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信長の野望大志で登録武将作ろうと思ってて、北陸に一人、九州に一人ずつくらいめっちゃ強い人欲しい…

信長の野望

信長の野望大志で登録武将作ろうと思ってて、北陸に一人、九州に一人ずつくらいめっちゃ強い人欲しいと思っています。
古代から近世までいつでもいいので、能力値が複数90超えれるような人物が居たら教えて欲しいです。
なるべく有名な人でお願いしたいのと、当然デフォルトで登場する武将は無しでお願いします。
九州や北陸が本貫だったり、本拠地だったり、生まれた所だったり、死んだ所だったりした人でお願いします。
北陸と九州片方だけでもいいのでご回答お待ちしています。

  1. 匿名 より:

    北陸由来で

    蓮如(本願寺)

    朝倉孝景(初代)

    橋本左内(自分より年少なのに西郷隆盛が尊敬)

    河合継之助(新政府軍と戦い戦傷死)

    松平慶永(幕末四賢侯の一人)

    新田義貞(北陸で戦死)

    横井小楠(熊本藩士だが越前藩の政治顧問に)

    小林虎三郎(米百俵の逸話)

    九州

    口井藤三(アンゴルモア元寇合戦記の主役の実在モデル)

    島津斉彬(江戸時代を通じ一番の名君だと目されている)

    黒田清隆(戊辰戦争などで活躍、第二代内閣総理大臣)

    天草四郎(ユニットだったという説、豊臣秀頼と繋がりあるとも)

    筑紫君磐井(ヤマト王権に盾ついて敗れた豪族)

    上杉鷹山(日向国高鍋藩主の子で養子として上杉家を立て直す)

    西住小次郎(熊本出身の戦車長、ガルパン西住みほのモデル)

    坂井三郎(佐賀出身の撃墜王、西暦2000年に没)

    菅野直(鹿児島沖で消息不明に。島津豊久が主役の『DRIFTERS』に出演、『ストライクウイッチーズ』の管野直枝のモデル)

    (最後の三人は近・現代の人でした)

  2. 匿名 より:

    北陸は知らない人が多いです(近代弱くてスミマセン)。蓮如と初代孝景と義貞くらいですね。
    義貞は上野にしてましたが、北陸に左遷するのはアリですね。関東はどうせ人材豊富な北条に制覇されるし。ただ、蓮如って畿内のイメージがありますがどうなんでしょう。大阪とか京都みたいな。
    九州は筑紫さんいいですね。南九州は島津とかいう恵まれた(人材的に)やつらが居るので北九州にテコを入れたいと思っていたので。そう考えると天草四郎も位置的にはいいかも。あとやっぱ明治のせいで島津が更に強化されてしまいそう。,鎮西八幡ではなく鎮西八郎でした。,統率、武勇、知略、内政、外政です。

  3. 匿名 より:

    ありがとうございました。

  4. 匿名 より:

    (北陸)

    ●「桃井直常」(もものい ただつね)

    鎌倉幕府~南北朝の騒乱時代の武将。
    足利氏の支族で、上野国群馬郡桃井の出身。

    弟の直信と共に勇将として活躍しました。
    おそらく「武勇」に関してはこの時代でトップクラスであったと思われます。
    「観応の擾乱」が始まると足利直義派の中心人物として活躍しました。
    また直義死後には事実上派閥を継承した「足利直冬」陣営でも中心人物として活躍しています。

    北畠顕家の二度目の上洛戦時には、関東で尊氏方の関東方面総大将格の「斯波家長」軍に加わり戦いますが敗れて「斯波家長」は戦死。
    その後彼は再起して北畠顕家軍を追いかけて美濃国の「青野原の戦い」にも手勢1000にて参加。手勢が76騎になるまで戦い自らの鎧がボロボロになったと伝わります。
    この戦いにおいて北畠顕家は勝利をおさめたものの自軍の損害も多く、顕家は伊勢国(三重県)へと転進します。

    そしてその後、大和国(奈良県)へと進軍しますが、そこには高師直率いる軍が待ち構えていました。
    そしてその「般若坂の戦い」において約半年間に渡って連戦連勝を続けていた北畠顕家軍はついに敗れました。

    その「般若坂の戦い」において北畠顕家軍を突き崩したのが桃井直常だとも言われています。いわゆる大功を挙げたのですが、実際は北畠顕家を破った功績は総大将である高師直に横取りされてしまい、後の「観応の擾乱」時に桃井直常が足利直義派となったのはこれが原因とも言われています。

    その後に越中守護にもなっています。

    観応の擾乱時に足利直義派として北陸の兵2万人を率いて足利義詮を破って京都を一時占領。
    またその5年後には足利直冬派軍として再び京都を一時占領しています。

    生涯反尊氏を貫きました。

    ※統率、武勇、知略、で90クラス、知略も優秀値を与えたい。

    (九州)

    ●「北条英時」

    鎌倉時代末期。
    鎌倉幕府の九州統括の「鎮西探題」の長官。
    足利尊氏の正妻の「登子」の兄で、幕府最後の執権でもあった「赤橋守時」の四弟です。
    和歌に優れた教養人でもあり、統治が難しい九州の地で10年以上も探題職を務めていました。

    鎌倉幕府倒幕の嵐の中、1度は反乱軍を撃破していました。
    しかし鎌倉が陥落し幕府が滅亡した3日後に、先には味方した少弐貞経、大友貞宗、島津貞久らにより攻撃され「鎮西探題」は陥落し、英時も一族240名と共に自害しました。

    ※統率と内政で90クラス、他も優秀値を与えたい。

    ●「足利直冬(ただふゆ)」

    足利尊氏の実子。
    尊氏の弟の直義(ただよし)の養子。
    「観応の擾乱」前後に九州へ下向。
    一時は九州の三大勢力の一角を形成しました。
    その後に中国地方に移りましたが、実父の尊氏と度々争い、室町幕府政権を揺るがし脅かし続けました。
    はっきり言って凡才である二代将軍の「足利義詮」を遥かに凌駕する能力の人物でした。
    中国地方や九州の探題職時代の周辺諸勢力からの評価も良かったようです。

    ※統率で90クラス、内政、外政も優秀値を与えたい。

    他の方と被りますが、

    ●「菊池武光」

    肥後国の武将。
    流浪12年の苦節を経ていた「懐良親王」を迎え入れての南朝征西府軍として九州制圧し、約11年間に渡って九州を室町幕府の支配の及ばない南朝王国というべき地にしました。

    ※統率、武勇で90クラス、知略も優秀値を与えたい。
    忠誠心のパラメーターがあれば100。
    おそらく九州では1押しの人物。

    マイナーでしょうから、以下は参考までに

    (当時の九州の情勢について)

    建武2年(1335年)

    12月
    足利尊氏は、後醍醐天皇方の討伐軍である新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り京都へ進軍を開始。

    翌、建武3年(1336年)1月

    足利尊氏は京都を占領。

    しかし1月末
    奥州から尊氏を追いかけて上洛する形となった天皇方の「北畠顕家」軍3万が来援。
    破れた尊氏は九州へと逃亡しました。

    建武3年(1336年)

    3月

    「多々良浜の戦い」

    尊氏軍は総勢1000~2000程度にて天皇方の「菊池武敏」軍20000に対して奇跡的に勝利を収めました。
    (日見和勢力もいたので菊池軍全軍が戦いに参加した訳ではありませんが…。)

    この戦いの結果により九州のほぼ全域が足利方につくこととなり、体勢を整え直した尊氏は一族の「一色範氏」らを九州の抑えとして残して再び上洛し、「楠木正成」を破るなどしてやがて室町幕府を樹立する事になります。
    しかしこの戦いの後も菊池氏などは頑強に抵抗を続けていました。

    そしてまた、
    尊氏は九州を去る時に一色範氏親子を「九州探題」として残して行きましたが、この事により、九州三人衆といわれる少弐、大友、島津らは不満を積もらせて行く事になります。
    鎌倉幕府が彼らを押さえつける為に設置した「鎮西探題」と同じ事が繰り返されたからです。

    やがてこの火種は、足利政権の深刻な内紛であった「観応の擾乱」時の
    「足利直冬」の九州下向、そして流浪12年苦節を経て肥後国隈府の菊池一族に迎え入れられた懐良親王の南朝征西府軍による九州制圧という事に繋がって行く事となります。

    正平3年/貞和4年(1348年)

    肥後の菊池氏の下に懐良親王が迎え入れられました。
    本拠地の隈府城には錦旗が翻り南朝「征西府」となりました。

    一方、約10年前の「北畠顕家」と「新田義貞」の相次ぐ戦死と「後醍醐天皇」の崩御により壊滅状態とになった南朝勢力の影響により、一応平穏となった室町幕府には深刻な内紛が発生するようになって行きました。

    正平4年/貞和5年(1349年)

    室町幕府では将軍・尊氏と共に二元政治を行っていた直義と、各地で軍事的功績のあった執事の「高師直」らとの対立からやがて内紛に発展しました。

    足利直冬は尊氏の実子ですが、なぜか尊氏から嫌悪・冷遇され続けました。
    直義はそんな直冬を自分の養子として迎え入れ足利一族の一員として厚遇しました。
    その為に直冬は直義を実の父親のように慕っていました。

    内紛の中、直義は「高師直」により一時失脚させられました
    その為に直義の養子で直義派の「足利直冬」は九州へ逃亡して来ました。

    ところが直冬は尊氏の意向で九州に下向したと偽り援兵を募集。
    これに九州探題の「一色範氏」と対立していた「少弐頼尚」が飛びつきました。
    更に他の多数の諸勢力の支持を取り付けた足利直冬は軍事行動を開始して、一色範氏を肥前国北部へと駆逐しました。

    これにより九州は

    ・足利直冬・少弐頼尚(直冬派)
    ・一色範氏 (九州探題・尊氏派)
    ・懐良親王・菊池武光(「南朝征西府」・宮方)

    という3者鼎立状態となります。

    更に観応元年(1350年)

    ついに「観応の擾乱」の勃発。
    高師直と足利直義が軍事衝突しました。

    観応2年(1351年)

    2月
    しかし第1ラウンドは足利直義派が勝利し、高師直は一族もろとも処刑されました。
    それにより足利直冬は「九州探題」に任命され、その影響力は九州一円に及びます。

    高師直一族の滅亡により平穏を取り戻したかに見えた室町幕府政権ですが、その後、直義派と反直義派の対立がくすぶっていました。

    そしてそれは「直義派」と「尊氏(反直義派)」との戦いへと発展しました。

    翌、観応3年(1352年)

    直義は鎌倉に追い込まれて降伏。

    2月末
    直義は急死。
    この直義の死を以って「観応の擾乱」は終結。
    するとその後、後ろ盾を失った足利直冬は「九州探題」職を罷免されました。

    すると「一色範氏」と「大友氏泰」は、『宮方勢力』として懐良親王・菊池武光の「南朝征西府」軍と連合して足利直冬・少弐頼尚軍を破り、足利直冬は長門国(山口県)へと逃走してしまい、一色範氏は勢力を盛り返しました。

    しかし一色範氏は足利直冬を追放し目的を果たすと、大友氏泰と共にまた尊氏の室町幕府の『武家方勢力』として行動するようになります。

    正平8年/文和2年(1353年)

    1月、
    一色範氏の「九州探題」はついに少弐頼尚を大宰府の古浦城に追い詰めます。
    落城寸前となった少弐頼尚は…。

    あろうことか、なんと年来の仇敵である懐良親王・菊池武光の「南朝征西府」に救援を求めます。

    そして菊池武光は
    「少弐家には恨みは多々あるが、室町幕府の「九州探題」の一色範氏の討伐が先。頼尚を討つのは後で良い」

    として救援に応じました。
    そして2月

    筑前国の「針摺原の戦い」において、
    菊池武光の「南朝征西府」は一色範氏軍に大勝しました。

    少弐頼尚は感涙して

    「今より後、少弐は子孫7代に渡って菊池に弓を引く事あるべからず」

    と菊池武光に血書の誓紙を送りましたが…。

    正平10年/文和4年(1355年)

    「針摺原の戦い」以後九州を席巻している懐良親王・菊池武光の「南朝征西府」に対し抗しきれずに、ついに一色範氏は「九州探題」の経営を放棄して京都へ帰還してしました。

    先の足利直冬に次いで一色範氏の退場により九州は、懐良親王・菊池武光の南朝方が優勢となり比較的平穏となりました。

    しかし

    正平14年/延文4年(1359年)

    前年末より武家方の活動が活発化し、その連携を取る形で大友氏らが挙兵。
    更にこれになんと『少弐頼尚』が加わりました。

    「血書の誓紙」は…。

    そして7月の筑後川の両軍の対陣を経て

    8月

    ついにこの時期九州で最大の規模の「大保原の戦い」となりました。
    少弐軍約70000 対 懐良親王・菊池軍30000。

    戦いは懐良親王・菊池武光自身も深手を負うなどの大激戦となりました。
    宮方軍は劣勢の中、菊池武光の奮闘により大勝となりました。
    「懐良親王」自身も戦陣の中で奮闘し、一時は少弐軍の弓攻撃の狙い撃ちに合って親王の側近の公家たちが盾となり多数戦死したと伝わります。

    2年後(1361年)

    懐良親王・菊池武光の「南朝征西府」軍は念願の大宰府を攻略。

    その後、九州は約11年間に渡って正に「南朝王国」とも言うべき状態となり、それは第3代将軍足利義満時代の「今川了俊」の攻略まで続く事となるのです。

  5. 匿名 より:

    Q「古代から近世までいつでもいいので、能力値が複数90超えれるような人物が居たら教えて欲しいです。なるべく有名な人でお願いしたいのと、当然デフォルトで登場する武将は無しでお願いします。九州や北陸が本貫だったり、本拠地だったり、生まれた所だったり、死んだ所だったりした人でお願いします。北陸と九州片方だけでもいいのでご回答お待ちしています。」

    ●北陸
    1、親鸞
    統率87 武勇24 知略85 内政90 外政88
    北陸は一向一揆や「本願寺(浄土真宗)」のイメージが強いので開祖の「親鸞」を推してみます。ただ合戦経験が無いので全てが90台は無理でした。

    2、斯波義将
    統率94 武勇85 知略90 内政94 外政95
    斯波氏最盛期を築いた名将とされます。
    とても戦に強く、内政、外交を良く行い、多くの政敵も倒し、3代将軍「足利義満」と幕府全盛時代を築いた最強の管領(執事)でした。

    ●九州
    1、懐良親王
    統率85 武勇67 知略84 内政87 外政94
    南北朝時代に大宰府に征西府を築き、明国に対して「日本国王」を名乗りました。

    2、菊池武光
    統率92 武勇95 知略74 内政58 外政64
    懐良親王の忠臣として合戦面で働きました。

    3、今川了俊
    統率94 武勇89 知略90 内政69 外政75
    九州探題となり上記の征西府と菊池武光を征伐し九州を平定しました。しかし政治が不得意だったのか晩年は幕府内の政争に負け九州探題を解任され不遇でした。

  6. 匿名 より:

    北陸
    新田義貞
    鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ人物、南朝の総大将、足利尊氏と対立し福井で敗死。
    平家物語では評価が低いが実力は本物。

    九州
    伝林坊頼慶
    中国出身の格闘家で日本に来て有名な剣豪の弟子となり、相良忍軍という忍者集団の総帥になるというキャラてんこ盛りな人

  7. 匿名 より:

    とりあえず、九州地方で。
    鎮西八幡こと源為朝(武勇100でも足りない)
    菅原道真公(統率・武勇以外は高能力)
    藤原隆家 (刀伊の入寇において活躍した貴族)
    北陸は思いついたら投稿します。

  8. 匿名 より:

    ちなみに大志の能力は、何がありますか?
    統率、武力、知力?



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