「赤備え」を継承

その部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、その代表が山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を継承した井伊の赤備えという軍装であった。

小牧長久手の戦いで武功を挙げる

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになる。

小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えを纏って兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた。

小田原城内に攻め込む

天正18年(1590年)の小田原征伐では数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ武将としてその名を知られる

東北遠征でも武功を挙げる

奥州仕置の九戸政実の乱でも仕置軍の先鋒を務めた。

関ケ原では軍艦に任命される

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。

同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、直政の誘いや働きかけにより、京極高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込んだ。

井伊直政の政治力

関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和交渉役を務め、輝元からは直政の取り成し、特に周防・長門の2か国が安堵された事に感謝され、今後の「御指南」役を請う起請文を送られている。

小牧・長久手の戦いでは直政が同盟交渉にあたる

長宗我部元親とは入魂の仲であったとされ、その息子で同じく親しい間柄にあり、意に反して西軍に与する事となった盛親の謝罪の取次を仲立ちをした。

徳川氏と島津氏の和平交渉を仲立ちし、外交手腕を発揮している。

真田昌幸と次男・信繁(幸村)の助命にも尽力した。これは、東軍に味方した昌幸の長男・真田信之の懇請を受け入れたもので、信之は将来まで徳川家に尽くすだろうと考えての行動だったという。

家康が上洛し、豊臣秀吉に臣従すると、直政の武勇・政治的手腕を秀吉は高く評価し、11月23日に従五位下に叙位させ、豊臣姓を下賜したという。

聚楽第行幸の際には、徳川家中で当時筆頭家老であった酒井忠次を始め、古参の重臣達が諸大夫に留まる中、直政のみが昇殿を許される一段身分が上の公家成に該当する侍従に任官され、徳川家中で最も高い格式の重臣となった。

評価

毛利家の重臣である小早川隆景は直政の武勇・政治的手腕に関して「直政は小身なれど、天下の政道相成るべき器量あり」と評価したことがある。これは直政がその気になれば、天下を取ることもできるということを意味している。

関ヶ原の戦いが終結し、鍋島勝茂から直政の作法や容儀や勢いが言葉にも述べられないほど見事であったと賛辞を呈され「天下無双、英雄勇士、百世の鑑とすべき武夫なり」と評された

「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」との記録があるように、美男子として知られ、家康が豊臣秀吉に従属する前に、家康に懐柔策のため人質として送られてきた秀吉の母・大政所やその侍女達が、直政に惚れ込んだという。



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